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【柳井正財団】『日本の素晴らしさを取り戻せ!?』 _4.データ分析①

「社会を良くする」奨学金プログラムと
海外留学生の「やりたいこと」

この記事は、全部で80ページ以上ある人類学の卒業論文を一部抜粋したものです。それぞれの章ごとに別々のnoteを書いたので、自分の気になる部分だけつまみ食いするのもオススメです!久しぶりに書く日本語が下手くそすぎて自分でも読みづらいなぁと感じているので、英語が得意な方はこちらから原文を読むことを推奨します。

<目次>

0. 要約(以下の動画からも要約が確認できます!)
1. 「社会を良くするために、何をしたい?」
2. 協働的な研究手法
3. 戦後日本の政治経済と教育史のおさらい
4. 極めて曖昧な「社会貢献」の解釈
5. 柳井財団の期待と奨学生の実状の乖離
6. 「あなただったら、どんな「社会貢献」がしたい?」
7. 柳井コミュニティへの提案 (Appendix)
8. 引用文献


4. 極めて曖昧な「社会貢献」の解釈

私がデータ収集を始めた時には、柳井財団が意図する「日本社会の発展」とは何なのか、様々な疑問がありました。柳井財団は、「誰のために」社会をより良くすることを目指すのか?どのような基準を用いて、5000万円の助成を受け、やりたいことを追求する価値がある人物かどうかを判断しているのか?どの規模の「社会貢献」が期待されているのか?そして、どのような時間軸で変化をもたらすべきなのか?これらの問いに対して、私は奨学金のホームページや柳井の自伝から納得のいく答えを見出すことができませんでした。たとえば、公式サイトの「財団について」のページには、「柳井正財団は、社会課題に独自の方法でアプローチし、人々が自立して、互いに尊重し合い、豊かな生活を送ることができる社会づくりに貢献します。」(The Yanai Tadashi Foundation n.d.) とあり、同ページでは、柳井自身が、膨大な数の問題とその解決策への方針を明示しています:

ホームページ内のメッセージ


彼のこのメッセージは、柳井財団が「社会貢献」の定義を非常に幅広くしていることの象徴とも言えるかもしれません。そこで私は、柳井財団が「社会貢献」をどのように理解しているかということに焦点を当て、事務局職員へのインタビューを行いました。しかしすぐに、柳井財団が「社会貢献」の定義を積極的に曖昧なまま維持していることがわかりました。インタビューのメモを読み返せば読み返すほど、分析すべき情報が全く見つからないことに違和感を感じました。やがて私は、曖昧性そのものに注目するようになりました。

一見全く中身のないようにすら見える「社会貢献」の曖昧な定義を深ぼっていくことで、現在の奨学金の仕組みや、奨学生が自分のやりたいことと「社会貢献」の間の絶妙なバランスを両立させようとする際に感じる葛藤を論理的に理解することができました。そこで本章では、財団と柳井スカラーがアプローチする「社会貢献」に見られる極端な曖昧さについて詳しく説明し、この曖昧さがもたらす影響について、主に三点の主張をしたいと思います。まず第一に、財団は奨学生に具体的な問題解決を求めないことで、この奨学金プログラムを日本の国際的評判の改善をするための戦略としてとらえることができます。第二に、この「国際的評判改善のための海外留学支援」モデルは、具体的な問題解決を求めないため、財団は奨学生の「社会貢献」を促進するための組織的な介入もする必要がありません。その代わりに、事務局からのアドバイスは個人の努力に焦点を当て、ほとんどのスカラーが克服できない構造的な課題を放置しています。第三に、柳井奨学生が利他的な「やりたいこと」を見つけ、追求するのに苦労しているのに対して財団は、「社会貢献」には時間的制約がないことを強調し、さらには彼らの奨学生を長期投資になぞらえることで、このプログラムに関するあらゆる批判から目をそらすことを可能にしています。

4-1. やりたいことを追求するだけで「社会貢献」

柳井財団は、「日本社会の発展に貢献」ことを応募資格の第一条件としているため、その意味するところを事務局職員にそれぞれ質問しました。私の予測では彼らなりに「社会貢献」の定義について、具体的に説明してくれるものだと思っていました。しかし予想外にも、全員がその曖昧さを肯定した上で、財団としての「社会貢献」の考え方を説明していました。例えば、事務局職員のジャクソンさんは、財団が特定のグループの人々の支援を目的としていないことを明確に強調しました:

日本社会の発展は、特定の誰かっていうことじゃなく、それぞれの人がしたいことをしてくれれば別にいいんです。あ、でも、自分のためじゃないっていうのは大事かもしれない。自分がこうしたいからってだけじゃなくて、第三者の方が幸せになる姿が必要なんじゃないですか?スケールは大きければ大きい方が良いんでしょうけど、分野やテーマによりますよね。ご自身が考えている課題が解決される時間軸も違うでしょうし。

彼の説明によれば、「社会貢献」のための唯一の要件は、奨学生がただ利己的な欲望のみに基づいて意思決定をしないことです。また、社会にとって意味のある変化への必要条件は分野によって異なるため、「社会貢献」の規模や時間軸も定義されないままなのです。つまり、生きているうちのどこかで、自分以外の誰かのために、ある程度何かしらをできれば、財団はそれを「社会貢献」とみなすのです。

もうひとつ、「社会貢献」をめぐる意見の中で頻繁に出たのは、自分自身の幸せの追求というテーマです。日本社会の発展とは何かという問いに対して、同じく事務局職員の佐藤さんは、自分自身が幸せになることが最も大きな「社会貢献」であると答えました。そして、「お金や名声を得るという意味の幸せではなく、自分が世の中にとって必要とされている、世の中に良いことをしていると思えることをすることが社会貢献だと思う」と明言されました。つまり、自分のための「やりたいこと」と他者のための「貢献」が完全に一致していることが、「社会貢献」の理想的な状態であると佐藤さんは定義したのです。そこで私は、佐藤さんが言う「やりたいことと貢献の完全一致状態」のことを「利他的やりたいこと」と呼んでいきます。このキーワードへの注意点として、必ずしも社会正義(例えば、貧困層、女性、障害会社の方など社会的に立場の弱い人を支援すること)を意味するものではないことです。というのも、財団は「社会貢献」を「誰かのために何かしらをすること」と定義しているので、本人以外の人物であれば、誰のどんな問題を解決するのも「社会貢献」として判断されます。(再掲ですが、本論文の焦点は「柳井財団生はどのようにして社会貢献をすべきか」と倫理的問題に対して答えを出すことではなく、「柳井コミュニティの中で社会貢献がどのように議論されているか」という新しい問題提起をすることなので、その点だけご注意ください。)

財団事務局と同様に、私がインタビューしたほとんどの柳井スカラーは、「社会貢献」も究極的には、自分のやりたいことを追求することである、という考えを共有していました。特に、1期生のデヴィンは、「自分がやっていることが好きでなければ、誰かの役に立つようなレベルに達することはできない」という考えを強調していました。さらに彼は、このように説明してくれました:

自分が楽しめないことをやっていても積み上げていく過程そのものが楽しめなかったら、その先に突き詰めたとしても楽しめないと思う。自分が好きなことをやってないと社会貢献なんてやってらんないよ。例えば、ホームレスシェルターで働いていても、自分が苦しかったら本末転倒だよね。だから逆算して積み上げていくのではなく、演繹的に自分が好きなことをやっていって、辿り着いた先が自分のパッションであり、辿り着いた先が能力も被っているから、社会に貢献できるっってことなんじゃないかな。

デヴィンのように多くの人が、「社会貢献には高い能力が必要であり、そのためには継続的な鍛錬が必要であり、その試行錯誤の過程を楽しめることが社会貢献にいつか繋がる」と語っています。つまり、「社会貢献」に取り組むためには、まず自分のやりたいことに忠実でいることが絶対条件なのです。インタビューした柳井スカラーも、「社会貢献」などという大それたことは考えず、まず自分のやりたいことにエネルギーを投資することを勧めていました。

また、柳井奨学生が社会を良くする対象グループは誰でも良いのに加え、「社会貢献」を実践する側の属性も曖昧に定義されています。本論文の冒頭でも説明したように、柳井奨学金に応募するための世帯収入の上限は年間2400万円であり、日本人の約99%近くが対象となります (Ministry of Health, Labor, and Welfare 2019)。また、財団の審査過程でも受験者の経済的バックグラウンドは考慮されないため、社会的に恵まれている学生が他の学生よりも優れた出願書類を作成しやすい傾向にあります。その結果大多数の柳井奨学生は、中流階級以上で高学歴家庭、そして都会的出身というバックグラウンドからきているのが現状です。これに対して、柳井奨学金制度がエリート階級の再生産を助長していると危惧する奨学生も存在しています。しかし、財団職員の佐藤さんは、「柳井財団は意図的に恵まれた人を支援してわけでもなく、逆に恵まれていない人を助けるわけでもなく、純粋に「社会を良くしてくれる人」を応援するのが目的です」と説明し、このように続けました:

もし年収の上限を厳しくしたら、恵まれている人を差別していることになりませんか?恵まれている人は好きで恵まれているわけではないんです。だから運が良くて、たまたま色々なリソースがある人を差別していることになりませんか?私たちは恵まれていない環境で頑張っている人を支援しているわけではなく、より良い社会にするために頑張れる人を応援したいんです。支援する必然性を考えたときに、その年収の線引きをした、ということです。

佐藤さんは、財団のミッションである「社会を良くすること」を強調する一方で、経済格差による不平等を緩和する意思は明確に否定しています。また、「必然性」という言葉は、より良い社会を作ることができる人々の多くが経済的に恵まれた環境に育っているため、応募条件を緩めたことを示唆しています。彼の言葉からも、柳井財団の「社会貢献」に対する曖昧な考え方が見て取れます。次のセクションでは、柳井財団が「日本社会の発展」をどのように定義しているのか、特に海外のエリート大学への留学支援を通じてどのような貢献を目指しているのかを考察します。

4-2. 日本の評判を再構築するための海外留学

これまで議論してきた「社会貢献」という曖昧な表現に加え、財団事務局の職員は口を揃えて、「奨学生が卒業後に日本に帰ってくることは求めていない」と強調しました。さらに言えば、奨学生が日本に関する問題に取り組むことを奨励しているわけでもありません。例えば、財団設立当初から勤務している奈良さんは、財団がよくしたい「社会」の対象は、「世界中のあらゆる人である」と説明しました:

日本社会への貢献というと、世界の人々と一緒に、何かする人間になってほしいんです。柳井が「社会に貢献しろ」と言うのは、日本人のためにどうかしろってことではなく、世界の人々のために、日本人として働いて欲しいということだと思います。

奈良さんのこの発言は、私に更なる疑問を与えました。柳井スカラーの活動から利益を得るのが世界中の誰でも良いのなら、柳井財団は日本社会に具体的にどう貢献するのでしょう?私が日本とは全く関係のない課外活動をしている時、日本の人々はどんな利益を得ているのでしょう?奈良さんのインタビューの中で、柳井は「世界の人たちと一緒に…日本人として」働くことを望んでいると述べられています。言い換えると、柳井スカラーが日本人として外国人の方と関わることが、間接的に日本の国際的な評判に大きく寄与しているとも捉えられます。しかし、ジャクソンさんとのインタビューで、柳井本人が「日本社会の発展」をどのように解釈しているのかを聞き、これらの疑問は一気に解消されました:

柳井理事長は、もっと日本の若い人たちが日本人として活躍してほしいと考えているんだと思います。ただ、日本そのものに貢献するというわけじゃなくて、日本というナショナリティーとして、です。それが落ち目にある日本の社会を支えていくことにもなるし、世界で日本人って素晴らしいと思ってもらいたいと思ってるんじゃないかな。

ジャクソンさんによると、柳井が注目するのは奨学生が何を成し遂げたかではなく、日本人としてのアイデンティティを肯定的に世界へ示す何かしらを行った、ということです。つまり、柳井スカラーの海外での功績を、日本という国の成功の象徴として捉えているのです。

実はこの研究を始める前、私自身も「柳井スカラーが海外で日本人として成功した場合、それが日本社会への貢献としてカウントされる」という考えを聞いたことがありました。例えば、仮に日本の外で一生を過ごしたスカラーが、日本とは全く関係のない研究でノーベル賞を受賞しても、財団はそれを 「日本社会の発展」に貢献したものと見なすのです。つまり、財団が定義する「社会貢献」とは、必ずしも一般的な日本人の生活に役立つとは限らないのです。また皮肉なことに、私の卒業論文のプレゼンテーションに出席した知人からは、私が「財団について意見したこと自体が “Make Japan great again” に近づくことになり、私たち海外大生の一つの実績が他の日本人を元気にする」というメッセージをいただきました。

私の発表に関するこのメッセージは、そもそもなぜ柳井自身が「日本人を元気にすること」が必要だと考えているのかという問いにも繋がります。私とのインタビュー中、ほとんどの財団職員が、柳井が世界における日本の存在感低下を深く危惧していることに言及しました。また、なぜ柳井がこの奨学金制度を始めたのかを尋ねると、ジャクソンさんは「日本を良くしたいという強い思い」とともに「日本に対する危機感」に起因するものだと答えています:

私が入社前に彼の本を読んだ時も、日本の敬愛的な停滞、人口減少、高齢化について、日本の危機感を強く持っているように感じました。一方で、日本の文化や日本の思いに対する強い思いがあるから、なんとかしたいと思っているのではないでしょうか?

彼の引用にあるように、柳井の著書には、日本の未来や日本人に対する悲観的な意見が書かれています。例えば彼の著書『現実を視よ』(2013)には、日本人が自国経済の停滞にほとんど自覚がないことを大々的に批判しています。さらに、自身の不満を説明するために、日本の不況を近隣アジア諸国の急速な経済成長と比較し「日本人が昼寝をしている間に、近隣諸国は驚くほどの変貌を遂げている」(Yanai 2013)とも語っています。このアジア諸国との比較は、ジャクソンさんが指摘する「衰退する日本社会を支えようとする柳井の意欲」を裏付けるものです。さらに柳井は、「国内産業の過保護、コストのかかる社会構造、日本を飛び出して成功できる個人の限定」などから、「日本はもはや海外からの投資に値しない」とも主張します (Yanai 2013)。このコメントもまた、ジャクソンさんが語った「柳井は、日本人はすばらしいと世界の人に思ってもらいたい」という考えと重なります。このように 柳井の自伝は、彼がいかに自国を愛し、国の誇りを取り戻したいと願っているかを繰り返し強調する内容となっています。したがって、財団事務局職員の方のコメントも、この奨学金プログラムを通じて、日本の国際的評判の再興を図ろうとする柳井の意図を照らし出しています。

柳井が海外の口頭教育を国家再生のための重要な手段 として捉えているのと同様に、多くの社会科学者が教育を経済活性化や文化的近代化の手段 として研究してきました (Guo 1998; Chen & Barnett 2000; Altbach & Teichler 2001; Bai 2008; Bok 2010; Sriprakash 2012)。例えば、文化人類学者のバネッサ・フォング(2011)は、中国の都市部の若者が ”flexible citizenship in the developed workd” (先進国での柔軟な市民権)にアクセスするために、海外での等教育を追い求める様子を描きました。彼女の研究によると、2000年代前半の中国人留学生は、国内の有名な学位でエリートとしての地位を得るよりも、海外生活がもたらす(と期待していた)より大きな幸福と自由を求めて海外に留学していたのです。フォングの研究が中国人留学生が母国から離れていく様子を描いたのとは対照的に、アージャン・シャンカーは、母国からインドに入ってくるインド系アメリカ人が主導するバンガロールの教育NGOを調査しています。彼の研究プロジェクト How Development Feels: Value in India’s Global-Digital Age (forthcoming)は、近代インドの経済開発プロジェクトが、海外からやってきた上流階級の「ネイティブ(同人種)」という新しい社会階層を、社会変革の重要な推進力としてなるプロセスを描写しています。フォングのエスノグラフィーが国内から国外への移動を中心とする一方で、シャンカーは、海外で教育を受けたエリートがインド国内への帰国する様子に焦点をあてているのが大きな違いです。

フォングとシャンカーは、個人や社会の発展のための手段として高等教育を分析していますが、柳井正財団は、留学を国家の「評判」を回復するための手段として扱っています。既存のエスノグラフィーの多くは、発展途上国における生活水準の向上のために教育が果たす役割に注目してきました。それを考えると、日本のエリートが自国を活性化させるために留学という教育手段を推進することは、従来の研究を反映しているようにも思われます。その一方で、柳井財団はあくまでも、日本人の生活を支援したり、特定の社会問題を解決したりすることを目的としていません。そこで次のセクションでは、財団職員と柳井スカラーが、このような「国際的評判の改善のための海外留学」という特殊な教育モデルを、どのように解釈しているかについて議論します。
  

4-3. 「社会貢献」推進のための組織的な介入拒否

財団が「社会貢献」を「自分以外の誰かのためになる何かしら」と定義している以上、財団は奨学金制度に具体的な成果を求めていません。そして、その曖昧さによって、奨学生が社会に貢献することを推進する組織的な取り組みも必要なくなります。例えば私が「柳井財団と奨学生は「社会貢献」をどのように理解しているのかを調べるためにこの卒論に取り組んでいる」と伝えると、事務局の奈良さんはこのように回答しました:

社会貢献、社会貢献って考えると頭ぐじゃぐじゃになってしまうから、そんなに気にする必要はそもそもないよ。柳井も自分の夢や信じたものを実現して、余裕ができて世界が見えてくる。むしろ、こだわってしまうと落とし穴になってしまうものだから。スカラーとのコミュニケーションで気をつけていることは、財団は色々求めていないと伝えることです。何をすべきかはあなた方が考えることで、私たちはあなた方を信じています。だから、柳井正財団は貢献とか考えずに、世の中にとって良いことをしてくれたらそれで良いです。

彼がしきりに強調していたように、財団は組織的介入を拒むだけでなく、「社会貢献」に必死に考えないことすらも奨励しているようです。

同様にジャクソンさんも、財団は奨学生に社会を良くすることを押し付けるつもりはないと主張していました。現在のプログラム体制で何か変えたいことはあるかという私の質問には、「卒業した奨学生ともっと頻繁に連絡を取りたい」という希望を話していました。しかし、奨学生のキャリアや個人的な事情などでそのような交流が難しいことも、同時に言及されていました。ジャクソンさんの見解では、このジレンマは柳井奨学生と財団の関係性に起因するものと考えています:

理想はもっと財団生とコミュニケーションを取りたいけど、あまりにもその理想に個人を全員強制することになると、その人にとてもプレッシャーになってしまうし。あくまでも奨学金を渡す財団であり、社員と職員の関係性ではないので、「なんでそんなに自分たちの生活に物事を言ってくるんだよ」って言われてしまわないように、私たちに共感してもらえる人を探すことが大事だと思います。

財団は、奨学生に一般企業のようなヒエラルキーを押し付けるものではないため、事務局からスカラーが奨学金をどう使うか口を挟むことはできないし、そうすべきではないと説明されました。

一方佐藤さんは、他の事務局職員に比べると奨学生に対して「利他的な考え方を身に付けてほしいという」願いを強く持っているにもかかわらず、その願いを実現するために具体的な取り組みを実施する意欲はないようでした。実際彼に「社会を良くするために、奨学生に体験してほしいことは何か」と尋ねると、彼は迷うことなくこう答えました「大学外で世界をもっと見てほしい。大学の外で経験して欲しいのは、文化を知こと、自分が属しているレイヤーがトップオブトップの0.1%にいるってことを知ってほしい。」これに対して私は、インタビューした何人かの奨学生も、柳井コミュニティが自分たちの特権に対していかに無自覚であるかを改革するために、全員必修のプログラムを作るべきだと主張していることを佐藤さんに話しました。しかし彼は、「これは強烈な原体験がないとあまり理解できない。だから教育プログラムを作って紙や数字を見たとしても、実際に自分で体験しないと難しいんじゃないかな。」と、私たちの提案を断わりました。自分の社会的特権を理解するためには、一人ひとりが「強烈な原体験」と向き合わなければならないという発言からも、柳井財団が組織的な行動をとろうとしない姿勢がうかがえます。つまり、「社会貢献」に対する具体的な目標がないために、財団のコミットメントを評価することもできない(する必要がない)ため、事務局もビジョン実現のために組織的に努力をすることができないのです。

4-4. 「社会貢献」に必要不可欠な「心の余裕」

ここまで見てきたように、財団は制度的な介入ではなく、各個人が「社会貢献」を実践するためのマインドセットの重要性を強調しています。柳井生が社会を良くするために、大学時代に具体的にどのような経験を積んでほしいかと尋ねたところ、インタビューした職員三人とも「心の余裕を持って自己理解を深めること」を挙げました。例えば奈良さんは、財団は「社会貢献」のための具体的な活動を期待しているわけではないことを繰り返し強調しつつも、「リベラルアーツにも言われるように、教養を身につけて心の余裕を持ってほしい」と願いました。彼は、「心の余裕がなくなると、自分を振り返って、完璧じゃない自分自身に気づけないことが問題だと思う」と主張しました。また、ジャクソンさんは、柳井奨学生に対して「入学前の面接時に話した初心を忘れないでほしい」とアドバイスしました。彼は「大学に入って色々な方と接する中で、気持ちにブレが接したり、状況に変化が生じたりすることはもちろんある」と推測しています。そんな状況でも「あれ、自分はなぜここにいるんだろう」と振り返り、定期的に自分の選択の理由を考えるように勧めていました。

同様に佐藤さんは、「利他的やりたいこと」を追求するスカラーたちの「成功」を、彼らの自信と心のゆとりに帰結させていました:

やりたいことが社会の課題解決につながっている人がそうきたのは、運じゃない?人との出会いって、自分がアクティブだからたまたま見つかるんだと思う。運ってアクションをとっていないと巡ってこないから、きっと彼らはその出会いがあるような行動をとっていたんだと思う。 … 逆に人と関わりたくないのは、自分に自信を持てていないから、恥ずかしい、コンプレックスがあったりすると、関わりたいと思えないんじゃないかな。日本の高校時代にアクティブな人が海外の大学に行ってぶちのめされたりもするのかもしれないしね。だからこそ、自分で自分のことを理解していないと、難しいのかもね。

佐藤さんが言うように、私がインタビューした奨学生の中にも、自分と他人の比較から生じる不安心から、積極的に行動することを躊躇してしまう人は複数いました。一方で佐藤さんはそのような問題に気がついていながらも、財団として彼らの悩みを仕組みで解決しようとはしていません。財団は奨学生に対して、自力で自分の環境をコントロールできるだけの主体性があると期待しているのかもしれません。

「心の余裕をもって自己理解を深める」という事務局からのメッセージは、柳井が著書の中で発言した内容とも一致しています。例えば彼は、長引く不況の中で「日本はもはや経済成長を求める必要はない」という主張の高まりに、強く反論しています(Yanai 2013)。さらにそのような主張は「無責任」でさえあると批判します:

「清貧の思想」からは、何も生まれてこない。もっと豊かになりたいと思うから、人は創意工夫し、努力を重ね、成長する。貧しくても心が豊かなら良いというのは、豊かになった人だけが言える戯言。「貧すれば鈍する」という言葉もあるが、かつかつの生活をしていて、ほんとうに有意義で充実した人生が遅れるだろうか。「貧しくてもよい」と軽々しく口にする人は、「ほんとうの貧困」を知らない。... 貧困は確実に、人びとから夢や希望を奪う。

この文章の中で柳井は、よりよい生活を求める「夢と希望」の前提条件として、経済的資本が必須だと提唱しています。彼の例は、事務局職員が語る「心の余裕」についての意見よりやや極端ではあるものの、よりよい社会を実現するための意欲や能力は、経済的・精神的ゆとりによって決まるという点では共通しています。

おそらくそのような仮説が、年間15,000ドルの生活支援金を追加することにつながったのかもしれません。この生活支援金は、ほとんどの奨学生が使いきれないほどの大金ですが、少なくとも私自身の経験では、この奨学金のおかげで、無給のインターンシップやボランティアなど、経済的苦労を考えずに自分のやりたいことを追求することができたのは確かです。財団は、柳井奨学生が「社会貢献」をしようとする努力(あるいはその欠如)に積極的な介入はしませんが、ほぼ完璧な経済的支援を行い、特定の行動をとることがプレッシャーにならないように努めています。そうすることで、「社会貢献」を実現するために不可欠な「心の余裕」を育みたいと考えているのでしょう。


次は、5.「柳井財団の期待と奨学生の実状の乖離」(データ分析②)です!


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