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『ミッドナイトスワン』 なりたい自分との距離が生む苦悩

2020年/日本
監督:内田英治 
出演:草彅剛・服部樹咲


「ミッドナイトスワン」
哀しみと希望、そしてせつなさが入り混じる作品だった。

あらすじは以下のとおり。

トランスジェンダーの凪沙はニューハーフクラブで働きながら孤独に生きている。そんなある日、従姉妹に虐待されて育った彼女の娘「一果」を一時的に預かることになる。はじめは相容れない二人だが、バレエに興味を示す一果とそれを支える凪沙の間に、信頼関係と温かな感情が芽生え始める。


社会的マイノリティという孤独

凪沙(草彅剛)の生活は孤独だ。
女の体を維持するためにお金を稼ぎ、薬の副作用にも耐えなければならない。彼女が彼女らしく生きることは簡単ではなく、凪沙は「なんであたしだけ」と悔し涙を流す。

男の肉体を持ちながら心は女。その違和感がどういうものなのか想像するしかないわけだが、どうしようもない居心地の悪さみたいなものを抱えているのだと思う。自分が自分の思う性別に生まれてこなかったという現実は、「なんであたしだけ」という悲痛な叫びのとおり辛く残酷だ。

一方で自分の心に素直に生きれば、他人からの理解を得られないだけでなく好奇の目に晒される。
世間はマイノリティに優しさのかけらも見せはしない。


近頃はLGBTへの理解が進みつつあるとはいえ、偏見が消えるには程遠いのが実情だ。

劇中でも就職のために面接を受ける凪沙が

「最近、LGBTって流行ってますよね」

と、無神経な言葉を面接官から投げかけられる場面がある。

この「マイノリティには共感を示すべき」と言った上っ面の知識で反応するマジョリティの存在が、かえって凪沙の心に絶望と諦観を植え付ける。しかし実際のところ、彼らだってどう接していいのかわからないのだ。

でもそのことこそが、凪沙が孤独に生きるしかない要因、つまるところマイノリティが社会から受け入れられているとは言い難い現実の象徴なのだ。


母親になりたいと願う二人の女

たとえどんなにひどい親であっても、親からの愛情を欲するのが子供。
親に愛され、承認されることは子供にとって重要な意味を持つ。

しかし一果(服部樹咲)は、親の愛情を受けることなく育った。

彼女の実母である早織は水商売の女。
生活も精神も荒れており、酒に酔って一果に暴力を振るったかと思えば、「ちゃんとしたいけど、どうにもならない」と涙ながらに詫びるようなことを言ったりもする。

早織はなりたい自分と現実の自分のギャップに苦しんでいる。
彼女が良い母親でないことは、一果にとっての不幸であるだけではなく、早織自身の苦しみの根源でもあるのだ。

一果はそんな母親を絶望的な気持ちで見つめながらも、彼女を責めることはない。怒りや悲しみは自身に向かい、持って行き場のない気持ちを発散させるために自分の腕に噛みつき自傷行為をする。

一果もまた、トランスジェンダーとしての生きづらさ抱えた凪沙と同じように、孤独の中に生きているのだ。


寂しさを抱え心に傷を負う一果だか、たとえ母親が自分に希望を与えてくれなくても彼女を見捨てることができない。なぜなら母親が自分を必要としていることがわかっているから。
そして一果自身も、母親からの愛情に飢えている。
「母親に肯定してほしい」「承認してほしい」
そんな気持ちをいつも抱えて生きている。

お互いを必要としながらも、噛み合うことはない早織と一果。
それがこの悲しき母娘が築いてきた親子関係だ。


一方、早織に代わり一果を育てることになった凪沙は、この複雑な親子関係を真の意味で理解していない。

凪沙は、一果が愛情と温かみのある生活を提供した自分よりも、今まで散々一果を苦しめた早織を選んだことにショックを受ける。

そして一果が自分を選ばなかった理由は「自分が母親ではないから」、すなわち「女ではないから」だと結論づける。「一果を育てたい」という思いと彼女への愛情は、凪沙が今まで感じたことのない幸福な感情であり、手放したくないと思えるはじめてのものだった。
だから彼女はそれに必死にしがみつこうとした。

そして、母親になるためには本当の女になる必要があると思い込んだ凪沙は、それまで金銭的な理由で躊躇していた手術に踏み切った。

でも、残念ながらそこではないのだ。
女になったからと言って母親になれるわけではない。

早織と一果の愛憎関係は濃厚で、そこには長くて深い歴史がある。他者が入り込むことは容易ではないのだ。
たとえそれが、一果の希望を支え続けた凪沙であったとしても。


希望が人を生かしている

一果は親からの愛情を知らずに育った。
だから人からの愛情を素直に受け入れられない。
意地を張っているわけではなく単純に「愛情」に慣れていないからそうなってしまう。

そんな一果を変えたのは、バレエと凪沙。

おそらく誰からも肯定されることなく生きてきた少女にとって、はじめて人に期待される経験をもたらし、また自身が夢中になることができたのがバレエだった。そして、自分を信じて支えてくれたはじめての他者が凪沙だった。


つまり一果にとってバレエは生きる希望。

それは一果だけのものではない。
一果とは別の種類の孤独を生きてきた凪沙にとっての希望でもあった。


そして二人なひとときの幸せが訪れる。
一果のバレエの才能を軸に、温かい時間が彼女たちを包み込む。
希望が人に与える力は絶大だ。


しかし希望が輝かしい分、凪沙に訪れる不幸が哀しすぎる。


凪沙は一果の希望を叶える道筋を作り、一果はその希望で凪沙の人生を温めた。
それによって一果の人生には光が見えたが、凪沙の人生に温かさをもたらし続けることは出来なかった。凪沙を待っていたのは手術の後遺症による死だった。


それでも、暗闇の中を歩いてきた凪沙にとって、「一果」と「彼女の踊るバレエ」は人生における唯一の光だったのだと思う。


なりたい自分との距離が生む苦悩

人は望む望まないに関わらず、他者と関わりながら生きるている。
だからこそ他者と協調したり共感できることは重要で、それが自分の身を守ることにもつながる。

言い換えれば、他者から共感されずに「異質」と認識されることは危険に晒される事を意味する。
たとえば保守的な価値観を持つ人間に「異質」とみなされることで「脅威」に仕立て上げられる可能性だってある。

実際に、手術によってふくらんだ凪沙の胸を見た早織は「バケモノ」と彼女を罵り、凪沙の母は女になった息子の姿に泣き崩れる。誰も凪沙の心の痛みを理解しようとはしない。凪沙が望む生き方は彼らの価値観からはあまりにもかけ離れていて、それは恐怖でさえあるのだ。

実際のところ、保守的な価値観を持つ側からすれば「異質」を受け入れることよりも、それを「脅威」とみなす方がラクだ。なぜならそうすることが、今ある価値観を守ることにもつながるから。

結局のところ、彼らが恐れているのは自分と違う「誰か」ではなく、その誰かに自分の信じる価値観を壊されることなのだ。


さて、SMAP解散以降見る機会が減った草彅さんの俳優姿を久々に堪能できるこの作品。
男性的な骨格や顔つきの草彅さんが、女として生きる凪沙を演じることでもたらされる効果は、男の風貌を残した凪沙と彼女が望んでいるであろう女の姿とのギャップ(距離)を観客に感じさせたこと。それが観る者をせつない気持ちにさせる。

それは一果が踊る「白鳥の湖」のオデット然り、自分の白鳥姿に絶望しながらも、夜だけ本来の自分に戻り王子の求愛を待つせつなさと通づる。

ちなみに、「なりたい自分との距離がある」という意味では、一果の母早織も同じように苦しんでいる。でも彼女の場合、自分の努力と意思によってその距離を縮めることは(簡単ではないにしても)不可能ではない。

一方で、凪沙やオデットの苦悩は本人の努力や意思だけではどうにも解決しない。
だからこそ希望にすがる。
でもそれが打ち砕かれた時には、より大きな苦悩を背負うことにもなるのだ。
なりたい自分との距離が苦悩を生む

心に刺さる、そしてやりきれない気持ちが残る作品だった。


写真:青い場所

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