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"正しくなれない" を考える(ずっと真夜中でいいのに。)

ずっと真夜中でいいのに。、通称"ずとまよ"さんの曲に「正しくなれない」という作品がある。これは実写化された『約束のネバーランド』の主題歌でもある。

私自身は約束のネバーランドのストーリーを知っているわけだが、今回はそれとは関係のないかたちでこの曲の歌詞について思ったことを書いてみる。

歌詞全文はこちらから↓


正しくなれない、ということについて考えるとき まず自分自身に投げかけなければならない問いは「正しいとは何なのか?どういうことなのか?」というものである。
私たちは人生の中で常に小さな小さな"選択"という営みを繰り返している。
選択するときに私たちは「より良い方」だったり、「自分が正しいと思う方」だったり「どちらかといえばこちらの方が良いと思う方」だったりを"選択の基準"としている。その選択の背景には自分自身に対する考えがあったり、他者に対する考えがあったり、集団や社会に対する考えがあったりして、複雑に絡み合ってある。

私たちが行っていく「選択」は、最終的には自分の中で「正しい」と思えている方を選び取ることなのだろうか?(正しい、を選び取ることができているのだろうか?)
ベストではない選択をしなければならない、選択の余地がない.....そんな場合でも、私たちは自分の選んだ選択肢を「どちらかといえば正しい」と捉えられているのだろうか。

「正しい」は絶対的なものではないと思っている。自分にとって"正しい"ことでも、誰かにとっては"正しい"ことではないかもしれない。自分は"正しい"と思ってとった行動でも、それは社会的に見たら(一般的に考えたら)"正しくない"行動かもしれない。
ゆえに"正しくなれない"は 覆らない事実のように感じている。正しくなれない....正しく行動できない....正しい(模範的な)人間でいられない....常に正しいを選べない.....。"正しい"は絶対的ではない。

私たちは「正しくなれない」と分かっていながら"正しくなろう"とするのだろうか。
それとも「自分は正しい」と思わなければ前に進んでいけないのだろうか。
"正しいかどうか"というより、"間違っていないかどうか"を意識しているのだろうか。(似ているようでこれは違うように感じる)
"自分を信じる"ということを「自分の選択は正しいということ」のように捉えているのだろうか。




実際に歌詞に触れてみる。

可能性が見逃せるならば  可能性を諦められないから  未だ
正しくなれない  君が僕をみた  片っっ端から確かめたくて  考え続けたい

片っ端から「正しいかどうか」を確かめ続けたいという気持ちはよく分かる。誰かの目を見て、その誰かを信じていいのかどうか、悩む。その可能性にかけようか、その選択をしようか、悩む。いつまでも好きなだけ考え続けていられたら良いのに。
"正しくありたい"。そんなことを、諦められない。正しい人であることを、常に正しい選択ができる人となることを、諦められない。


大したもんじゃない  無駄なもんじゃない
視野は脳裏を  寛大にしていくように

この"視野は脳裏を寛大にしていくように"という歌詞に考えさせられる。


ずっと真夜中でいいのに。というアーティストが届ける曲の中に、『脳裏上のクラッカー』がある。

幸福を願っているふりする係だから  あーあ
なりたい自分と  なれない自分
どうせどうせが安心をくれたような
偶然を叫びたくて  でも淡々と傘をさして
情けないほどの雨降らしながら帰るよじゃあね


視野を広げて物事を見ること、向き合うことは良いことであるように思える。(一般的に)
でもここでいう"寛大"は本当に良い意味なのだろうか?と考えさせられる。
"どうせどうせ"とはまた少し違うかもしれないが、寛大にしていくことは"選択肢を増やす"ことであり、"どんな選択をしてもそれをした自分を許すこと"のように思えてくる瞬間がある。"正しくない"かもしれない自分を、許してしまうような考えがそこにはあるように感じている。
"正しいふり"をしているだけで、本当は"正しさ"からは程遠いものかもしれない。





「正しくなれない」。わたしはわたし自身のことをそう思う。
正しくありたい、と願っても。
正しく生きたい、と望んでも。
正しくなりたい、と手を伸ばしても。