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"生きる"こと (『さざなみのよる』より)

木皿泉さんの、『さざなみのよる』。この本の主人公ナスミはガンで若くして亡くなってしまうわけだが、ナスミが残した言葉が、ナスミの記憶が、今もナスミの大切な人たちの中で、生き続けている。



68ページより

母親が亡くなった時、なぜか泣くことができなかったのだと言ったナスミに対しての言葉。

「私、冷たい人間なのかな?」(略)
「そうじゃなくて、本当に大切なものを失ったときって、泣けないんじゃないかな」(略)
「じゃあ、いつ泣くのよ?」(略)
「あれは大切なものだったなぁと、後から思った時に泣けるんじゃないの?」

受け入れることができなくて、涙さえも出なくて、呆然としてしまうような悲しいことが、この世にはたくさんある。

なんとなく私自身は、涙を流すことができるようになり始めた時、それが"過去になり始めたのだ"と思っている。
それは過去の消したい記憶かもしれないし、過去の忘れたくない思い出かもしれない。

泣けないくらい悲しいことが、泣かずにはいられない悲しいことになった時、
人はそのことを、心のどこかで"過去"にしたのかもしれない。

悲しみもいつかは"過去"にして、歩いていかなければいけない。
きっとそれが、「生き続ける」ということなのだろう。

悲しいことがあったら、何度だって立ち止まっても良いのだ、とも私は同時に思っている。
その悲しみに寄り添ってくれる人に甘えたって、人生の行き先が見えなくなったって、誰もあなたを咎めたりはしないのだから。


116ページより

「もどりたいと思った瞬間、人はもどれるんだよ」

以前(若い頃)家を出たナスミが、駅であった利恵という女性に言った言葉だ。
「お義父さんが生きていたころの自分にもどりたい」と言った利恵に、かけた言葉だ。

大切な人が生きていたあの頃に戻りたい、と思うことはいくらでも誰にでもあるように思える。わたしにもある。
だからこそ、この後のナスミの言葉がもっと胸に響くのだ。

118ページより

「今はね、私がもどれる場所でありたいの。誰かが、私にもどりたいって思ってくれるような、そんな人になりたいの」

こんなナスミの生き方が、私は好きである。
誰かが戻りたいと思ってくれるような場所になる。誰かがここにいたいと思ってくれるような拠り所になる。いつだって大切な誰かが帰ってこれるように、同じ場所にいる。

大切な誰かのために、誰かのために生きるって、こういうことなんじゃないかなぁと思ったりした。

自分のために生きようが誰かのために生きようがそんなのは自由だけれど、
もし自分が"生きとし生けるもの"であるとしたら、そんな場所になることは、私の1つの使命なんじゃないのかとさえ 思ったのだった。



152ページより

「愛ちゃん、最初はね、物真似でも何でもいいんだよ。最終的に自分がなりたいものになれれば、それでいいんだよ」

愛ちゃん(愛子)というのは、ナスミがお金を借りていた男の妹だ。
愛ちゃんは、ナスミになりたかった。
愛ちゃんは、ナスミが亡くなった後、ナスミの旦那と結婚をし、幸せな家庭を築く。
愛ちゃんは、ナスミになれたのだろうか。

「あなたみたいになりたい」と誰かに言ってもらえるような人生は、「良い人生」なんじゃないかと私は思う。幸せな人生なんじゃないかと思う。

「ナスミさんのような人になりたい」と言ってくれる人がいたこと。
ナスミが亡くなった後に旦那さんと一緒に居てくれる人がいたこと。

ナスミさんは、幸せだったのではないだろうか。



89ページより

「よいことも悪いことも受けとめて、最善をつくすッ!」

そんなナスミの生き方が、やっぱり 私はとても好きである。

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