少年と犬

歩道脇に止められた車を囲うように人だかりができていた。誰かの掛け声に合わせて車の片側を持ち上げている最中だった。抱きかかえられながら出てきたのは、手と口から血を出しながらも、吠えることを止めない黒い柴犬だった。

どうゆう訳だか車の下敷きになっていたらしい。救助された柴犬の顔が見えると周囲は一気に安堵に包まれた。
ふと、人だかりの隅に目をやるとひとり、両手で顔を覆って泣く少年がいた。彼は泣きながら「よかった、よかった、、」と何度も繰り返しつぶやいていた。

きっと少年が飼い主なのだろう。
周囲の一体感に置いてきぼりにされた少年のもとに行こうと思ったが、少年がずっと「よかった」を繰り返す姿に、なんだか足が動かなくなってしまった。犬が生きてさえいてくれれば、それで良い。それ以上なにも望まない、そんなふうに聞こえたからだ。


変な話だと思うかもしれないが、「あの犬はただ生きているだけでいい」というのがとても羨ましかった。
人が生きる価値を見失う瞬間の大抵の原因は、疎外感や何かしら自分が不要なものだと感じたときに現れる。人はそんな感情に覆い尽くされてしまうことも少なくない。
けれど、そうではなく、生き物は生きているだけですでに価値があるのかもしれないことを少年の言葉を聞いて初めて思った。
だから私たちに自ら命を立つ権利などない。
本当はそれだけでいいのだ。


私がいつも乗る電車は昨年だけで人身事故が30件以上あった。たった1年で。理由はさまざまだと思うが、おおそよ2週間に一度の異常なペースで事故が起きている。こうも頻繁に起こると事故に遭遇してしまうこともある。
ぼんやりした記憶に残る、ホームに残された手さげ袋。赤黒い臓器と酸っぱいような生あたたかい不気味な臭いを思い出すたびに、飛び込んだ人の最後の望みは叶ったのだろうかと今でも考える。

だからと言って、いままで私は自ら命を絶つことを悪いことだとは考えていなかった。人には身体の寿命、運の寿命、心の寿命があって、おとぎ話みたいに3つのロウソクの火のどれかがふと消えたとき、命はなくなる。どんな死に方も必然だと思っていたからだ。
とりわけ心の寿命は、どんなに太くて長いロウソクを持っていても、その人を取り巻く環境で、突然風が吹けば火は簡単に消える。
それが他人から見てどんなに些細な風だったとしても。

だから「どんな理由があっても絶対に悪いこと」とは思わなかった。
けれど、生きているだけいいと言われたら話は別だ。自分の一番の価値は生きていることと言われたら自ら死ぬ意味がなくなってしまう。


そんなこと言ってくれる人が自分にはいるだろうか。
ますますあの犬がうらやましく思えて来た。

世の中は自分が呑み込まれてしまいそうなほど、色んなものにあふれている。そのひとつ一つを舐めているうちに、私たちは自分の価値を忘れてしまうのだろうか。

車の下から救助された柴犬は、手と口から血を出しながらもずっと吠えていた。
私はそれを見て偉いと思った。
痛くて吠えたのか、人の多さに驚いて吠えたのか、彼なりの怒りの抵抗なのかは分からない。
けど、生きている!生きている!生きている!ってその場にいる全員に向かって、しっかりと自分が生きている証を届けてくれた。

黒い柴犬の生きている証は、力強くとても熱かった。

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