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[1分小説] 姉妹|16歳

昼過ぎから発達した雨雲が日本列島を覆っていた。

いかにも梅雨らしい本降りの雨が車窓に打ち付けられるのを、朱里あかりはタクシーに揺られながら、涙目で見つめていた。

制服の紺色のスカートの裾から水が滴っている。
濡れた布地が素肌を冷やしていく。

しかし、今の朱里にはそんなことはどうでもよかった。

ほんの10分前、一瞬の出来事だった。

帰宅しようと品川駅の改札に向かう視線の先に、
学生服を着た"彼"が歩いているのを見てしまった。

その横には、同じ学校の女子生徒だろうか、
そろいのグレー調の制服に身を包んだ女の子が、彼と手を繋いで歩いていたのだ。

『どういうこと──?』

目の当たりした事実が、瞬時に朱里の心を貫いた。
しかし頭はまだ、状況を飲み込むことを拒んでいる。

『早くおねえちゃんに会いたい』

乗っているタクシーが、ザァァーっと道路の水たまりの上を派手に通り過ぎた。

午後3時半、夕方の渋滞にはまだ早く、上りの15号線は空いている。『銀座8丁目、中央通りって言えばわかるから。タクシー乗ってきな』。姉に言われたとおり、朱里は慣れないタクシーに乗り込んだのだった。
この道を真っ直ぐ進めば銀座に着くからと、姉は電話越しに言ったはずである。

『早くおねえちゃんに全部聞いてもらいたい──』


涙を堪えて、ぎゅっと目を瞑る。
先ほど見た光景が、嫌でも脳裏に浮かんでしまう。

"彼" は1ヶ月前、品川駅のホームで声を掛けてきた男の子だった。

4月に品川の私立女子高に入学したばかりの朱里は、彼と放課後に会っていた。文字通り、身も心も舞い上がっていた。

そして3度目に会ったとき、「今日俺んち、誰もいないから。もっと一緒にいたい」そう言われるまま彼の家を訪ね、彼の部屋で肌を重ねたのだ。情事と呼ぶには程遠い、わけも分からない体験だった。

それっきり、彼とは連絡が取れなくなったのである。

これが彼女の人生における、はじめて・・・・だった。

「えーと銀座8丁目、こちらの角でいいですか?」

ミラー越しに、タクシーの運転手と目が合う。彼女は慌てて定期券のチャージ残高で支払いをした。

朱里が車から降りたタイミングで、車体の色の違うタクシーが一台、後ろに停まった。

「おねえちゃん!」

言うが早いか、朱里は姉の乗るタクシーに駆け寄った。

「聞いてよ!もう私、なにがなんだか・・!」

行き交う人々が、朱里のことを訝しげに見る。
だがすぐに、その視線はタクシーから出てくる姉へと注がれた。

「ほら、ちゃんと傘差しなさい。雨降ってるし、
店の中で話聞くから」

ピシャリとそう諭しながら、ハイヒールの足元をそろえた姉は、ゆったりと座席から腰を浮かせて地面に降り立った。

フルレングスの長いワンピースから、抜けるように白い腕が伸びる。口元に上品な赤をのせた、端正な顔。艶の美しいロングヘア。
街行く人の視線をさらう美女──、それが朱里の姉だった。

「それで?」

アンタこれ好きでしょ、好きなだけ食べなさい、と連れてこられたのは、中央通りからすぐのチェーンのドーナツショップだった。

5つのドーナツを山盛り乗せた目の前の皿に、けれども今日の朱里は手を付けずにいた。
まだあどけなさの残る、ふっくらとした肉付きのよい頬が、悲痛な面持ちを帯びている。

「私、捨てられたのかな・・」

言いながら、朱里は目頭が熱くなるのを感じた。

「好きって、一回も言われてないし」
震える声で続ける。

「好きって言わないのは、彼なりの誠意でしょ」

姉は胸の前で腕を組んで、毅然と言った。

「体には踏み込むけれど、心には踏み込まない」

そういうことよ、と付け加えて、姉はアイスコーヒーのストローに唇をつけた。

その姿はどこかで見た雑誌かCMの1シーンのように、絵になる光景だった。


朱里は思わず、はぁ、と深い溜息をつく。


「おねえちゃんは、ずるいよ」

そうこぼすと、息継ぎするのも忘れて言った。

「私はいつも、誰かを好きになっては失恋ばかり。
でもお姉ちゃんは自分が恋に落ちるんじゃなくて、男の人を落とすんだもん。ずるいよ!」

一瞬面食らった表情をした姉は、しかし朱里が言い終わるのを待ってから、口を開いた。

「それはずるいって言わないよ。うらやましいって言うの。それに、」そこまで言うと、ふいに窓の外に視線を泳がせる。

「──恋に落ちるほうが、よっぽど幸せだよ」

どこか遠くを見たまま、吐き捨てるように呟いた。


姉が何を考えているのか、たまに朱里はわからない。

時おり見せる寂しそうな表情───この顔はいったい何なのだろう?
これだけの美貌を持つ姉が、人生に不満を抱える理由などあるのだろうか?

姉に見えている世界はどんなものなのだろうと、
朱里はときどき思う。

隣の席の男2人組が、「あのー」と姉に声を掛けてきた。さっきから姉のことをチラチラと盗み見ていた人たちである。

姉は振り向きもせず、「出よ」と朱里を促す。

「中央通り歩こう。銀座歩くと、元気出るから」


カッカッとヒールを鳴らして先を歩く姉の後ろ姿を、朱里は「待って」と追う。

外に出ると、雨はやんでいた。もうすぐ梅雨も明けるだろう。

「ねぇ、おねえちゃん、待ってってば!」

初夏の夕暮れは遅い。日が暮れる前の世界は、朱里の目の前で、しっとりと濡れて輝いていた。




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