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【夫婦生活】適度な心の距離感がからだのつながりを強くする

もともと、夫はスキンシップがあまり好きではなかったの。

触られることを嫌がってた。

結婚したのに、人を心から信頼するということを知らないみたいでね。

なんで結婚したんだろ?って思うくらい。


でも私も同じようなものだったかもしれない。

夫のことをよく知らないのに、この人とだったら一緒にいても安心できるって思ってたもんね、感覚的に。


夫と私の温度差

別に行為がないわけじゃなかったの。

でもなんていうか、伝わってこないの、熱い想いが。

それが物足りなかった。

私を強く欲して欲しかったの。


だから私、夫をその気にさせるスキルを磨いたよね(笑)

夫のスイッチを入れるために、ムラムラっとしてきそうなストーリーを考えて話したりとか。

いちばん乗ってきやすい戦略だったんだよ。

でも不発で終わることも多かったの。

夜、ベッドに入るとジャマされたくないひとりの空間を大切にしているような感じだったから。

(夫にとっての完全オフはひとりの世界)


私は逆なの。

いろんな刺激から解放されて、ベッドに入ったらホッとしたい、安心したい、あったかい想いに包まれたい、そんな欲にかられることが多かったの。


頻度は途切れずにそこそこあったけど、こういうのって回数してたって満たされていなければモヤモヤするものじゃない?

私はそうだったの。

無理やりしてもらってる感が抜けなかった。

(夫はそんなことないよ、って言ったけど)

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断られるたびに悲しくなってた過去を振り返る

私が欲するとき、夫も同じ気持ちでいることが少なくて、私は夫をその気にさせる必要があって。

うまくいくこともあれば、無理なこともある。

それは当たり前のことなんだけど、悲しかった。

私の想いが否定されるような気がして。


私の想いを受け取ってくれて、それを返して欲しかったんだよね。

自分で自分を愛することができなかったからかもしれないな…と今なら思う。


当時は結婚したらイチャイチャがしばらく続くと思っていたし、そういうものだって期待してたの。

だけどその期待っていうのは、今思えばもっとお互いを知りたいという気持ち以上に、新しい環境への不安や自分の立ち位置の変化への不安を満たしたいと思ってたのかもしれないよ。

心の距離を縮めたいって思うほど、なんだか遠い感じがして、ひとりでさみしくなってたのね。

でも不安感いっぱいの私が近づくことは、夫からすると危険レーダーに引っかかってたんじゃないかなと思う。


夫は目の前のことを受け入れて大丈夫なのか、危険管理レーダーがひといちばい敏感なの。

私は人に受け入れられているかのレーダーが敏感で。

(わかってもらいたい人間だったから、わかってもらえそうな人を見つけるためだと思う)


当時はお互いにレーダーを感知させることばっかりしてたんじゃないかな。

お互いに

「相手に信頼してもらうという行動を起こす」

というアウトプットは後回しだったと思う。

お互いに伝えずにわかってもらおうと思ってたわけ。

全く違う感覚と性質を持ってて、分かるわけないのにね。

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言葉にするのが苦手な私と、言葉にしてもらわないと理解できない夫

そんな状況から脱する機会が2回あって今に至るのね。

1回目は三男の産後。


上の子たちを育てるとき、私はひとりじゃ不安で仕方なかったから夫にはいろいろやってもらうことが多かった。

まぁ時短とはいえ、私も正社員で働いていたし、私ひとりではやり切るなんて無理だったから。

上2人が発達多様性があって(発達障害という言葉は今の時代には合ってないよね)、育てるの大変で、悩むこと多かったの。


今思えば、もっと夫の脳を活用したらよかったのよ、得意分野だったから、考えること。

私は考えるの苦手。

目の前のことを感覚的に対処していくのは得意で、知ってることなら何でもできた。

非常にパワフルで、エネルギッシュで、いいと思ったことやいいと言われていることをガンガン実行するのは容易かったのね。

でも、そのやり方では子どもたちはついてこなくて。


私のやり方はノーマル発達の子どもにはウケたと思うんだけど、我が子には全く合わなくてね。

そこで「知らない」から「動けない」という状況にハマったの。

動けないこと、コレが1番のストレスだった私。

仕事では思いっきりからだも口も動かしてね、やり切ってたけど、家に帰るとモヤモヤしてた。

どうしていいかわからなかった。

それで療育センターにたくさん頼ったの。

でもね、私、自分が何に困ってるのかがわかってなかったから、受け身でしか利用できてなかったんだ。

受け身で受けると自分の心の状態があらわになる。

私が親として失格だから…という想いが根底にあったから、ダメな自分ばっかりにフォーカスしてた。

ダメな自分を証明するような出来事ばかり印象に残ってしまって、そんな自分から逃れるために問題に思えることへの対処に明け暮れた。

こういうの、作ったりね。

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カタチばっかり。

子どもの気持ちを理解する余裕までなかったように思う。

一生懸命考えてたけどさ。


だからいつも前のめり。

夫には声を上げることも多かった。

私がこんなにつらい想いをしてるんだからもっとサポートして、手伝って!!って。


夫は察することはできなかったけど、私がひとつひとつ言葉にするとそれをちゃんと考えてくれる人だった。

でも私は最初、感情抜きで気持ちや考えを言葉にするのが苦手だったの。

もう無理!って思うまではひとりで頑張って、キャパオーバーになると感情とともに自分の気持ちや考えがあふれ出す感じ。

これが夫にはキツかった。

でも私はそういうカタチじゃないと言葉が出なかった。


思えば私の実家は言葉で表すのが苦手な家族だったよ。

どんなふうに伝えたら伝わるのかって全然学んでこられなかった。

学校でもうまく学べなかったな。

だから仲良くなっても深く仲良くなれなかったのかもしれない。

わかってもらえないって思ってたのかもしれない。


上2人が大きくなり、3人目を考えるようになったのね。

次男と学年で5年開いて、三男が産まれて。

その頃にはだいぶ夫に伝えることも助けを求めることも上手くなっていて、感情的になることも減ってた。


三男が生まれてすぐは母が家に通ってくれて、子どもたちの送り迎えをしてくれたり、家のことをやってくれて。

産後ヘルパーをお願いしようか迷っていたからありがたくて。

私の負担が減ったことで、私の気持ちには自覚以上にゆとりが生まれてた。


ゆとりがあると、夫に不安でくっつくこともなかった。

ああ、そういうことなんだって思ったよ。

私は不安だったんだ、毎日やることが多くて、でも責任は重大で、自分には自信なくて、ひとりでは頑張れなかったんだ。

母の存在が大きかった。

その経験を機に、今自分に必要なのはやらなくていいことを

「手放し」て、

「心のゆとりをもつ」ことで、

その中で「自分を大切にしてあげる経験」を積むことなんじゃないかなって思ったの。


思考の整理や物の整理を学ぶために、ライフオーガナイザーの勉強をすることにして。

ライフオーガナイザーの人のブログや本も読んだし、学びに出かけたりもした。


そうして少し、自分で自分を理解しよう、なんとかやっていけるような生活を構築しよう、と動くことができるようになった。

そう思って動いていると夫との距離感が自然になったような感じだったの。

そんなときだった。


夫から求めてくることが増えて。

夫の言葉やタッチにも変化が生まれて。

その変化に私は満たされたの。


でもそのときはその変化の理由がわからなくて、夫に聞いた。

夫「理由はわからないけど、みかんちゃんが愛おしくて。」

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2回目の転機は note

「知る」と動ける、と理解した私は次に子どもの発達を脳科学やコミュニケーションから学ぼうと新しい行動に出てみた。

ま、こっちは挫折しちゃったんだけどね。


常に仕事と家事、育児の刺激でいっぱいいっぱいの私に、インプットできる余裕はなかったのがひとつ。

もうひとつは、頭でっかちになると心が置き去りになる経験をしたから。


脳科学に関しては、私が今の仕事をしたいと思った動機の一つだったから、基礎的な知識は既にあって、学びを深めるのはなんてことはないと思ってて。

でも全然入らなかった…というか、そのための時間をなかなか取れなかったし、時間を作る努力すらしんどかった。

勉強をするには心の余裕は必須だと思ったよね。

(この感覚は長男の不登校で活用できた感覚で、心が落ち着かないうちは勉強を頑張らせるべきじゃないと思ったよ)


それから、頭で考えているうちは心で理解できないって思ったんだけど、

ノウハウ以前に現状をそのまま感じる、理解するってことが私には大事だって気づいたんだよね。


そんなこんなで私は最初はFacebookで、途中からこのnoteに変えて自分と向き合うことに意識をしてきたんだ。


noteは心地よくて。

余計な広告とかの刺激が入らないこと、

noteからの励ましがたくさんあること、

シンプルな仕組みなこと、

あふれる文章には多くの想いが詰まっていること。

ステキだよね。

いろんな人がいるんだけど、心地よい空間。


どこかビジネスにつなげようとキラキラさせてるFacebookの投稿とは全然違っていて、フッと力が抜けるような気がしたの。

私は力を抜いて、自分の中の深いところにつながりたかったから、安心して自分のことを言葉にすることができたと思う。


そうしていたら、突然夫のスイッチが入ったの。

しかも強力なやつ。

毎晩、私との時間を大切にしようとしてくれる想いが伝わってきて、ほぼほぼ行為につながっていく。

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精神的な適度の距離感が心を引き寄せる

追われたら誰でも去りたくなる。

わかるけど、追わずにはいられない。

だって助けて欲しいんだもの。

自分で自分をいいよって言えないから、誰かに言ってもらいたくて。

自分で自分を抱きしめられないから、誰かに抱きしめてもらいたくて。


それ、他人任せにしたらダメなやつだったんだよね。

自分のことは自分で責任持ってあげなきゃいけないところだった。

自分のことを自分で大切にできるから、そんな私を周りも大切にしたくなる。


夫はそういう私の変化にとっても敏感だった。

私はすごく気になって、どこでスイッチが入ったのか聞いたんだけど、

夫「みかんちゃんが愛おしく感じたから。」

と。

同じかよ(笑)


結果から考えたら、

私が人との距離を適度に置くことができたことと、

自分を大切にできるからようになったことが理由なのかなって思った。

それができて、あり方が変わったんだと思う。


確かにイライラしなくなったし、焦燥感から感情的になったときでもそれを自覚して対処したり言葉にできるようになった。

noteで意識している

「自分を客観視して励ます」

という思考回路が、そのまま日常でもできるようになってきた気がする。

やっと自分の足で自分で立ってる、そんな感覚になれてる。

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安心できる存在だから、関心が持てる

人と関わるときの感覚って人それぞれなんだなぁ、と思う。


人は刺激があるから、刺激が目の前にあるとつい反応しちゃう私や次男は、人の中にいてもなんら違和感はないのだけど、刺激に振り回されるとドッと疲れが出てしまう。

だから心の中でしっかりと線を引き、自分に負担のないスタンスで人と関われるのがベストだと思う。

つまり自分をちゃんと大切にできるスタンスを持てることが生きやすさにつながる。

→そう捉えると、次男は自暴自棄になっていて、全く自分を大切にできてないから空回りしてるんだってわかる。


一方、夫や長男は相手が信用できるのか、自分に害を与えてこないか、良識を持っているのか、が人と関わる上での大きなハードルで、安心感が持てないと心は開けない。

基本的には自分のペースで生きていて、人との関わりって人生における優先度としては低くなってる。

平和で安心して毎日を過ごすには、刺激フルで予測のつかない人間関係がいちばんストレスで危険因子だから。


でも人と関わらないからって人との関わりに欠陥があるわけではないって思う。

欠陥だらけなのはむしろ私の方で、一歩間違えると相手を傷つけるし、振り回されつつも振り回してしまうから。

夫や長男のタイプは慎重なだけで、礼節をわきまえているし、必要以上に踏み込んでこない。

その距離感は揺るぎなくて、その誠実さにはこちらも安心感があるほど。


昔だったら農耕生活で、人の力を借りないと生活できなくて、人々は助け合って生きてきたと思う。

地域の結びつきは強かったと思うし、適度な関わりの中でみんなやってきたんじゃないかな。


今の時代は違う。

核家族化が進んだのは、会社勤めが増えて都市部に移住する若い家族が増えたことと、核家族でも生活できるツールが増えたこと。

家事は電化製品やスーパーに頼ることができるようになり、お金があれば代行だって頼める。

人手がなくてもなんとかなる時代。


だから近くの人間のつながりは気薄になり、本当に分かり合えるとか深くつながりが持てるコミュニティを大切にしていく時代へとシフトしているように感じる。

多様性を大切にして、分かり合えない人とは無理に合わせたりしなくてもいい。

自分で考えて、自分で選択し、自分らしく生きる時代になってきてる。


だから人との関わりって必須じゃないのかもしれない、なんて最近思う。

そのうち、身の回りの世話は合わない人間よりも自分流にカスタマイズしたロボットで十分、なんてことになっていきそうだし。

子どもを産む選択をしない人も増えると思うけど、そうして人口が減っていくのも時代かなって思う。

悪いことじゃない。

そうして変化していくことに対応していけばいいのだから。

あるべきカタチなんてなくって、自然と時代に合ったカタチへと変化していくだけなんだ。


敏感な子どもや大人たちはすでにそれがわかってる。

だから自分なりの幸せのカタチを模索しているんじゃないかな。

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安心して表現ができる空間が行動を促す

もともと、あまり感情表現も言語表現も少なかった夫。

今は控えめではあるけど、バンバン伝わってくる。

感謝の言葉も、

「こうして欲しい」なお願いも、

拗ねた顔も。


なかったんだよ、こんなの。

自分の気持ちや感情、言葉というのは、表現してもイイって安心して思える空間が必要なんだなって思ったよ。


長男もずっとそうだったな。

でも今は私にいろんなことを教えてくれるし、たくさん笑う。

長男にとって外の世界は、そういう安心する空間ではなくて、外に出た瞬間に顔がこわばるの。

私はこれを危険察知モードと呼んでる。

これがゆるむって、多分人生をかけたテーマなんだろうな、と思う。

だって夫と出会ったときも夫はそんなだったもん(笑)


私は「自分を大切にすること」、がなかなか叶えられないテーマだったのと同じように、

夫や長男は「信頼できる人や世界とつながって心をゆるめる」がもしかしたらテーマかもしれないね。


なんだか壮大なテーマになったけれど、それくらい人と関わること、からだを合わせることって深いことなんじゃないかなって思ったんだよね。


いろいろ感じることが増えたら、いろいろつながることも増えてきた気がする。

こうして自分を見つめて大切に考えたり、人との違いを感じたり、違いをなるほどと思えたりすることで、自分の世界が広がっていくのがわかる。


これからもnoteで自分の世界を広げたいなって思うよ。

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