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高校時代までにやっておけば良かったこと【国語編】

昨日の講義で、久々に評論文を解いた。高校時代ぶりに解く現代文。評論を解くのが好きな私は、評論のプリントが配られて「早く解きたい、早く解きたい」と心の中で舞い上がっていた。
だが、私は小説文を解くのがめっぽう苦手で、高校時代は完全に小説の問題から逃げていた。案の定模試の点数は評論文だけが高く、苦手としていた小説やら古典やらは点数が低かった。

「まぁどうせ、使わんやろ」 
「過去問で古典出されてるけど、まだ本番まで時間あるし、いっか」

そんな軽い気持ちで、高3を迎えた。
当初国公立を志望していたが、結局努力もせずに私立の大学に志望校を変えた。それが今となって良かったのか悪かったのかは、正直まだ分からない。

ただ、今となって特に苦手としていた小説や古典の分野をしっかりと学んでおけばよかったと、後悔している。
それもそのはず。親が敷いたレールの上を現在進行形で走っているからだ。「国語の教職の免許を取れ」としつこく言ってくるので、嫌々中・高の教職の必修科目を履修した。教職の科目が苦手分野を扱っているから、という理由で後悔しているわけではない。逆に、教職の講義が楽しくて、少しばかり教職を目指してもいいのではないかと思ってしまっているからだ。

そう思い始めると、まともに現代文の小説分野、古典分野が解けない(ましてや評論に関しては好きであって得意ではない)のに教職を目指してもいいのだろうか、という考えに辿り着いた。そんな大学だから求められることは少ない、と思われるかもしれないが、冷静に考えてそんなことは一切ない。それなりに学習面は高校では学べないことを取り扱っているし、教職の仕事といえば、生徒らに求められる難題を「こんなの簡単じゃん」と言わんばかりに分かりやすく説明できることだと勝手に思っている。

もう少しだけ言い訳をすれば、「どうせ使わない」という気持ちがあっても正直仕方のないことだったのではないか、と思う。なぜなら、そもそも教職を目指すつもりは一切なかったし、高1、高2まではなんのために大学に行くのかが漠然としていて、古典なんて使う気は一切なかったからである。ただ漠然と近現代の文学が学びたい、どうせ近現代の文学を学ぶとしても、古典なんか使わない、と軽い考えを持っていたのだ。そこから急に高3の受験期真っ盛りの時に近現代文学から学びたいことを路線変更して、方言を学びたい、日本文化を学びたい、と漠然と考えるようになった。きっかけはしっかりしている(と思いたい)が、恥ずかしながら方言を学ぶ上で古典がいる、ということを高3の秋くらいまで知らなかった。「この表現をするのはこの活用形でこういう接続があって、文法的意味はこうだ」ということが方言を学ぶ上では重要なものだった。そんなことを秋まで一切知らず、受験科目では使わないし、入試本番までもうわずか数ヶ月しかないということを考えた私は、スッと古典を勉強することを放棄してしまった。

そのまま大学に入学した。前期では、当たり前のように苦手とする小説分野、古典分野を扱う講義が選択必修となっていた。レベルが低いからなのかは知らないが、基本的に指定した本を次週の講義までに読め、または、配布したプリントに現代語訳が書いてあるから訳さずとにかく古典の作品を現代語訳と照らし合わせて、講義中に一緒に読んで最後に感想を書けといったものだった。正直、ホッと安堵した。だが、後期になって教職の科目が入ってくるとそうとは行かなかった。教職の授業で苦手分野を扱った授業を履修しているのではなく、単純にこのままもし教諭になったとして、評論だけでなく所謂「国語科全般で教えるもの」をちゃんと教えられるのか自信がなくなってきたのである。

評論だけを教える教師などいるだろうか。そんなのいないと思う。現代文なら現代文、古典なら古典と必ず教える分野は変わってくるだろうし、年を重ねるごとに教える分野も異なってくるだろう。そう考えれば、母校の高校は私が通う大学よりも程度が低かったので、そんな高校に通っていたなら、当たり前のようにテストは100点でいるべきだったと思う(特に古典)。

だけど、少し強がったことを言えばまだ苦手から「普通」になるにはまだ遅くないと思う。この後悔を教職を取るまでにいつ払拭するか。今でしょ(古い)。

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