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尊重と無関心①

「愛の反対は憎しみではなく無関心だ」とマザー・テレサは言ったらしい。

相手を尊重することと無関心な姿勢とは紙一重だと思う。これは度々感じることで、いつも悩み苦しみ、考えても仕方が無いけれどどうにも興味が尽きないテーマだ。
自他の境界線、自分側に寄り過ぎても、他者側に寄り過ぎてもバランスが崩れてしまうし、個々の性格によってもどちら側に寄りやすいかが異なるような気がする。バランスを取るのが難しいと同時に、とても曖昧だ。
相手を尊重しようとしていても、一歩間違えれば無関心な態度に転じてしまう。要注意案件だ。



仕事における介在価値と、他者への関心


先日知人と話していた際、結婚相談所を利用した感想が話題にのぼった。希望の条件が合わないから、なかなかお相手を紹介されるまでに至らなかったそうだ。それを聞いた私たちは「結婚相談所を利用する意味って、希望条件に合うかどうか以上に『条件には合わないかもしれないけど、あなたにおすすめしたい方が居るから会ってみませんか?』と仲人に提案して欲しいからじゃない?希望条件以上のマッチングができないのであれば、マッチングアプリで充分なのに、なんだかね‥‥。」といったような会話を繰り広げた。それと同時にその内容を話していてハッとした。もし仮に私が仲人の立場だったら、相談者の希望条件とのマッチング以上の提案ができていただろうか。相談者が「これが良い」と思った内容以上にその人の為を思って行動することが、果たしてできるだろうか。

現職(ただいま休職中)の個人営業、もとい提案営業をする中でそんな働きがなかなかできなかったように思う。いや、やるようにしていたのだが、本気で「相手の為を思って」という部分が、なかなかに違和感があった。

「その選択は、相手にとって本当にベストな選択なのか?」
「その人以上にその人のことを考える」

これは、入社時から私を指導してくれていたチューターの先輩が顧客と向き合う時に大切にしていることで、私にも入社当初から大切な心構えとしてマインドセットしてくれていた。初めてその言葉を聞いた時、凄いなぁと思うと同時に、「私、そこまで他人に興味無い‥‥」と思ってしまったのが正直なところだった。もちろん仕事なので、そのマインドを取り入れようと努力した。

元々前職では営業アシスタントとして、主に納期調整とそれに伴う事務を行っていた。その内実は、顧客から問い合わせのあった製品の納期を社内の生産管理部に問い合わせ、生産管理部から下りてきた情報を顧客に流すだけという、”右から左、左から右”的な働きをしていた。顧客に納期を連絡する際には、生産管理部が回答してきた納期からある程度の遅延を見込んで回答したり、その匙加減は調整していたし、どうしても納期が間に合わない場合は運送会社に掛け合って少しでも短縮できないか交渉するなども行っていた。しかしほとんど「ただ納期を回答する係りの人」だった為、仕事を続けていく内に自分の仕事の存在意義の無さを痛感し始めた。私ではなくても成立するし、AIに取って代わられても仕方がない。仕事とは、組織とは、誰かが抜けても回らなければならないとも思う。だから私でなくても成立するのは正しい姿なのだろうが、しかしそれだったら働く必要はどこにあるのだろうか‥‥、お金の為?生活する為?どうせお金を稼ぐならこの仕事である必要性は無い。仕事の時間の使い方としてこの仕事でなくても良い。私がこの仕事をする必要性はどこにあるのだろうか。そう思った。

ところが介在価値を求めて職種を変えた結果、私自身が批判性高い性質であるということも相まって、「その選択は、相手にとって本当にベストな選択なのか?」という構え方よりも「その人自身が良ければそれで良くないか?」という気持ちが強まっていくのを感じた。相手の為を思って意見する、ということに非常に違和感を感じてしまった。きっと先輩も意思決定自体に介入しろと言っていたわけではないのだとは思う。意思決定の過程で自分に提案できることはないか考える、それが私たちの仕事、ということを言いたかったのだと思う。だから私自身がその言葉を極端に捉えてしまっている部分があったと思うが、相手以上に相手のことを考える姿勢、それは相手に相当興味を持っていなければ実現できることではない。また「人を幸せにすることが自分の幸せ」と思えるくらい成熟していないと難しいのではないだろうか。私は自分自身に期待していたよりも、遥かに他者に興味がなかったことが露呈してしまったのだ。接客者としてはもしかしたら最悪の姿勢かもしれない。

私自身他者との壁が分厚い方で、他者に無理に介入してほしくないと思ってしまうことが多々ある。決断力はないし優柔不断だけれど、人に決められたことや自分で納得していないこと、無理に誘導されたことは受け入れがたい。面倒な性格だ。だから顧客も自分と同じようにあまり介入されたくないだろうと、どこかで決めつけてしまっているのかもしれない。

ただ他者に全く興味が無く、相手のことはどうでも良いか、というとそういうわけではない。皆がそれぞれに幸せであれば良いと思っている。不幸になってほしいなんて思っていない。ひとりひとりが自分自身で選択したものを尊重したいという気持ちはある。それぞれが自分の範疇で、自分自身をご機嫌にして、その結果各々幸せだったら、誰かのことを傷つけることがかなり減っていくのではないかという仮説さえ立てている。

そして、不慣れなことを選択・自己決定するまでの過程で誰かに助言してもらえることは、決断する上での大きな助け・判断材料になるはずだとは思う。
そうか、その役割が現職の仕事なのかもしれない。やはり先輩からもらった言葉を曲解し、反発心が湧き過ぎたのだろうか‥‥。


「君って、"よそはよそ、うちはうち”って感じだよね。 」


この言葉は、自他境界について強く意識するきっかけになった言葉だ。ある時サシで飲んでいた大学の友人Aに言われたのだ。ショッキングな出来事だった。どんな文脈で話しをしていたのかはさっぱり覚えていないが、このワードだけはくっきりと自分の中に残り続けているし、今でもこうやって記事が書けるくらいには時折思い出す。
Aと私は映画について学ぶ学科に居たので、映画や芝居についての結論の無い話しをあぁでもない、こうでもないとよく語っていたし、Aは私よりも洞察の深い話しを展開してくると感じていたからAの思考に興味を抱いていたし、よく話す機会を設けていた。
おそらくその日は、人間性が芝居には現れてしまうという観点で会話を展開していたのだと思う。
何故ショッキングだったのか。当時は悲しいような図星のような、どういう意味でその言葉を言われたのか、私のどの部分を見てその言葉をかけてくれるに至ったのか、相手の意図も自分の感じ方も咀嚼し切れずによくわからない感情になっていた。

Aが放ったワードの意味としては、お母さんが物をねだる子供を諭す為によく言う、本来の言葉の使われ方とは少し異なるかもしれない。おそらく「相手に踏み込んでこない」「自己と他者の間に大きな壁が立ちはだかっている」「自分を解放せず、他者に対して自己を隠している」、要は相手に興味が無さそう、というような意味合いだったのだと解釈した。

当時の自己評価として、作品制作において周囲の為に動くこともやりがいに感じていた為、”よそはよそ、うちはうち”的な生き方をしているつもりは一切なかった。制作メンバー個々がベストパフォーマンスを発揮することが私自身の喜びだったので、その為だったらより良い環境を用意しよう!と動いていた。だから私自身と他者は密接に関係していると思っていた。また、周囲に興味はあるし、相手のことを知りたいと思えば勇気を出してアクションを起こしていた。自分でもどちらかと言えばねちっこくウェットな性格だと思っていたので、ドライ寄りに評価されたことに驚いていた。

ただ今思えば、自己開示が苦手なのを見透かされていた故に言われたような気がする。今は、”よそはよそ、うちはうち”でも良いよね~違う人間なんだし、と感じることが多い。
Aからの一言は、今後の私にとっても人生の深いテーマになっていきそうだ。


余計なお世話?


人のパーソナルエリアは難しい。立ち入って良いことと悪いことがある。そう思ったことが何度かあるが、思い出されるのは、前職を辞める時のこと。

職場の同職種の先輩(Bさんとする)は、私が1ヶ月半後に退職することを知り、「人も補充で採用しなければならないのに、引継ぎはどうするんだ。引継ぎ期間が短すぎる。引継ぎに最低3か月はかかるでしょ」と、たいそうご立腹だった。(ちなみに就業規則上は退職1ヶ月前までに退職願を提出要。上司との退職交渉では、退職時期についても問題なく受理してくれていた。)

そしてBさんと私の共通の知人(Cさんとする。Cさんと私は、Bさんの紹介により知り合った)は、Bさんから私の退職のことを聞いたようだった。おそらく退職時期についての愚痴もBさんから聞かされたのだろう。Cさんは私に
「転職するのは良いと思うけど、きちんと引継ぎしないとマズイんじゃない?そうしないとBさんに相当負担がかかるらしいじゃない。最終出社日まで、どんなに大変でも、残業しても引継ぎ100%でやり切らないとダメだよ。私も若い時に仕事辞めた時は、きっちり引継ぎをして辞めたものよ。Bさんにもお世話になったと思うし、終わりよければ全て良しだからね」
と言ったのだった。
正直、本当に余計なお世話だと感じ、腹を立ててしまった。Bさんから直接言われる分には胸が苦しくなったもののまだ受け入れられたが、なぜ会社に関係のないⅭさんに干渉されなければならないのか。残業しようが早出しようが、その期間でできる最大限の努力をして引継ぎをやり切るつもりだったし、転職するからと言って無責任な仕事をするつもりはこれっぽっちもなかったので、よく首を突っ込めるな、とも思った。私がCさんの立場なら、両者が一番良い方法が見つかるといいね、と願って終了だろう。

しかしCさんのその言葉のお陰で私は完全に火がついた。怒りから来るマイナスのエネルギーではあったが、「絶対誰にも文句は言わせまい」と思い、自分の業務全てを網羅したマニュアル書を作成した。働き方改革という名の人件費削減により、残業を出来る限りしないようにと前々からお達しがあった為、通常業務+マニュアル作成を就業時間内で完遂できるようにマッハで働いた。
後任の人には直接説明しながらの引継ぎができなかった為、少しでもこのマニュアル書が役に立てば良いなと思った。私自身入社したての頃、業務の複雑&煩雑さにマニュアルが無くて困っていたので、将来入社するであろう人にも助けになれればなぁという願いも込めて。
完成したマニュアル書についてはフィードバックを受けていないので、本当に役に立つ物になっていたのかはわからない。成果物については完全に自己満足だった。それでもやり切った、と言えるまでやれたので気持ちは爽快だった。Cさんの余計なお世話がなければ、ここまで本気を出していなかったかもしれない。

相手にある程度立ち入らないと、互いに深い関係になれないこともある。初めは迷惑だと感じても、結果的にお節介が誰かの役に立つこともある。役に立たなかった場合はお節介する対象を間違えただけかもしれない。
お節介を向けられた側はただ「余計なお世話」と思うのではなく、解釈を変えることが必要なのかもしれない。「そうですね、ありがとうございます。」と言ってスッと受け流す。それができなかった私はまだまだ子供だった。
逆にお節介する側は、その事象が相手の課題なのか、自分の課題なのか、見極める必要があるのかもしれない。



前職を退職するまでの日々については以下リンクを読んでいただけたら嬉しいです。

※リンク内、以下2つの見出しをご参照ください。

◆2021年8月🎐
難航する退職交渉と全力引継と入社時期の決断~課題の分離・自分軸と他人軸・自己愛について~

◆2021年9月🌾
外耳炎。配属先決定。退職。内見。ワクチン。お別れ。引越し。怒涛過ぎて感情が追いつかない!!!


アドラーの【課題の分離】


アルフレッド・アドラーの『嫌われる勇気』に「課題を分離せよ」とある。その事象は自分の課題なのか、それとも他者の課題なのか。そして他者の課題を切り捨てよ。これができるだけでも大分心が軽くなる。

「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を吞ませることはできない」

相手を水辺へ連れていくことができているか、そして水を呑ませることは相手の課題だと捉えられているか。どちらも大切だ。これは「尊重と無関心」のテーマにもかなり関連性がある。

現職に転職して以降は『嫌われる勇気』を読んでいないが、今の自分の状態で読んでみたら何を感じるだろうか。久しぶりに読んでみたい。

それから今後、「尊重と無関心」のテーマについて、いろんな人から意見やエピソードを聞いて、深く思考してみたいなぁとぼんやり夢想する。意味はないけど、そんな無駄が楽しい。

そして自分自身の自他境界バランスを定点観測していきたいと思う。


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以下記事の
見出し『自分なりの「世界を愛する糸口」は何だろう』をご参照ください。




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