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一生消えなくてもいいくらいの言葉にはまだ出会っていない

小学生の頃、私の父となった人には刺青が入っていた。両肩から二の腕にかけて丸々と太った朱と藍の鯉、背中にはなぜか河童。当時の彫り師の腕が相当立ったのか。本来なら滑稽にもなりかねないはずの河童が実に雄々しく男前に描かれていた。素肌に直接色とりどりの装飾を纏ったその男が誰のお父さんとも違うことは子供の目にも明らかだった。

新しい父との生活は緊張の連続であった。どうにかしてこの男に取り入らなければ日々お腹を満たせない。父は初婚ではなかったものの、子供を持った経験のない人間であった。お互いに手探りで戸籍上だけの繋がりを実写化していく作業が必要だったのだ。子供らしさを突き詰めようとすればするほど、白々しくも甲高い台詞ばかりが空回りした。
「きれいだよ、お魚。きれいだね」
そう言って文字通り父の懐に入り、座り込む。これは私なりの服従の儀式だ。私の脳裏にはいまだ思い出補正ならぬ処世術補正のかかった河童と鯉が泳いでいる。


どういうわけか、ある日家族でプールに行くことになった。新しい父と母と私と、小さな私の弟。家族編成が更新されて初めての遠出であった。私も弟も、心なしか父や母までもが浮かれているように見えた。当時のプールは今ほど規制が進んでおらず、刺青が一律入場禁止までの厳格なルールはなかった。とはいえその物騒な表皮の紋様は家族連れで賑わう区民プールにふさわしいものではないことくらい分かっていた。分かっていたが、この浮足立つ気持ちを抑えることが出来ず、遂に当日を迎えたのだった。

案の定、父はロッカールームを出ても上半身はいつもの白い七分袖シャツを着たままだった。シャリシャリした素材の白シャツを着た父を見て私はほっとした。父以外の家族は皆水着に着替え、不似合いな強い陽射しの下に降り立った。今日は楽しんでいいのだ。…そのときに事件は起きた。

大人でいう、膝下くらいの水位だっただろうか。弟が大人用の足洗い場の階段を軽快に下りてゆき、何段目かで私の視界から消えた。こともあろうに弟は足洗い場で溺れたのだ。ほんの数十秒、いや十数秒のことだったが、小さな子供がパニック状態に陥るには充分な時間だった。弟は水中で天と地の識別を失った。私は『ヒトは洗面器1杯の水で溺死できる』という何かの記事をはっきりと思い出していた。溺れる人間を見るのは初めてだった。手足が石のように固まった私の横から父が現れ、もがく弟をすくい上げた。いつの間にか出来ていた人だかりから安堵の溜息が漏れる。父の白シャツは足洗い場の水に浸ってぐっしょりと濡れた。素肌に貼り付いたシャツの背中からあの河童が透けていた。その瞬間、心配そうに集まっていた家族連れの大半が足早に立ち去る。静寂と喧騒。突然聴覚が戻ってきた気さえする。蝉と弟が鳴いていた。雄々しいはずの背中の河童も塩素の液に浸されて泣いていた。それ以来我が家は家族でプールに行くことは二度となかった。

父はその事件のずっとずっと後、C型肝炎で亡くなった。何年も前の春のことだ。C型肝炎は本来感染者の血液を介して感染する。医師曰く、刺青を入れた際の不衛生な環境が原因だろうとのことだった。父は病気が発覚してからというもの、迫りくる死の恐怖に囚われ、酒に溺れ、最期はもはや何が死因なのかわからないくらいに身体中を蝕まれて死んでいった。あんなに屈強で雄々しい刺青を背負っていてもこの世から消えて失くなることは怖いのだ。気の小さい父がどんな怯えた顔をして死んでいったのかと思うと怖くて怖くて、私は最後までお棺を覗くことはできなかった。学生のときに家を出てから父の顔を一度も見ずに、父は小さなカルシウムの欠片になった。父が死の恐怖から逃れたと同時に、私も父という恐怖から逃れることができたのだ。

誰に強制するつもりもないが、私は基本的に刺青にはノーだ。和彫りだろうと洋彫りだろうと、目の前に死神が現れて死と刺青を天秤にかけたとき、死を選ぶ者などまずいないと思っている。最期に命乞いをしない者だけ入れれば良い。私には関係がない。そもそも私は、一生消えなくてもいいくらいの言葉にはまだ出会えていないのだ。この身に刻みつけるほどの言葉も、誰かの名前も、主義主張も、持ち合わせてはいない。

不意に誰かに言われた言葉を思い出す。
「ミチルさんは、正しい」
そう言われたことは初めてではなかった。
「そう私、正しいの」
次に続く言葉を塞ぐように自ら切り出す。
「つまらない人間でしょう」

正しい人間であることに嫌気が差して夜の街を飲み歩くようになった中、知ったダンサーの青年がいる。彼は腰骨のあたりに碧いクラゲのタトゥーを入れていた。入れたばかりの彼のクラゲはまるでコンパスの針で引っ掻いた生キズのようで、輪郭を撫でたなら僅かに熱と膨らみを帯びていることだろう。彼が踊ればクラゲが泳ぐ。ゆらゆらと艶めかしいその姿を見ていると、正しさとは何か、わからなくなってくる。

「きれいだね」
ショーの間、大音量の中では誰の耳にも私の声は届かない。大人になった今なら、心から美しいと思っている今なら、あの日の子役の自分より、もっと上手にこの台詞が言えるのに。

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