見出し画像

月に二回の劣情 #1

 下品で大げさな喘ぎ声に耳を傾けていたら、気付かぬうちに終点の新宿に着いていた。ドアの向こうには折り返し乗車待ちの客の列が、疲れた顔で恨めしげにこちらを見つめている。その目玉の数に驚いて反対ホーム側にくるりと身を返した。

10時から19時、実働8時間の退屈な事務職をこなし、夜の新宿に出てからが私の1日の第二部だ。改札を抜けると、まず交番前にたむろする風俗のスカウトに、アルタ横で相席屋のキャッチに、二言三言挨拶を交わして歌舞伎町へ抜ける。続けて区役所通りの黒人キャッチにハイタッチしようとしたところ、グローブのような手のひらは私の指を捕らえて離してくれなかった。 

「フミ! イツ呑ミニ行クノヨ? ワタシ、怒ッテルヨ!」

 白目をギョロリと剥いて凄む男に、あ、また目玉がふたつ、と小さく呟くと 「ごめんごめん、今日はこのあと仕事! そんな怖い顔しないで?」と、得意の困ったような、曖昧な顔をして見せた。バハマかどこか、とにかく暖かい国から来たその男は、一瞬怪訝そうな表情を浮かべたもののすぐにニカっと笑い 「マタ今度、約束ヨー!」と、陽気に私の両手の指を解放してくれた。

連絡先の交換もしているのだから本当に呑みたければメッセージを送ってくればいいのに、男はそうしない。可能性なんてひとつもない、ごっこ遊びを楽しんでいる私たち。その証拠に振り向けば、男は既に、裸同然の服を着た別の女に声をかけていた。そして仕事だなんて大嘘をついた私は、男の視界の中で平然と立ち飲みのバーに吸い込まれて行く。今夜あたり、入るであろう誘いの連絡を待つために。


 <2019_04_25_19_51_kusumoto>

「由利、ありがとうね、突然呼び出したのに来てくれて」

 楠本はセンスの悪いロココ調の洗面所で手を洗いながら、鏡越しの私に言った。

「うん、今日あたり呼ばれるんじゃないかなって思ってた。いつも木曜でしょ? 毎週木曜は奥さんが遅いか、留守なんだよね?」

底意地の悪い笑みを浮かべながらショーツを穿く私に、楠本はため息をひとつつく。 

「だから誰も待ってないって言ってるでしょ」

そう言って、くたびれた丸首のインナーシャツから頭をにゅっと出した。
じゃあ私の感じている、この胡散臭さは、なんなんでしょうね?そう口にするか迷っていると、楠本は「由利のこの間の読書レビュー、面白かったよ」と話題を逸らした。

「ありがとう。楠本さんがあのサイトは純粋なSNSだっていうから、SNSらしく使うことにしました」 

私のイヤミを知ってか知らずか、楠本はどこの誰が洗ったか疑わしいワイシャツに袖を通し、「うん、それはいいことだね」と満面の笑みで答えた。

 誰の誘いも受けるようになったのは、ここ三ヶ月くらいのことだ。
 仕事に夢中だった20代半ば。職場恋愛の別れ際、着地に失敗した私は思わぬ大怪我を負った。社会に出て初めて勤める職場、それは私の世界のすべてだった。グズグズの傷口を庇いながら、死に場所を探す野良猫のごとく、誰にも行き先を告げず黙って仕事を辞めた。以降、気が付けば誰とも性交に至るまでの人間関係すら築けなくなり四年が経ち、私は30歳を過ぎた。会員制の出会い系SNSに登録したのは、この頃だ。

容姿端麗でない、総合的に言うとマイナスの部分が優勢である私ですら『女』というカテゴリに属するだけでサイト内では引く手あまただった。初めのうちは作法もわからずに、誘われれば気軽に会い、言われるがままに寝た。快楽を求める感覚は薄く、男女の関係に導かれるための手段をひとつずつ確認しているような、そんな思いだった。そういえば子供のとき、ゲームの攻略本を読み込むのが何より好きだった。私にとってゲームとは、攻略本通りに動作するかどうかを確認するための存在であったと思い出す。


 19時の退勤後、自宅とは逆方向の都心行きの電車に乗り込み、普段なら寝ている時間にたくさんの夜の街の住人たちと知り合った。客引きのついでに女性客を雑居ビルの踊り場にに連れ込むキャッチの男、千鳥足の酔客を見かけた途端、コソ泥の顔になって根気良く後をつけ回すアジア系外国人。みっともなく酔っ払って、花壇に立小便をするサラリーマンさえも輝いて見える。

世界は、こんな娯楽を私に隠していたのか。

 私は数え切れない失敗を積み重ねながら、自身のルールを作っていった。見知らぬ男の車には乗らない、見知らぬ男と会うときは身分証の類を一切持ち歩かない。免許証、保険証はもちろん、クレジットカードやキャッシュカード、ポイントカードすら記名されたものはひとつも持たぬよう徹底した。その上、シャワーを浴びるときはバッグを持ったまま浴室に入る。わずかな現金と、自分という身、ひとつ。きらびやかなホテルの色とりどりの部屋の扉を開けてゆくうち、こうして世の身元不明の遺体というのは出来上がるのか、と思い及んだ日を今でも鮮明に覚えている。

危険な遊戯をしている自覚のある一方で、私は目の前の扉を閉めたらまたすぐに雑踏に溶けゆくことを望んでいた。そのために一番大切にすべきものは『命』であり、『個人情報』であった。特に後者は、そのものひとつでは意味を成さなくても、氏名、写真、勤務先、自宅住所。ふたつ以上のデータが紐付けされた瞬間から殺傷能力抜群の爆弾になる。どうやら私はこの先の人生、真っ当に生き辛くなることを避けたいようで、これは新たな発見だった。なるほど私は、生きていたいのだ。

 そんな中で知り合った男のうちの一人が楠本だった。彼は50代前半の、国家公務員だという。一ヶ月ほどサイト内メッセージでのやりとりを続けたが、私のプロフィールや日記の中から話題を拾うのが抜群に上手く、温和で博識。その印象は、実際に会ってからも変わらなかった。低身長が玉に瑕かもしれないが、黒々として豊かな髪は彼を年齢よりも若く見せた。

おおよそ『人がいい日本人』のお手本のような穏やかな男。両親を揃って幼少期に亡くし、その後育ての親である祖父母も亡くして天涯孤独だという楠本は、機能不全家庭と児童養護施設を行き来しながら育った私に言った。「ぼくたちは寂しさから共鳴し合ったのかもしれないね、この出会いには運命的なものを感じるんだ」と。

 初めての待ち合わせは新宿の南口。そう告げられた瞬間にラブホがないのに?と聞き返しそうになった。混雑の中で入ったスタバの支払いはダイナースのゴールドカード。私には良し悪しがわからないのがもったいないくらいに立派な腕時計、仕立ての良さそうな背広の内ポケットに施された刺繍も間違いなく『楠本』。こんなに上質な男もあんなに下世話な出会い系SNSにいるのだなあ、とせっかちな私は紅茶のティーバッグを上下に揺すった。たったひとつを除いたら完璧なのに。プラカップになみなみと注がれた熱湯に、茶色の煙幕が広がってゆく。

――こんな立派な男が私のことを好きになるわけがないじゃないか

だからこそ私は楠本をある意味で、信頼したのだ。この人は私に興味がない。私の個人情報になど、見向きもしないだろう、と。三度目のデートで「フミちゃん……本名で呼びたいから本名を教えて欲しいな」と甘く囁いた楠本は、四度目のデートで「愛してるよ、由利」と言って私をラブホテルに連れ込んだ。何もかもが鮮やかで、堂に入っていた。年の功としか言いようのない、実に丁寧な性交を終えたのち私は口汚く耳打ちした。

「……なあお前、結婚してんだろ?」 



第2話/第3話/第4話/第5話/第6話/第7話/第8話/第9話
第10話/第11話/第12話/第13話/第14話/最終話

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?