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月に二回の劣情 #4

<2019_04_04_21_22_kusumoto>

 私が『既婚であること』を指摘すると、楠本は一瞬面食らったもののすぐに吹き出し、言った。

「由利……口、悪いねえ……!」

その口調が砕けたものだったので、一方的に仕掛けておいて勝手とは思いつつも、胸を撫で下ろす。どうやら驚いた顔をしたのは既婚が図星だったからではなく、私の口の悪さが原因だったようだ。真顔で「私、賢者タイムの落差がすごいんだよね」と断りを入れる。

「楠本さんみたいに立派な人が、今の歳まで独身とは思えない。でも今ひとつ、確証がないんだよ。シャツだってピシっとしてるわけでもなくてさぁ」

「独身だよ、洗濯だって自分でしてるー。ワイシャツはね形状記憶。……なるほど、賢者タイムね、ハハハ……!」

少しも気を悪くした様子などなく、ケタケタと笑い転げる男は、やっぱりどこかきな臭い。だとしたらこの男はどうして私を愛してるだなんて嘘をつくのだろう。ホテルに連れ込むまでに四度ものデートまで重ねて。そんな嘘、つかなくても身体なら手に入るのに。

「じゃあバツイチだ?」

懲りずに勘繰ると「あ、それは当たり」とあっさり認めるので、なおさら煙に巻かれた気分になる。

「ねえ私、楠本さんを激怒させてみたい。楠本さん、何をしたら怒る?」

七色に光るラブホテルのパネルを落ち着きなくいじくり回しながら私が煽っても、楠本は人が良さそうな顔をくしゃくしゃにして笑うだけだった。



『というわけで、公務員おじさんは既婚じゃないらしい』

 濡れ髪のままベージュオークルのネイルを塗ったばかりの私は、スマホ画面に爪が触れないように注意しながらタップした。定時でまっすぐ帰宅したあとの貴重な時間は、日頃の不摂生の帳尻合わせのように自らをメンテナンスしようと試みる。

『へえ本当かね でも昨日はいつもの安ホテルじゃなかったじゃん 気まぐれ?』

タカハシは昨夜送った位置情報を指していた。私がGPSでホテルや男の自宅の位置情報を毎度送っていること、最初はほんの冗談だったし、今でも九割九分、冗談だ。

いつか身元不明の遺体になるのは心細いし、つまらない。そうこぼした私に、タカハシが『だったらGPSで位置情報でも送ればいいよ』と軽口を叩いたのがきっかけだった。もし私からの連絡が途切れたら、位置情報とネットニュースを頼りに身元不明の遺体に私の名前を紐付けてほしい。

ほんの思い付きでかけた言葉から思わぬ大役を押し付けられたタカハシは爆笑していた。あまり簡単にタカハシが笑ってくれるものだから、気を良くした私は都度ホテルから位置情報を送るようになった。タカハシは今、笑っているだろうか?と。

『昨日は違う人。でも感じ悪かったよ。 ドギツい性病でも伝染ってればいいのになー!』
昨夜の捨て台詞を思い返してモヤモヤとしてみるつもりだったけど、どうやらこの件に関しては私の中でもう折り合いがついている。

『持ってんの? ドギツイやつw』

今回ばかりは持っていたかった……と打ち込んでいる最中、パチモノメッセージアプリの着信音が鳴った。このいかがわしいアプリの着信自体が初めてで、電話に出るボタンは赤だっけ、緑だっけ、なんて迷っているうちに一度通話はキャンセルになり、二度目の着信画面に切り替わる。

「なんで出ないんだよ」

つい先日YOUTUBEで聞いたのと同じタカハシの声が笑っていた。深夜バイトが今終わったのだと言う。私は一瞬だけ耳からスマホを離し、現在時刻を目視する。タカハシは初めて聞いたはずの私の声色には触れようともせずに話を続けた。

職場から自宅まで自転車で15分くらいだということ、通勤のわずかな時間だけが自分に許された一人の時間だということ。淡々と話すタカハシはここ数ヶ月で私が関わってきた男たちの中で、妻がいて、子供がいて、最も生命の営みに近いところにいるのに、最も生気がないような振る舞いをする。

スピーカー越しに踏切の警報音が鳴り響いていた。私は暗闇で安タバコをくわえたあのタカハシの薄っぺらい横顔が真っ赤な灯火に照らされている姿を想像する。

タカハシの自宅がいよいよ近づき通話を終えてからは、何もかも面倒くさくなって右手のネイルはよれたまま、洗い髪も湿ったままに寝室になだれ込む。私が家にいたって外にいたって。もしくは私の内面だろうと外面だろうと。やっぱり私は私を大切に扱うなんてできないという思いを抱いて眠りの淵をさすらっていた。



 楠本は私に付き合おう、とか愛してるとか言い寄るくせに、知り合った出会い系サイトの最終ログイン時刻は常に<30分以内>だの<15分以内>だのと表示されていて、サイト内でまだ何かしらの女漁りに近しいことをしているのは明らかだった。

「あなたのような立派な人が、あんな便所みたいな出会い系で知り合った野良猫女と付き合えないでしょ」と私が言うと、彼は「あそこは出会い系じゃないよ、SNSだよ」と淀みない口調で私を諭し、ネクタイを締めた。割と若向きのその幾何学柄のネクタイだって、どんなよその猫が買ってきたんだろう。

だったら楠本の言うとおりSNSらしく使ってみようか。好奇心で死ぬタイプの猫。下品な野良猫の私は、尻尾を垂らせばエサがなくとも痩せた魚ばかりが大量にかかるこの状況に飽き飽きしていた。そこで趣味でつけていた読書の記録を感想文として体裁を整え、SNSにアップしてみることにしたのだ。

 真面目な投稿を始めた途端に、日に何通も届いていた体目的の男からのメッセージがゼロに近い数まで激減した。アクセス数自体は投稿数に比例して増えているので、明らかに皆一度開いて真っ黒に並べられた文字列を見ては勃つものも勃たず、声も掛けないで立ち去っているのだろう。

息をひそめ通り過ぎる人間の気配を感じることは、興味深かった。読んだ本の記録はまだまだたくさん残っている。かまわず私は読書感想文を投稿し続けた。週に一回、多くて二回。一ヶ月ほど続けると今度は別の変化が見られるようになった。

『イタイ』『キモい』『哲学気取り』

私という場違いな人間を排除すべくして送られた攻撃的メッセージ。本来なら悲しむべきその誹謗中傷も、ここがやはり出会い系サイトで間違いないことをあちら側から肯定してくれているようで微笑ましかった。

投稿した瞬間だけふわっと浮上したかと思うとすぐに割り切りだとか援交だとかの日記に沈んでいくような日々。もう少し。もう少し続ければきっと楠本を唸らせるだけのデータがとれるだろう。タカハシや柴田との出会いはその副産物だ。

そういえば今日も私の日記に知らない男から毛色の違うコメントがついていた。

『この感想文に心を動かされたので、今この本を注文しました』

口説き文句にしては遠回しすぎるその言葉は、ほんの少しだけ私の胸を打った。コメントを残した男のプロフィールページにアクセスしてみる。過不足のない整然とした自己紹介、国内外の一人旅の記録が少し。顔写真や生年月日、居住地は載せておらず、逆にそれがリスク管理の出来るまともな人間である証明のようで他人ながらに安堵する。

欲望を隠す必要のないこの場所で、素面でいられること自体希少だ、と頷きながら男のページを閉じた。私の日記についた簡潔なその言葉には『お読みいただきありがとうございます』から始まるありきたりなコメントを返した。



 タカハシは初めて声を聞いたあの晩から、わずかな時間をみつけては通話をしてくるようになった。それは日勤の昼休みだったり、日勤から夜勤の移動中だったり、帰宅後スーパーに出かける道すがらだったり。頻繁な通話自体が私には非日常で、タカハシとの世代の差を感じずにはいられない。

一日の中で自由になる時間はタカハシの方がずっと短く、私はゲリラ的にかかってくるその通話のほとんどで彼の話をただただ聞いた。なぜ私は自分の時間を割いてまでタカハシの一方的な話をずっと聞いていられるのだろう、タカハシを笑わせたいと思うのだろう、と考えたとき、ひとつだけ胸をよぎった答えがある。

私はタカハシを囚人のようなものだと思っているのだ。懲役20年が確定した、受刑者だと。我ながらバカなことを考えたものだと思う。じゃあタカハシの犯した罪はなんだというのだ。

「俺、フミ姉のちょっと鼻にかかった笑い方、好きだわ」

スピーカーの向こうで重い鎖を引きずりながらタカハシが呟き、私はじゃらりという空耳が聞こえた気がしてふふ、と笑った。

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