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月に二回の劣情 #5

「あれ」

 どんなに始発帰りが続いても、私は昼の事務職をこなしていた。決してお給料は良くないけれど、日中のほとんどを一人で過ごせる小さな不動産管理事務所。今の私にはこれ以上なく都合の良い大切な職場だ。年老いた山羊みたいな雇われ店長の不在中、PC画面いっぱいに堂々と開いたSNSに違和感を覚えた。

力いっぱい伸びをして、モニターとしばらく睨み合う。違和感の正体は思いのほか簡単に見破ることができた。楠本のアカウントのフレンドが増えていた。たったそれだけなのに、なぜだか私はそれを見逃せなかった。(5)だったフレンド数が(6)になっている。私は慎重に6人目のアイコンをクリックした。


☆みいちゃん☆
 埼玉在住のアラサー女子

と銘打ったプロフィールページには出会い目的お断り!の文句が太字で強調されていた。目が滑るくらいに好きなものを羅列し、最後の行に書き込まれた『大好きな彼がいます』で完全に私の眠気は覚めていた。心臓が肋骨に叩きつけられているかのように弾む。何も見ないうちから確信があった。

私はみいちゃんの日記を最新から一ページずつ精査するように丁寧に読んだ。私と楠本のLINEの履歴と、みいちゃんが彼氏と旅行に行った日付、場所、楠本から受け取ったお土産。ひとつひとつの出来事が、ぴっちりと気持ちいいくらいに噛み合った。みいちゃんは私よりもずっと早い時期に楠本と出会っていたようだ。そうか、みいちゃんにとっては私が泥棒猫だったのだ。




静まり返った事務所に呼び出し音が鳴り、雷に打たれたかのように毛を逆立てて驚く。仕事中であることを忘れるなんて。慌てて固定電話に手を伸ばす。

「申し訳ありません、この物件。猫ちゃんは一匹までなんですよ」

仲介業者にそう告げて電話を切ると、無意識に止めてしまっていた呼吸の代わりに大きなあくびをひとつした。目尻に浮かんだ涙を中指で押さえると「はたしてそうかな?」と自問した。猫は……一匹なのかな?



 悪趣味な答え合わせに胸躍らせたその日の夜から、私はみいちゃんの日記に入り浸った。最初はあの嘘つきエリートの尻尾を掴むことが目的だったのに、その嘘つきエリートに夢中になっているみいちゃんが健気で可愛くて、たまらなかったのだ。

みいちゃんは加工済みの写真で見たところ、愛嬌はあるけれど美人とは言いがたい顔立ちをしていた。小太りだとか、だんご鼻だとか、残念ポイントが逐一私と似通っていて、道行く人に口頭で私たちのモンタージュを作らせたら同じ顔がふたつ、出来上がるかもしれない。そのくらいお互いがお互いの劣化版のようだった。

ところが家庭環境に関しては私と真逆と言ってもいいほどに、みいちゃんは親に恵まれていた。みいちゃんの日記には『大好きな彼』と同じ頻度で『お母さん』が登場する。30歳を過ぎた今でもお母さん恋しさに実家を出たくない心境が無邪気に、伸びやかに書き記されていて、その突き抜けた幼稚さは、見るものを黙らせる謎の光に満ちていた。

決して健全とは言えない家庭に生まれ育った自分と比べ、愛し愛されやすい生き方のできるみいちゃんが眩しく思えた。羨ましい、なんて感情を持つこと自体が図々しいくらいに、ただ眩しく、もう少しだけ見ていたくなったのだ。



 定休日明けのめずらしく慌しい勤務を終えると、今夜も私は新宿に向かっていた。そんなに好きなら住めばいいのにと言われることもあるけれど、この街が日常になってしまったらもう同じ気持ちでは楽しめないだろうと思う。黒人キャッチの誘いをいなしながらいつものバーに入ると、見覚えのある中年男性に視線を吸い込まれる。


 あがたりょう。ちょうど先日、感想文を書いた本の著者だった。そういえば『今この本を注文しました』なんて言い出した変な男はもう縣の本を読んだのだろうか。柴田にはまるで「よく行っていたバーに縣がたまに来る」かのように伝えたが、本当のところは違っていた。「縣の来るバーだから、よく行くようになった」のだ。

新宿生まれ新宿育ちの縣が、ミニコミ誌の対談場所を行きつけのこのバーにしたことがきっかけで、私もここに来るようになった。何回か出入りするうちに一度でも縣の姿を見ることができたなら喜ばしいと思っていたが、三ヶ月通っても縣に会えることはなかった。そのうちに女性店員と親しくなり、半年ほど過ぎたところで初めて縣を見かけることができた。

今宵はめずらしく一人で来ているらしい縣は、私と反対隣にいる女の子をカジュアルに口説いている。カウンターの女性店員に薄めのハイボールを注文すると、目を合わせずに縣の動向に耳を澄ませた。8人ほどが入れば満席の狭い店を見渡すと、私の他にも何人かの客は無言で縣の独演会を愉しんでいるようだ。

縣は児童相談所の嘱託精神科医という経歴の持ち主で、その経験を活かして、近年は虐待と家族に関する著書を多く出版している。先日も縣に一対一で相談にのってもらう権利が30分1万円で複数枠、即完売したことが話題になったばかりだ。

20代と思わしきコンサバ系女子は、縣の誘いに応じないどころか可愛く首をかしげ「ごちそうさまでした」とだけ言って店を出て行った。振り返りもしない見事な撤退だった。縣と古くからの友人だという女性店員は「ほら、今の若い子は本読まないから」と慰めにもならない言葉をかけたが、縣は全く気にも留めず独演会を続けた。更に縣の左隣の男性客が勘定を済ませ退店したことで遮るものがなくなり、店内にもう一人、私という雌がいたことに気が付く。

「たまにお見かけしますね」と縣が言うので「いつもモテているところ、拝見してます」とだけ言って口角を上げた。

「僕とホテルに行きますか?」

まさか繰上げ当選に至る一部始終を見ていましたとも言えず「今夜は先約があるんです」とだけ言って連絡先を交換する。縣が「今夜はどんな男とセックスするんですか?」と訊ねてきたので、それ本当に興味ありますか?と前置きしてから「すっごい、悪い奴です」と、見上げてにたりと笑って見せた。

「私以外にも、女がいっぱいいるんですよ、しかも、多分、複数」

声をひそめて私が言うと、縣は「どうしましょう、僕もすっごい悪い奴だったみたいです」と大きく開けた口を両手で覆った。その一連の仕草があまりに滑稽である意味チャーミングだったものだから、無言の聴衆たちも各々のグラスを持ちながら、私同様に肩を震わせていた。



<2019_05_09_20_22_kusumoto>

 みいちゃんのことは、2時間半、フルコースのセックスを終えてから切り出した。SNSのフレンドとしてみいちゃんを追加した時点で私に知られると覚悟していたのか、楠本は「バレちゃったね」と軽く肩を上げおどけてみせた。

「旅行行ってたのもみいちゃんとだったのね。答え合わせ、面白かったよ」

率直な感想を伝えると楠本はごめんね、と言ったので私はその言葉にどうして?と思う。やっぱりこんな立派な人が私を好きになるわけがなかった。施設育ち、学もなく、容姿にも恵まれない私が生きていくためには勘だけが頼りなのだ。その勘が正しかったのは、私にとっては純粋に誇らしいことだった。私は生きていける、その力がある。

「でもね」

楠本が薄手のジャケットを羽織る前に、もうひとつだけ聞いておきたいことがあった。

「みいちゃん一人じゃ、楠本さんの時間の空白が埋まらない。もっといるね。あなたの周りに猫は、もっといる」

預言者みたいな意味深な言い回しをしても、楠本は「……あはは、ないよ」とへらへら笑うだけだった。

「あのさ、楠本さん、天涯孤独だって言ったでしょう。お父さんもお母さんも亡くなって家族はいないって言ったでしょう。……私ね、楠本さんが帰る家に、誰かがいて、楠本さんが明かりの灯ってる家に帰っているならそれはそれで良かったなって思うんだよね。みいちゃんだって今更フレンド登録したがるなんて、自分の存在を誰かにアピールしたいからじゃない? 何か疑いを持っているんでしょう? 私、みいちゃんをすごく可愛いなって思ってる。私が不用意に日記を書いたり電話をかけてしまったりで、みいちゃんや、それ以外の楠本さんの大切な人を傷つけたくないんだよね。私の前では辻褄あわせ、しなくていいよ」

私の共犯者宣言を最後まで聞くと、楠本は黙り込んだ。届かないか……?今回は裏目に出たと諦めかけたそのとき、楠本はようやくその重い口を開いた。

現在進行形で同棲している女が二人いて、両者の家を行き来していること。それ以外にみいちゃんと、私と、人数は濁したが遠距離や年1回の低頻度を含めて他にも女性を抱えていること。そして私以外の女性とすべて、真剣交際していること。

「幼くして両親を、……母を亡くしたから、母の面影と温かさを求めてしまうんだと思う」

芯のないふにゃふにゃとした声を、退室時刻を告げる内線の着信音がかき消していく。確かに私も機能不全家庭に育って、今はある意味乱れた生活をしている。生育暦と性が複雑に絡み合っている、それ自体は間違いがないと思う。それこそ縣の専門分野だ。

そう思いながら質にとったジャケットを中指に掛け、無言でそっと差し出した。
ホテルを出ると区役所通り手前の小路で、楠本はバタバタと不規則な足踏みをした。

「わっ……びっくりした」

太ったねずみが二匹、人目も恐れず動き回る。驚いた拍子に生ゴミでも踏んでしまったのか、尖った赤茶色の革靴を道路に擦り付けるように歩く楠本が「新宿は便利だけど汚いのがね」と太い眉をしかめた。よろけた拍子に雑居ビルのシャッターについてしまった手のひらを払うと、その手で私の肩を抱く。

そうかなぁ。私は好きだよ。散乱した生ゴミ、街を荒らして歩く巨大などぶねずみ、排泄物にも似たひどい悪臭のすぐ横で、精巧な化粧を施した奇麗な女の子たちが甘い香りのクレープを買うために並んでる。ワンフレームにこれだけの価値観が収まる、こんなごった煮の街、そうないでしょう?みんながみんな、自分の欲しいものしか見ていないから、私もあなたも透明人間でいられる。誰にも見つからないでいられるんだよ。改札を抜け、人ごみの中で思い出したようにスマホを確認する。

「あ、ごめん。私今日は京王線じゃないんだよね」

肩を抱く埃っぽい指を一本ずつちぎるように引き剥がすと、耳元で「大丈夫、私も他にたくさんいるから!」と囁いた。きょとんとする楠本を置き去りに山手線内回りのホームエスカレーターに飛び乗ると、ようやく意味を理解した彼が人目もはばからず爆笑している姿が見え、やがてフレームアウトしていった。

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