見出し画像

月に二回の劣情 #13

<2019_10_21_17_39_****>

「油断してた……」

 ショートパンツ姿の私は、搾り出すように言った。この日、男が連れ出したのは老舗の洋食店で、ダメージスウェットの私はしっかりと、間違いなく浮いていた。先客である老夫婦の視線が痛い。

大衆店よ、と男が開いたメニューには隙のない感じのコース料理がいくつか載っていて「言ってくれれば調べてくるんですよ」と私は泣きそうな顔をする。ファミレスみたいなもんだから。君、飲み物は?なんて質問も耳に入らず「フォーク ナイフ 使い方」と呪文のように呟くと、恨みがましい目で男を凝視した。

男はアラカルトの魚料理を大雑把に切り分けると美味しいから食べなさい、と差し出す。かしこまりすぎない自然さが、ナイフとフォークくらい日常的に使い慣れていることを物語っている。私個人の居心地の悪さを除いたら、男がソースを一筋も残さず平らげるところ、永遠に見ていられると思うのに。

「この間、あがたりょうと話す機会があったんですよ」

……ラブホテルで、というのは伏せ、私は差し障りのない部分だけを切り取って話した。私が著名な作家に直接教えを請うたことに男は満足そうな顔をして、その大きな上半身を少しだけこちら側に傾ける。「いいね、人脈、広がってるね」と、グラスに入ったペリエを飲み干す。気付けば外は暗くなり、奥の予約席にも品の良さそうな中高年の団体が続々と着席しはじめていた。

「なんで、私が書かなくちゃいけないの?」

ない襟を正し、真正面から率直に聞いた。

「君は、傷ついてる人だから」

そうかな、そんな人いっぱいいるんじゃないのかな。あなたのような育ちがいい人の周りにはいないだけで。どう?初めて見る?こんなに育ちの悪い人間は。物めずらしいのでしょう?正直に言ったらいいのに。卑屈な言葉なら目を瞑ってもいくらでも出てくる。

男が会計を済ませて店の外に出たタイミングで「私、払います」と声を掛ける。会計前に伝票を持ち出しても、現金を差し出しても、どうやったって支払いをさせてはくれなかった。

誰かを笑わせるために集めていた『汚いホテルの号室リスト』も楠本と会わなくなった今ではすっかり更新が止まっていて、その代わりに私のメモには新しく『大きな男と行った飲食店とホテルリスト』が加わっていた。そこには男が一晩に使ったであろう金額がおおよそで書き留めていて、開けば笑える楠本のメモとは正反対に、書き加えるほどに私は上手く笑えなくなるのだった。

部屋に入ると離れて座る私を呼び寄せ、羽交い絞めにする。初めて会った日に執拗に重ねた唇も、気分次第で日に一度も触れなかったり、かと思えば飲み込まれてしまうんじゃないかと思うくらい喰らいついてくる日がある。気まぐれ、気分屋、自分勝手。男を形容する言葉がいくつも浮かんでは消えていく。男が言うように、もし私に書くことが向いているというのなら、誰よりあなたを言い表してみたいのに。

男がすべてを失くしてしまったら、どんなにいいかと縁起でもないことを考える。他人でありながら男の持つ富の恩恵を享受しておいて、こんな罰当たりなことを考える私は本当にどうかしているのだ。

「……欲しいって言いなさい」

この男、なんて声をしてるんだろう。低くて、柔和で、たまらなく私を欲情させる。その声で命じられたら私は弱い。どんな卑猥な言葉でも口を歪めながら、息も絶え絶えに復唱してしまう。

こんなことができるならどんな呪いでも容易に私にかけることができるのに、それはしない。あのときは操られていたんですなんて免罪符を持たせてはくれない。だからますます私は本心なんて言えなくなる。

私の恥辱にまみれた表情に満足したのか、男は精を放つと息を整えながら夢の中に落ちてゆく。折り重なり呼吸を揃えつつも眠り込まないよう気を張っていた私は、男の寝息にほっとして上体を起こし彼の全身が視界に入る窓際のソファーへと座り込んだ。

静かな夜だ。新宿にもいろんな夜がある。このまま眠るのは惜しかった。眠れば朝が来て、朝が来れば男と私は別々の家へ帰っていく。どうか、もう会わないと、もういらないと心を決めたその日には私に復唱させて欲しい。「もう会わないと、言いなさい」と。きっとその日のセックスは哀しくて、最高に気持ちいいと思うから。

すっかり開かなくなったSNSに新着のメッセージがある旨の自動メールが届き、久々にログインするとなんのことはない、LINEを既読スルーし続けている楠本からの独り言だった。

『最近どう? 大きい男とうまくいってるの? やっぱり男は経済力がないとね。こちらも元気にやっています。また由利を抱きたいな』

経済力のくだりはあの大きい男を指しているようでいて、真の目的は自己アピールだ。あれだけ楠本になびかなかった私が、結局のところ高身長で、高学歴で、一番裕福な男を選んだだけに見えているのだろう。

だとしたら楠本の金持ちアピールはあながち間違いじゃない。確かにあの男特有の動じなさは、それらすべてを含む育ちの良さに由来している。育ちの良さって本当に大切だな、と思う。だってあの男はきっと、我先にと優先席に座ったりしないもの。

楠本のメッセージのスクリーンショットを送ろうと、SNSと同じくらい久しぶりに中華製のメッセージアプリを開いた。最後に位置情報を送って何ヶ月が過ぎただろう。何行もの未読の位置情報を残して、タカハシのアカウントはトークルームから退出していた。その表示は、タカハシのスマホから私の存在がアプリごと消去されたことを意味していた。



 いつもの曇った格子窓付きの扉を開けると、奥から一つ手前の席に、縣がいた。出会いに胸踊らせ通いつめた頃はすれ違いすらしなかったのに、皮肉なことだ。挨拶をすると隣の真っ黒なロングヘアの女も一緒に頭を下げたので、今日は話しかけないでおく日であると察し、離れた席につく。

「私はよく存じ上げなかったんですけど、縣さんが以前からすごく私を気にかけてくださってて」

縣の連れている女は皆そう言うこと、馴染みの人間は承知している。上気しながら話す女は真っ赤なノースリーブのワンピースがよく似合っていて、とても色っぽく見える。店の中でもひときわ縣と付き合いの長い女性店員は、たった3パターンの相槌を巧妙に使い分けながら、美しい女の惚気に感じ良く頷く。

女は化粧室を尋ねると奥の小さな扉へ消えていった。いつもならここで縣は会計を済ませるはずなのに、そうしようとはせず私の隣までやってくると小さく「こないだはどうも」と言うので軽く会釈をした。

あれからどう?と言われても、相変わらず私は気ままな男の見えない顔色を伺いながら生活しているし、何かを書こうなんて必然性は感じていないし、何より前回ホテルの休憩二時間分、あれがもし件の人生相談だとしたら、4万円分の価値があったはずなのに、そんな貴重な時間を有効に使えなかった自分が恥ずかしかった。

「あなたは何をそんなに恐れているの?」

縣は私の顔を一瞬だけ見つめると煙草に火をつけた。

「恐れてなんていないですよ」

「そうかな。僕には恐れているように見えます、彼の胸に飛び込むのを。何が怖い? 何が問題? もっと彼に委ねてみたら?」

「……私」

縣の言葉を真っ向から遮るように呟く。

「私、怒ったら手がつけられないんですよ」

ヘラヘラとそう言うと縣は私が冗談を言っているのだと受け取ったようだった。先生、あのね。と前置きする。

「前勤めてたアパレルの会社で、付き合ってた人に家柄が違いすぎるから結婚できないって言われたんです。私バカだから、施設で育ったことや虐待を受けて育ったこと、あ、この歯もね、前歯全部、差し歯なの、高校生のときお父さんに折られちゃって。そういうこと、なんでも会社の人に隠さず話してたんです。だって私には日常だったから。みんなだってお父さんやお母さんの話、するでしょう? 何がいけないのかわからなかった。伝わるかなあ、パクチーと一緒なんですよ、違和感って。それがダメだって思う人にしか感じることできないの。私ずっとパクチー食べてたけどわかんなかったんです、まずいと思ったことなかったから。それと同じ。例え下手?」

縣はロックグラスをクレーンのような手付きで真上から掴むと、一瞬だけ鋭い目をして「先を、どうぞ」と促した。

「彼、すごく泣いてた。私も泣いた。どっちも可哀想だよね。別れるしかなかったの。ちゃんと別れたの、同じ売場だったからしばらくは顔を合わせて気まずかったけど、彼は地方の店舗に異動が決まってたし。そしたらある日、彼のお母さんがお店にやってきてね。私が異動先に押しかけるとでも思ってたのかなぁ。トドメを刺さずにはいられなかったんだろうね。売場でなんかいろいろ言われたんだけど、要するに私の両親は異常で、私は誰にも愛されないんだって。

彼優しい人だったの、彼のお母さん、彼をきっと大事に大事に育てたのよ。だからあんなに優しい子に育ったんだよ。それがわかったから私ずっと黙ってその話を聞いてた。黙って聞いてたつもりだったのに、どこからかあの日聞いたサイレンの音がするんだよ。気付いたら髪を振り乱しながら御影石の床の上を這いずり回って、叫んで、泣いて、もう声になんかならないの。吠える、そう、吠えてるみたいな声。ものすごい人だかりができてね、誰が呼んだのか他のフロアから体の大きい男の上司が来て、何人かが私の脇を抱えて、力ずくでバックルームに引き摺り込まれて。そのとき、みんなね、やっぱりって。やっぱりって言ったの。

彼のお母さん? びっくりはしてたと思うけど。でもきっと別れさせてよかったって、思ったんじゃないかな。あとのことはわからない、そこから一度も出勤しないで辞めたから。私の中にあんな気持ちがあるって、大人になってから知ったの。

私、全然納得なんてしてなかった。愛情のない家庭に生まれて、殴られながら育って。運が悪かったって納得できますか? 置かれた場所で咲きたくなんかないですよ。私、腑に落ちたいんです。なんで? どうして? ああ、なるほどって。いろんな人といろんな扉を開きながら、毎夜私が愛されなかった理由を探してるんです。そんな人間が誰かといろんな意思決定をしたり、この先を約束したり、そんなこと考えられないです、責任がとれないです」

灰皿の中で吸わないままに灰になってしまった煙草をにじり消す縣の後ろで、知らぬ間にトイレから戻っていた赤いワンピースの女が仏頂面をしている。その不貞腐れた顔ですら、なんて美しいんだろう。

背後からガタガタと大きな音がして、店内の客が驚き振り返ると外で酔客が取っ組み合いの喧嘩をしているようだ。店頭のメニューボードが倒れ、どちらか一方の背中をドアに強く叩きつける音がする。

「ちょっと! 喧嘩なら他所でやってよ! 警察呼ぶよ!」

カウンターの中から威勢よく女性店員が怒鳴ると、酔っ払いが揉み合う声は徐々に遠くなっていく。やだ、怖い、と美しい女は化粧室で直してきたであろうこってりとした唇で呟き、縣は右手で女の手の甲をそっとなぞる。私はチャージと一杯分の勘定、1,500円ちょうどをカウンターに置くと、遠くなる罵声の方角に耳を澄ませた。

「私、やっぱり育ちが悪いから小狡い人たちと引っかき合いながら暮らすほうがほっとします! 早くあの汚い路上に転がり込んで、傷だらけになりたいんです!」

 縣も、あの男も同じか、もしくは近い人種なのだろうなと思う。教養があって、富があって。馬鹿みたいな下ネタや不謹慎なブラックジョークも時々言うけれど、それのどれにも一定以上の品があって、他人をむやみに傷つけるようなことはない。

この人たちは激昂することなんてないのだろう。もちろん怒りという感情がないわけじゃない。むしろ私なんかよりも高く広く張ったアンテナで世界中の理不尽も受信し、噛み砕き、憤りを感じることもあるはずだけれど、そのうちのどれもきっと冷静に仕分けできるし、何より彼らは最初から、激昂させられるような人種とは身を擦り合わせて暮らさなくても生きていけるステージにいるのだ。

そう思うと、急に、憐れみに近い気持ちがわいてくる。この人たちは一生、刃物を持って暴れるような、そこまでのやるせなさを感じることはないんだろう。床に転がり背中を弓なりに反らしながら地に後頭部を擦り付けて、憎い相手の名前を声が枯れるまで叫び続けるような、そんな狂人の快楽を彼らは一生味わうことはない。

私の中にはずっとふみちゃんが息づいている。私のほうが狂人の快楽に近いところにいる。怒鳴り声は花園神社の方から聞こえ、私はゼエゼエと上がる息を飲み込みながら争いごとの匂いを嗅ぎ分けるとゴールデン街を縦に駆け抜けた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?