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月に二回の劣情 #9

「フミ姉最近あんまりGPS送ってこないよね」

 あれだけ脅かしてやったのに、タカハシは相変わらず仕事終わりの通話をやめなかった。一回3、4分ほどであったが、それでも懲りずにかけてきて、今この通話だって私が休みであるのをいいことに、1時間ぶり、本日三回目だ。

「そろそろ誰にも誘われなくなる頃なんだよ」

事実、どこかの女の裸の写真と裸の写真の間に真剣な読書レビューを上げてみたところで、かかるのはあの大きくて変な男くらいで、あとはタカハシのように生身の人間相手に話をしたいような、直接会うことを目的としていない輩が二、三人残った程度だ。若くも美しくもない私の、ビギナーズラックはとうに過ぎていた。

「でも読書の日記面白いよ、俺、文章読むのは苦手だけど上手いなって思う」

あなた映画を撮ってたんでしょ、本くらい読みなさいよと思いながらも「ん」と「ふ」の間くらいの音で曖昧に笑う。これか、タカハシの好きだという私の声は。

「来週さ、嫁が子供連れて五日ほど茨城の実家に帰るんだよ」

つい癖で嫁、実家、茨城、と取り込みたくないパーツばかり拾ってしまう。もうタカハシ家の情報はインプットしたくないのに。

「そしたらフミ姉に会う時間とれると思って」

なるほど、三度の通話の落ち着かなさはこれを切り出すタイミングを伺っていたのか。タカハシの私に対する愛着は、一ヶ月くらい前からずっと、そして継続して今も絶頂なのだろう。メッセージの濃度、通話の頻度。そこに過剰な思い上がりは存在しない。一過性の発熱。けれど制限の多いはずのタカハシが本当に私のテリトリーまでやってくるとしたら、彼の平熱は思ったよりも高かったのかもしれない。

淡々と結婚生活を送り、やみくもに働き金銭を得れば7割は解消されるくらいの適度な不満を抱え、そんなタカハシが自分から檻を出てくると言うのだから私はそれを受け止めるしかないだろう。詳細が決まったら連絡して、と。



 SNSにログインし楠本のページを見ると、(6)だったはずのフレンド数がまた(5)に戻っていた。まさか。(5)の内訳にみいちゃんはいなかった。念のためユーザー検索してみると、みいちゃんのアカウントは丸ごと消えていた。一度ページを更新し、再度アカウントがなくなっていることを確認すると、私は楠本とみいちゃんの間に何かがあったことを察した。

何か、だなんて白々しい言い分だろうか。二人の間には男女のそれしかあり得ないのだから。純粋で愚鈍なみいちゃんがこの世のどこかで太ましい膝を抱えて泣いているのかと思うと、私までやるせない気持ちになった。

みいちゃんが自分の痕跡を消してまでここを去ったのは、私が彼女をきちんと見届けてあげなかったせいだ。どうしてよ。あなた、そんなに大好きなら楠本の目をよく、見たでしょう?あなたが大好きな楠本の目に、あなたは映っていなかったでしょう?




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「うん、こないだ他に女がいるだろうって問い詰められちゃって。……さすがに複数だとは思ってないだろうけどね。結婚願望の強い子だったから年齢的にもそろそろ手放そうとも思ってたしね、いい機会」

 こんな残酷な台詞を吐いていても、楠本の顔は実に穏やかでどこかにやけている。

「冷たいなあ」

「そうだね、かわいそうなことをしました」

そう言って楠本は眼鏡を外すと唇を近づけてくる。楠本の唇は、乾燥し、ささくれ立った見た目とは裏腹に驚くほど柔らかい。貼り付いた唇の間から濡れてふやけたグミのような舌を出し入れされること、なんだか今夜は気持ち悪いとさえ思ってしまう。

見知った指が、舌が、私の首筋を辿り臍下まで到達するその間、私はずっとお母さんに背中を撫でられているみいちゃんのふくよかな白い背中を思っていた。

このひとのことを考えるたび心臓が絞られるように痛むみいちゃんのそばで、私も大丈夫だよと言えたらよかった。愛されて育ったみいちゃん。この世にこんな裏切りが存在すると、知っていたのかな。あの子の手のひらの小さな宇宙いっぱいの絶望も、それはそれは可愛い色をしているんだろうな。

「……利? 由利……?」

呼び戻そうとするその声に我に返り、全裸で正座してこちらを覗き込む情けない中年男を見上げた。たるんだ皮膚、誰のことも見ていない薄情なその瞳。

「ごめん、ちょっと今日はダメみたい。服着ていい?」

返事すら待たずにベッドを転がるように抜け出す。笑える。汚いホテル。休憩3時間2500円。どの部屋もろくにシャワーが出やしない。

「その分たくさん会いたいから」と言ったけど、人数を抱えているから一人あたりにお金をかけたくないんだよね。私が他人と食事をするのが苦手でホテルに直行したがるのも、楠本にはさぞ都合良かったことだろう。

一人ひとりを身体だけじゃなく、心まで落とそうとするのは何故なのか知りたかった。早くに両親を亡くしたことで、私のように何かしらの愛着障害を持っているからなのだろうと思っていた。だけどそれは私の考えすぎだ。心まで奪った方が、安く済むからだね。みいちゃんにも、他の猫たちにも薄汚い場末のホテルすらきっと彼と一緒なら夢見るお城なんだろう。そのための愛情で、楠本は愛情を魔法のように便利に使っているのだ。

「大丈夫? 顔色悪いんじゃない? 水飲んだら?」

別に楠本に鉄槌を下したいなんて思わない。楠本の真実の姿にこれっぽっちも傷ついていない私に、そんな権利あるものか。

「……ねばいいんだよ。楠本さんさぁ、どっかの女に刺されて死んじゃえばいいんだよ」

呼気も終わりかけの、呆れたような嘲笑。もう修繕されることも放棄した、裂け穴だらけの合皮ソファーに足を投げ出し座り込むと、裸のまま、むき出しの尻がぺとりと吸い付く。「言われちゃった」なんてまたふにゃふにゃと甘ったるい声を出す彼が、掃除の行き届いていない洗面所で手を洗う。ついさっきまで私の中をうねるように彷徨っていた短い指を流水で、一本ずつ、丁寧に。

「由利ぃー? 前に俺を怒らせたいって言ったじゃん?」

鼻歌でも歌っているかのような軽やかな足取りでトランクスを穿き始めた男は相変わらずにやけた顔をしていると思ったら能面のような顔でこう言った。

「……『死ね』って言葉、地雷なんだよ。由利、てめえ『死ね』って言葉の意味わかってんのか?」

あ、今。楠本の感情が、動いた。これだけ何度も肌を重ねていて初めての事態に、これはさすがに窮地であると自覚する。さあ、どう切り抜けたものか。私は小学生の頃に飼っていた秋田犬の名で私を呼ぶ男の顔を、穴が開くほどに見つめ返した。

大丈夫、命までとられはしない。私が一番に導き出した答えはそれだった。だとしたら私には楠本は怖くない、だって私が一番怖いのは生きていられなくなることだもの。武者震いをこらえつつ目線を上げると、既に楠本は表情を取り戻し始めていた。

「死ぬっていうことは、辛いことだよ」

さっきまでの地を這うような低い声とは正反対のいつもの猫なで声で言う。飴と鞭、そんな言葉が頭を過ぎる。生きたくても生きられない人もいるんだよ。自身の両親のことなのだろう、躾のなっていない私にひとつひとつ教えを説くかのように楠本は語り始める。




 結局のところ私は「今日はここから一人で帰りなさいの刑」に処されただけだった。その刑が厳罰になり得るのはきっと彼に心酔している飼い猫たちだけで、楠本に思い入れのない私にとっては無罪放免も同然だ。何よりここは新宿だから、パンくずがなくてもなんとでもなる。

ホテルを出ると楠本と私は左右分かれて駅に向かった。落ち込んでいるはずの私の足取りは軽く、しれっと混み合う前の快速電車に乗り込む。

どこからか猫のような声がした。赤ちゃんだ、こんな時間に。赤ちゃんには笑ってるように泣く子と、猫のように鳴く子がいる。にゃあにゃあと泣く子供を縦に揺れながら抱っこ紐ごとさする母親の眼差し。生命の尊さを目の当たりにしてあらためて、死ね、なんて言葉は人様に向けて発してはならない言葉だと身に沁みる。

楠本さん、私はそのことをちゃんと知っていました。あなたは感情的に放った言葉と思ったかもしれないけれど、至極冷静に、的確に、あなたが死んでくれたらなと思います。その気持ち、今も変わりません。だからこそ罪が重いと言われれば、それは本当にそうかもしれません。

途中駅たくさんの乗り換え客が降り、空いた座席前で母子を探し車内を見渡す。ところが彼女たちもここで降りていったのか、乗客の大波が引いたあと、既に姿は見当たらなかった。

……みいちゃんはきっと楠本の優しいところが好きだったんだよね。電車に乗ってからも何度も振り返ってお互いの姿が見えなくなるまで手を振ってくれるような、優しいところが好きだったんだよね。

みいちゃん、私は、彼が電車に乗り込んで優先席であろうとおかまいなく奪うように座るところが好きになれなかった。おばあさんの目の前で優先席に座ったまま、こちらに向かってちぎれんばかりに手を振る彼のことがどうしても好きになれなかった。私も幸せになりたかったよ。幸せな気持ちに浸りたかったよ。みいちゃん。一体彼の、どこを見てたの。

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