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月に二回の劣情 #8

『めずらしいね、そっちから連絡してくるなんて』

 柴田の言葉に、だってイライラしてるからとは言い返せずに、そうかな、とだけ送る。まともに暮らしていたらなんの接点もない私たちは『まだ朝活続けてるの?』なんてつまらない会話しかできない。

だってあんな殺風景な部屋に住む人のこと、どこをどうつついてみても私なんかには盛り上げられないのだ。テンポの悪い沈黙ののち、『英語力を活かしてキャリアアップしたいから』とまた私には掘り下げようのない返信が返ってくる。

『あのさ』

柴田が言う。

『こういうのさ、良くないと思う』

突然か必然か、でも似たような台詞を私は何度も繰り返し浴びてきたものだから、この先に続く言葉も想像がついてしまう。

フミちゃんは『フミちゃんは』
自分のこと『自分のこと』
好きではないだろうし『好きではないだろうし』

ほら、そして。
自分もフミちゃんのことを好きではないから『俺は……フミちゃんのこと可愛いとは思ってるよ、でも……』

うん、まあ、大体合っていた。柴田は頑なに私を部屋の内側に入れなかったのに、思っていたよりずっと優しい言葉を選んでくれているように感じる。その様子に彼は彼なりに浅いところで溺れていたのだな、と思う。

『私はあなたを尊敬してるところもあったよ。自分のために努力できる人だなって。私にはできない努力ができる人だなって』

嘘ではなかった。柴田の部屋の殺風景さも、あの独特な匂いの布団も好きにはなれなかったけど、でも懸命に生きてる人だとわかっていたからこの粗末な身体を差し出した。

半年で気が済んだと言い切れる、柴田の小さな小さな地球を馬鹿にしたところで、その小さな小さな世界にすら一歩も踏み出せないのが私。自宅と、職場と、その延長線上、終点新宿までの片道30分圏内。その狭い世界の片隅で知ったような顔をしているのが私。

『自分はそんな立派な人間じゃないよ』

大丈夫、これはあなたを引き止めるためのご機嫌とりではないからね。

『今までありがとね』

『うん、元気で』

事が済めば始発で一人勝手に帰っていくことを差し引いても、三度会うに値しない気味の悪い女。その女が暗いスマホの画面からじっとりとこちらを見つめていた。




<2019_07_03_19_12_****>

「ちょっとタイに行ってまして、これお土産です」

 怒りにまかせたにしては控えめな私のメッセージは忘れた頃に既読となり、数週間に渡りスルーされ、また忘れかけた頃に返事が届いた。第一印象の『自分の時計で生きている人』は今思えば嫌味なほど的確に男の性質を表していて、それが余計に私を苛立たせた。

男が目の前に差し出してきたリップクリームくらいの小さなプラスチックケース。「ヤードムです、タイの嗅ぎ薬」と言って鼻の下に容器をあてると胸いっぱいに湿布臭い空気を吸い込んで見せた。その吸い込む息の量の尋常じゃなさがこの大きな男の肺の大きさをおおよそこのくらい、と指し示しているようで悔しいけどちょっと笑ってしまう。

この男少し変わっているのかもしれない。あの晩、野暮ったさが私の頬を緩めたビニール包みすらもなく、裸で差し出された小さな土産物をしかめっ面で受け取る。

「で、ここは。タイ料理屋ですか」

「ベトナム料理ですね」

全然ちなんでないんですね、と言いながら男の注文した春巻のようなものにかぶりつくと、パクチー大丈夫ですか?と聞きながら男はサラダを取り分けてくれた。あんなにこっちの方が広いから、と奥のシート席を勧めたのに、男は小さな向かい側の丸椅子に身体を縮めて、器用に重心をとりながらなんとか腰掛けている。

「パクチー私、好きか嫌いか、わかんないんです。でもそれって嫌いじゃないんだと思う」

すると男は、お?哲学的なことを?と返しつつも続けたまえ、の視線を送ってきたので、私は低い鼻を精一杯尖らせながら持論を展開する。

「私、今まででこれがパクチーだって、意識したことないんです、料理の中で。嫌いだったら何これ? って思うはずでしょう? だけど問題なく食べられちゃってるからどれがパクチーだかわからないし、嫌いでもない」

なるほど一理ある、と男は長い足を組み替える。初めて男の賛同が得られた私は、これパクチーですよね!とサングリアに添えられた緑の葉を、茎ごともしゃもしゃと食べて見せた。得意気な私を横目に、細くて長い手のひらをすっと挙げ、男はビールのおかわりを注文する。そしてこちらを見るとにっこりと笑って「それはね、ミントだと思いますよ」と言った。


 不機嫌そうな私を気にも留めず、男は私の一生行くことのないであろう、汚い水溜りのたくさんある外国の話をした。我関せずな男の様子に、私も堂々と興味のない顔をする。店を出ると男は平然と私の腰を抱き、以前素っ気なく別れた場所と同じ方角へと導いていく。

決して小さくない私の胴囲も、男くらい腕が長ければなんの問題もなく引き寄せてしまえるのだな。その腕の絶妙な緩さが、いつ踵を返すのも君の自由だよ、と言われているような気持ちになり私は意地になる。

挑むような目つきで何度も嫌だ、と言いながら一晩中、上になったり下になったりを繰り返し、そのたび男は吐息を漏らした。始発の時間になりそっと衣服を整えると、私は男を起こさずに部屋を出た。下り専用エレベーターの乗り口が開く頃、後ろ手に閉めた客室ドアの向こうから退室を確認する内線のコール音が聞こえてくる。

あのコール音が途切れたときに男は私の不在に気付くだろう。その気配を感じたくなくて、閉、のボタンを四、五回連打する。この夜、男の名を呼び損ねた私はそれからずっと男の呼び名を見失ってしまった。

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