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月に二回の劣情 #10

『フミ、という名は私が施設に預けられている間に知り合った女の子の名前だ』
 
 楠本の死を間接的に祈った日の夜、私はそんな書き出しから始まる日記をしたためていた。SNS上で自らを語るのは、初めてだった。

母の再婚によって連れ子となった日のこと。浪費癖のある二番目の父、その父と母の間に生まれてくる弟。初めはお産のための入院期間だけの約束が、産褥期が、年子の妊娠が。あれよあれよといううちにその期間は伸びてゆき、やがて私は家族にとって『たまに訪問する、よその子供』になった。

ふみちゃんは二つ年上のいわゆる癇癪持ちの女の子で、その強烈さは施設を出て10年以上経った今でも、私が先生や他の児童を思い出すことを妨げている。あの頃の私の世界のすべては、ふみちゃんのいつも握っている擦り切れたハンカチ越しに見えていた。一時的にでも家へ帰ることができる私は、長いあいだ施設で暮らしているふみちゃんにひどく嫌われていて、ふみちゃんと二人きりになるといつも、食堂の片隅にある使われていない業務用冷蔵庫の中に閉じ込められた。

冷蔵庫の中は電源が入っていないにもかかわらずひんやりと冷たく、これ以上はないほどに真っ暗で、私の恐怖心を一層かきたてた。泣かなくても、泣きすぎてもいけない。ふみちゃんの気持ちを逆撫でするまいと必死だった。

母が迎えに来た日、職員さんのちょっとした手違いで、面談室から出ていく母と私の背中をふみちゃんが見てしまった。絶叫、悲鳴、取り押さえる先生たちの声。廊下に響くサイレンのようなふみちゃんの金切り声から逃げるように施設を出た。私がふみちゃんを見た、最後だった。



 書き上げると同時に眠りに落ちていた。目が覚めるとわたしの瞼はぴっちりと糊付けされていて、親指と人差し指を使って睫毛が抜けないように丁寧に目を開き、ぬるま湯でそっと顔を拭った。何年もずっと胸の中にあった感傷も、書き出してみると実に他愛がないように思えた。

投稿された日記には通りすがりのLikeがいくつか押されているものの、それが「見ました」以上の意味を持たないと、充分に承知している。また誰かから中傷のメッセージが届くのではないかと身を硬くしていたが、私の独白はあっという間にくだらない出会い目的の日記たちに埋もれ、消えていった。



 日記を投稿した日の夜は、タカハシとの約束の日でもあった。17時までの日勤を終え、翌日の勤務の準備をしに誰も居ないマンションに一度帰宅しているタカハシから送られてきたのは意外なメッセージだった。

『嫁が、いた』

私とタカハシの家の中間地点でもある、新宿のビジネスホテルとレンタルルームの間くらいの宿泊施設。三日前にはそこを予約したと弾んだ声で電話をかけてきたばかりだったのに。日勤が17時に終わるだろ?そしたら一旦帰って、翌日の日勤の準備に着替えて出る、朝は新宿からだったら8時に出ればいいから。タカハシはまるで自分に言い聞かせるように、たいしたトリックもない行動計画を私に何度も説明してみせた。

「私たち、会ったらセックスしちゃうんだろうね」

落ち着きないタカハシの挙動を止めてやりたくて、わざと挑発的なことを言う。

「……そうかもね」

電話の向こうで私のぬかるんだ性器を想像したのか、タカハシは喉を鳴らすと、あるじに尻を叩かれた犬のようにおとなしくなった。高揚した気持ちで自宅のドアを開け、妻の靴があると気付いたときのタカハシはどんな顔をしていたんだろう。まるで他人事のように趣味の悪い妄想ばかりしてしまう。違う、他人なんだ。結局私たちは他人のままだから、こうして私は笑ってるんだ。

「マサくんももうすぐ二人の子供の父親になるんだから、しっかりしてくれないと」

タカハシの妻はスマホを取り上げ問い詰めたり、さめざめと泣いたりはしなかったようだ。それでも、もともと淡白なタカハシの気持ちを削ぐには充分だった。私の想像するお粗末な再現ドラマの中で、タカハシの妻は延々と洗濯物を畳んでいる。

タカハシが最近トイレに行くにもスマホを手放さないこと、就寝前のコンビニ外出が増えたこと、バイトからの帰宅がほんの少し遅くなったこと。妻はどれも敏感に察知していて、たった一度だけ、確実に釘を刺すタイミングを伺っていたのだ。

『強い』

今夜の予定が潰された事実よりも、今日という一線を越える日を完璧に制した、タカハシの妻の見事なまでの勘に私は感服していた。

『スマホは見られてないと思う、それに見られたとしてもLINEじゃないから、アプリ自体に気付かないと思うし』

タカハシの狼狽ぶりは画面越しにひしひしと伝わってくる。今はいいから奥さんのケアしなよ。私たち他に繋がってるとこあったっけ、と聞き取りながら、そうだ、と今はもう更新されていないタカハシのYOUTUBEチャンネルのフォローをそっと外した。タカハシはありがとう、と言ったままその日はこちらのメッセージアプリを開かないようにしたようで、そこから一切の連絡は途絶えた。

大の字になってフローリングに寝転ぶと、本当に囚人だったのね、と私は笑った。バタバタと天井に向かって足掻いたペディキュアの残像が、会いたかったな、とも会わなくてよかったな、ともとれる色で滲んでいた。



<2019_07_24_00_31_****>

 ベトナム料理からおよそ二週間後、深夜にあの男からの連絡が飛び込んできた。

『今、新宿にいますか?』

そう聞かれた私は自宅にいて、既に歯みがきまで済ませていた。もう家なんですけど……断りのつもりで返事をすると、男は迎えに行きます、と言い、それを聞いた私は男が車を所有していると知る。

男はSNSで見つけてきたクラブイベントの名を口に出しそこに行ってみたい、と言った。そんな昭和の文豪みたいな風体で?と思いつつも、自宅付近の病院の駐車場を待ち合わせ場所として指定する。この人、前回私が黙って帰ったこと、何も言わない。

深夜1時近くに、男が思っていたよりもずっとコンパクトな車に乗って現れた。私ばかり緊張しているのが癪になり、エスコートされて当たり前の顔を作ると不自然な動きで車に乗り込んだ。運転をしながら男は普段行かないところに行ってみたくなった、と言うので私は「おっぱいを捕まえに行く場所に予備のおっぱいを連れて行くなんて最初から狩りをする気があるのか」と叱咤した。

ゴジラ近くの大型駐車場に車を停めると歌舞伎町を抜け、地下にある小さなクラブに入る。終電はとっくに過ぎているのに、フロアには派手で香水臭い女と金のなさそうなにやけた男がひしめき合っていて、この品のなさに私はともかく、連れの大男は極めて居心地が悪そうだ。

入場料を二人で1万円近く払ったにもかかわらず、男はビールを一杯飲み干すと滞在15分ほどで出口に向かう人の流れに上手くのり、掃き出されるようにクラブの外に出た。コンビニの前には少年みたいな幼い顔にV系メイクを施した駆け出しホストたちが何人もくだを巻いている。

「見て、あの人たち、めちゃくちゃゲームのモブっぽい」

30センチ以上高いところから同じ光景を見下ろした男は、歌舞伎町のこの一画をそう評した。私はランドマークのようなその身体で、夜の街をすり抜けていこうとする男のシャツの裾を捕まえて「ものすごい、つまんなかったね」とついさっきまでの喧騒をばっさり切り捨てた。

「普通、中で言いません?もうお店出ようとか。しかもずっと私の付き添いですみたいな顔して」

男が支払ったとはいえ誘っておきながら相談もなしに店を後にしたこと、当てこすらずにはいられない。これ以上はない正論に胸を張って男を見上げると、なんと男は変顔をしていた。不意打ちについ笑ってしまった私は負けを認めるほかなく、立ち止まると「ねえあなた」と男を振り向かせ「息をするように生きてる!」と叫んだ。

ぱっと見、治療痕のない奇麗な歯、部屋に入るとスリッパをかかさず履くこと、必ず手を洗うこと、水を張るときにわざわざ栓を抜いて浴槽をシャワーで一度、流すこと。嫌味のない男の小さな仕草ひとつひとつが、育ちの良さを物語っていた。丁寧に、適切な愛情を注がれて育てられた男なのだなと思う。

「だからこんなに大きくなっちゃったのね」

歌舞伎町を先導する男の背中に隠れながら言った。歩きづらいんですよ、それ。と言われても、目ぼしい店を探してゆらゆら進む男の後ろをパーティーメンバーのようにぴったりとついて歩くのが面白かった。あなたRPGだったら職業何かな?と問うと即答で「賢者」と言われぐうの音も出ない。

前から見たら一人パーティーにしか見えない大きな賢者は、1メートル歩くたびにキャバクラのキャッチに幾度も声をかけられた。その姿にくすくすと笑いながらひょいと顔を出すと「ねえあなたアルバイトしたことないでしょう?」と投げかける。資産家の生まれであろう男の素性を揶揄したつもりが意外にも「あるある、マックとか、いろいろ」なんて返答をされ言葉に詰まる。

「……バイトしたことないのは、私のほうだった」

バツが悪そうに俯き、私が言った。なんで?どうして?遊ぶお金は?私の告白がよほど興味深かったのか男は矢継ぎ早に反応し、墓穴を掘った私は心拍が上がるのを感じながら搾り出した。

「父が、バイトとか部活とか、しちゃいけないって……学校終わったら帰って家事、しなくちゃいけなくて……」

その答えに男が到底納得できたとは思えなかったが、目当ての店に行き着き、興味も話題も自然に移り変わってほっとする。ただいま、と言って地獄に帰らなければならない人間がいるなんて、この男はきっと、物語の中でしか知らない。ケーキを食べればいいのに、なんて無邪気で残酷な質問に私はずっと笑っていたい。誰にも思い知らせることなんてしなくていい。ほんとだね、どうして食べないんだろうね。そう言って私も一緒に笑っていたいのだ。



 少しだけバーで飲み直すと、男は駅から離れたシティホテルに入って行った。立派すぎるエントランスでパジャマ同然の軽装の私は、スマートにチェックインする男に近寄らぬようおかしな気を使う。

「ここお高いんじゃないですか……」

広々としたエレベーターの中で独り言のように漏らす。「朝食がいいらしいから」と言われて初めて、始発での逃走を封じられたのだと気が付いた。シンプルで洗練された内装は、パジャマ姿の私を一層みすぼらしく感じさせる。

男はポケットの中身をサイドテーブルにすべて出した。その中には小銭、車のキー、そして男のフルネームが印字された朝食券があったので、私は備え付けのミネラルウォーターのボトルをそっと重ねて男の名前を伏せた。

食事に行った先の店頭で、予約の電話を入れる車の中で。男が自らを名乗るとき、私は隣でそっとこの耳を閉じる。朝になったら速やかに他人に戻っていくために。

男は私が着ていた安い化繊のキャミソールの手触りが妙に気に入った様子で着せたままに行為を終えると手のひら、手の甲を使っては繰り返し私の上腹部を撫で続けた。そういえば、この男には余白の顔をしてなかったな。そう思い、男の目を見て少し笑ってみようとしたけれど、今夜はどうしてもうまく笑うことができない。

「……ルカイックスマイル」

男は私の顔を見て呟いた。心当たりのなさそうな私の表情に「知らない?」と言うと、何の説明もなしに一人眠りについてしまった。

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