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月に二回の劣情 #12

 区役所通りの黒人キャッチはまだ10月も中旬だというのに分厚い革ジャンを着込んでいて、私を見るなり「ハァイ」と言った。

「もうこんなの着てるの? 真冬に着るものなくなるじゃん!」

硬い袖口をつまみ私が笑うと、一体どこまで言葉を理解できているのか、南国リゾート地生まれの彼も「着ルモノアルヨ!」と白い歯を見せた。

彼ら黒人キャッチもほとんどが多摩だとか相模原だとか、新宿から片道1時間はかかる遠い土地に住んでいて、夜9時くらいから街頭に立っては、始発電車に揺られて地元に帰る。

発車待ち、駅のホーム。彼らの姿を見かけると、最寄り駅を知られたくない私はぐっと肩をすぼめて居眠りのふりをする。通り過ぎた筋肉質なふたつの背中は少年のようにじゃれ合い、空席を求めて前方車両へと消えていく。

彼らの大半が貧しい暮らしをしていて、誘いにのれば財布すら出さないと知っているから深くは関わらないけれど、私は私なりに逞しく暮らす彼らが好きなのだ。私ならきっとこんな遠くの知らない国であんな無邪気な笑顔を浮かべるなんて出来ないと思うから。

ゴールデン街の入口でキャッチとついたり離れたりを繰り返していると「お待たせ」とどこか艶っぽい男の声がした。

あがただった。
いつもの店内じゃないからか、黒人三人に囲まれているからか、憧れの存在だったはずの縣は驚くほど小柄に見える。

きっと質の悪いキャッチに絡まれていると思ったのだろう、私の太ましい左肩を躊躇なく抱き、男たちの目の届かぬ入り組んだ脇道に入ると「この通りに知ってる店ある?」と目配せをした。場数を踏んでいるってこういうことなのかと感心してしまい、誤解を解かないまま、私は立ち飲みのバーに入った。

縣行きつけのバーが満席だったとき、時間潰しに使うために出入りしているノーチャージの店では、今夜も金のない大学生を中心に五人の男女がレモンサワーを飲んでいた。私はそれに倣ってレモンサワーを、縣はマッコリをそれぞれ注文する。

縣は今時どこで焼いているのか、健康的の域を出ない程度の絶妙な小麦色の肌をしていて、加齢で若干ゆるんだ表皮は笑い皺ができるたびにてらてらと浅黒く光っている。その肌色と対照的に6割方白髪が侵食しているグレーヘア。一重のその目は鋭く、いわゆる正統派な男前の部類ではないはずなのに、自分の魅力の引き出し方を心得ている彼は、素材よりも何倍も上質な男に見える。

男子大学生が一人「おじさんどこかで見たことあるんだよな」と言い出すと、一見客であるはずの縣はあっという間に若い男女の心を掴んで活発に彼らと意見交換をし始めた。目立ちたがりの性分なのか、日頃から講演会業務をこなす縣には華がある。いつも二言目には口にする「次会ったらセックスしましょう」も、今夜は郷に従い封印しているようだ。

縣が空のグラスを置く。マッコリが入っていたそのグラスは斜めに傾けた液体の跡がついたまま白く曇っている。縣が2杯目を注文するタイミングで私は会計を申し出た。ちらりと見ると彼はまだ自著について熱弁を振るっていたので声も掛けず静かに店を後にする。キャッチたちのたまり場を避けて花園神社方面から靖国通りを抜け駅に向かう途中、電車の時刻を調べているところへ以前交換したきり使うことのなかった縣からのLINEが届いた。

『帰っちゃいました? これ飲んだら行くのでちょっと待っててください』

そこから約20分、少しもちょっと、ではなかったけれど丸く太ったねずみが堂々と行き交うこの時間帯じゃそんなの誤差の範疇だ。テルマー湯の前で合流し微笑み合うと、私と縣の足は申し合わせたように、自然とホテル街に向かっていた。多忙な縣はせっかちなのか、10歩進むごと私は小走りで帳尻を合わせなければならなかった。足の長いあの男と歩くときには、一度も駆けたりしないのに。

縣が選んだのは新大久保寄りのラブホテルだった。ここはサウナがあるんですよ、2時間の休憩のボタンを押すと、慣れた手つきでフロントからルームキーを受け取った。縣が会計を済ませている間、ガラスケースに入ったポイント交換のブランドバッグやディズニーチケットを一瞥し、スマホを取り出してタカハシに位置情報を送る。もう何十行も私側から一方的に送ったメッセージが既読になっているだけだ。



<2019_10_15_23_18_agata>

 入室すると縣は真っ先に部屋の空調や空気清浄機を調整する。その姿は短時間でも居心地の良い巣に滞在したい、縣の性格を物語っていた。巣作りの延長でバスタブの蛇口をひねるとどちらともなく服を脱ぎ、ベッドの上で向かい合った。こんなに近くで縣の顔をじっと見つめるのは初めてだった。

「あの」

恐る恐る私は言った。

「私、小説を書きなさいって、ある人から言われていて。その人、すごいお金持ちで、私たくさんお寿司や焼肉を食べさせてもらっていて。だから小説を書かなくちゃならなくて。作家ってどうしたらなれますか? 先生はどうやって作家になったんですか?」

子供じみたくだらない質問だとわかっていた。わかっていたからこそ、二人きりになった瞬間に切り出す私は臆病で身勝手だ。ところが縣は気を悪くした様子もなく、私の話を聞いてくれた。出会い系サイトで私が綴ってきた読書感想文、それを読んで私を見つけてくれた変わった男。

「書くとしたら書きたいテーマはあるの?」

縣は両手で前髪をオールバックの形に撫で付けると、すっかり仕事の顔をしていた。私は自身が児童養護施設にいたこと、そこで出会った女の子にひどく虐められたこと、それでも自宅に帰る方がずっと地獄で、父親が病死するまで耐え難い暴力を受けていたことを話した。それらを聞いて、縣は私がなぜあの店にたびたび出入りしていたのかを察したようだった。

縣の著書には、虐待を経ても大学や院を出て医師や弁護士などの立派な仕事に就いている人、逆にヤクザになって更正できず刑務所を行き来しているような人、援助交際から抜け出せず風俗で働いている人がたくさん登場する。彼らのすべてが仮名であるが実在する人物で、縣は決して前者を素晴らしくて後者をけしからんとは言わない。人それぞれの持って生まれた器の大きさ、それに見合う悦びについて対話をし続ける。

お風呂溜まりましたよ、と縣が言い、そのために裸になったかのように二人は浴室に入った。サウナの発生機からはもくもくと蒸気が出ていて、白い湯気の向こう側に見える黒く鍛え上げられた縣の後ろ姿はまるで、アメコミのダークヒーローだ。

「ごめんなさい、先生の周りにはよくある話でしたよね」

同じ湯船に浸かっているのに、白く曇っているせいで縣の表情はまったく読み取れはしない。

「あなた、もう精神的にも環境的にも落ち着いてるように見えるから。そこを掘り返して、言うなればフラッシュバックをあえて引き起こさせてまで書くほどの価値があるのかどうかですよ。もちろん僕はあなたの書いたものを読んだことがないからね、今聞いた話だけの感想です」

「先生の新刊が出るたびに、その中に登場する女性をふみちゃんかもしれないと思って読んでるんです。親が迎えに来る私を羨み、憎んでいたふみちゃんかもしれないって。帰れば食事や睡眠も制限されてひどい折檻を受けていた私のこと、知らないんです。私こそ羨ましかった、愛情が欲しいとまっすぐに泣き叫ぶ、ふみちゃんが羨ましかった」

のぼせる前に出ますね、と言ってシャワーを浴び浴室を出ると、縣が絶妙に調整した室温が火照った身体に心地良かった。ブラジャーとショーツを着け、キャミソールに頭を通したところで縣が大きな息を吐きながら現れる。

「あなたや……ふみさん? のような貧しくて無学な人にも伝わる本を書くことが僕の使命ですね」

耳の中に入った水分を、硬いバスタオルの縁で拭き取りながら縣は言う。

「そうですよ、ちゃんと私たちを言い当てる本を書いてください。世の人たちが占いを好きなのって、自分を言い当てて欲しいからでしょう? 私たちのことは先生が言い当ててください。そしたらもう毎晩身体を差し出して、危ない思いをしないで済むから」

そう、何も私が書かなくてもいいじゃない。窓の開かないホテルの一室で、朝日が射して照らされたあの男の薄い眼鏡を思い出していた。



 19時が近付き、退勤の準備をし始めたのを見計らったように一通のメッセージが届いた。

『久しぶり』

柴田だった。ずいぶん前に彼とは終わったはずなのに。

『元気だった?』

何の用かなんて、聞くことすら無粋でためらってしまう。仕事が忙しくて元気はあんまりないよ、疲れてて体調も良くないし。心がここにないと隠そうとしない私の返信にもめげずに柴田は続ける。

『来る?』

どんな気持ちでその言葉を私に送信したのだろう。柴田は今日も私を無自覚に、粗末に扱っている。

知らないのね、あなた。私、あなたの家に行ったときはいつもお腹が空いていた。事前も事後も一度だってシャワーを浴びさせてもらったこともない。なによりあなたの家から私の家まで片道1時間半以上、かかるのに。それだけ時間がかかればもちろん、交通費だって。それに私、疲れてるって言ったでしょう、それは嘘だけど。

誰にも思い知らすなんてしなくていいはずなのに、私からは戒めの言葉ばかりが次々と浮かんで、そして消えてくれない。長い沈黙のあと、強張った指で一言だけ柴田に伝えた。

『風俗とか、行ったほうが、いいよ』

すると柴田はその単語を嫌味ととったのか、明らかに気を悪くしたように反発した。そういうところには行かないから、自分は。柴田の言葉には強い敵意と軽蔑が込められていた。

お金に限ったことじゃなく、対価も支払わず思うようにしようとしているあなたの方がずっと強欲だし傲慢だよ。でも浅いところで溺れる彼に、泳ぎを教えなかったのは私。私なんかに憐れまれるのも不愉快だろうと、その返信を最後に柴田に言葉をかけることはなかった。

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