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月に二回の劣情 #6

 結論から言うと、その場のテンションで誘われるがままに柴田の家に行ったのは、完全に蛇足だった。引っ越し後、生活も落ち着き、朝活で4時には駅前のジムに行きシャワーも済ますと聞いていたから、朝は一緒に駅まで歩くものと思っていた。

垢と埃の混じったあの匂いのする布団に一睡もできなかった私に、早朝4時、パジャマ代わりの部活ジャージ姿の柴田がかけた言葉は「気をつけてね」だった。その一言で柴田の朝が、私を帰してから始まるのだと気が付いた私は、苦笑いして殺風景な部屋を後にした。

たまに来て交わって帰るだけの女は日常生活の内側には入らない。そうか、この狭いワンルームの中にも私には見えないプライベートな空間が存在するのか。だから宅配のドライバーが部屋の四隅を見渡せるような生活でも、柴田は正気を保っていられるのだ。

私は本当の意味であの家の中になんて入っていなかった。でも安心する、粗末にされることで私という人間を適正に評価してくれているんだと安心する。大丈夫、今朝はパンくずがなくても駅まで帰れます。私には生きていく力があるのだから。

知らない街の駅のホーム。始発電車が巻き上げた風にのって私の首筋のあたりからあの垢と埃の匂いが蘇ってきて、うっとえずく。家に着いてシャワーを浴びて、出勤まで少しは眠れるだろうか。昨晩送った位置情報はふたつ、新宿の安ホテルと柴田の自宅。まだ既読になっていないところを見ると、タカハシは昨日夜勤なしでゆっくり眠れたのだろう。こんな生活、長くは続かない。

ホームに降り立ち、青いライトに照らされながらあくびを噛み殺す。ロータリー脇、いつものコンビニの自動ドアは何秒立ち尽くしてもびくともしない。無駄だとわかりつつも念を押すように三度ほど足踏みをして、仕方なく灰色いマットの上で若者のようにしゃがみ込んだ。開店までのたった5分、うつらうつらと重い頭を揺らしながら居眠りをする。空腹かどうかもわからない。なんでもいいから早く詰め込み、私自身を目いっぱい埋めてしまいたかった。



 互いの本性を告白しあってすぐに、楠本からの毎週の誘いが止まった。とはいえ日常の連絡頻度が減ったとかの温度の変化は感じず、これは楠本が遠慮なく他の猫への餌やりを優先していることを意味していた。

実際、今週の楠本は私にあてがっていた木曜日を使って、みいちゃんと泊まりでデートを楽しんでいたようだ。ご丁寧にその様子は3クリックほどで手の届くところに掲示される。大好きな彼と、お昼まで一緒に眠れる幸せ、をみいちゃんはまるで小さな女の子のようにメルヘンな文体で綴っていた。

『彼が忙しいからなかなか会えず拗ねてしまってた。でもこんな私のために昨夜は無理して時間をとってくれたの。わがまま言ってごめんなさい。立派なお仕事をしている彼が本当に大好き、どうか体だけは壊さないで』

人類何千万年の歴史の中で、擦り切れるほど繰り返されてきたであろう安いフレーズを、全世界に発信できるみいちゃんの純粋さが愚かしくて、そして愛おしかった。

『大丈夫だよ、楠本さんは一週間に何人もの女とセックスするほど心臓が強いから、すぐに死んだりしないからね』

悪趣味な告げ口のメッセージを打ち込むと、送らず棄てる。破棄したことを確認するためにページを更新すると、受信トレイに一通のメッセージが届いていた。送り主の名前を見て小さく胸が鳴る。以前コメントを寄せてきた、『あの男』だった。

『読みかけの本があったので少し遅くなりましたがあの本を読みました。一人で読んでいたらこの感想は持てなかったと思います』

わざわざ私の拙い感想文を引用までして、本の感想を送りつけてくる変わり者の男。その場ですぐ購入するほどに興味をかき立てられているのに、今読んでいる本の優先順位は変えない男。男の読みかけの本とはなんだったのだろう。私の薦めた本がちょこんと座り、行儀よく順番待ちをしていた姿を想像する。

この人は、自分の時計でちゃんと生きている人だ。メッセージは『僕もあなたと飲みに行ってみたかった』という消極的な誘いで締め括られていた。それを見て初めて、顔の見られる距離に暮らす男を意識する。

数日おき、数回のメッセージが二人の間を行き来して、食事をする約束をした。日取りは少し遠く、それが男の人となりを表しているように思えた。



<2019_05_24_18_59_****>

 男の提案で待ち合わせは新宿の紀伊国屋書店と決めた。もともとのきっかけとなったあがたの本もここで買ったもので、運命?と思いかけてまるでみいちゃんみたいな少女じみた発想だと吹き出しそうになる。

本屋にベストセラー本があるなんて当たり前すぎて、巡り合わせを夢見る余地すらないだろう。いやでも違うんだみいちゃん。私はあなたを馬鹿になんてしたくない。したくないんだよ。

待ち合わせの20分前にフロアに着いた私は平積みのその本をもう一度だけ確認すると、すぐにその場を離れた。地元新宿出身の作家ということもあり先月まで設置されていた縣の特設コーナーも、今は少し奥まったところに縮小展開されている。SNS経由で互いの身なりの特徴を伝え合うと、私は普段はあまり立ち入らない、人もまばらなフロアの端のコーナーに立つ。

私を探す男が見たかった。自己申告の通り、身長190センチ近くあるという大きな影が文芸のコーナーから近付いてきて、どのタイミングで顔を上げたかは覚えていない。ノーアイロン、長袖のストライプシャツ、頬全体に蓄えた無精ひげ。私の目線はちょうど、男の心臓に一番近いボタンのあたりに置いた。小雨の降る夜だった。

他人と食事するのが苦手な私のために、男は横並びで食事のできる店をリサーチしていた。ところが予約のできない有名店のカウンターはあいにく満席で、私たちは新宿らしいこじんまりとした座敷に向かい合わせで二人押し込まれた。男は縦に大きいだけで横に大きい私よりもすんなり席に収まるかと思いきや、伸ばした長い長い足が完全に行き場を失っている。

――あ、このひと、靴下がかわいい。

薄グレーとレモンイエローの太ストライプ。約束の日取りが少し遅くなったのは一週間ほど旅行に出ていたからだと男は詫びて、お土産をくれた。土産が入ったレジ袋の野暮ったさが、飾らぬ人柄を表していた。男は私と生年が一緒であること、高名な大学出身であること、今は家業を継いで会社経営をしていることなどを屈託なく話し始めたので、知りすぎるのが怖い私は男の口を塞ごうと、くだらない話をした。

相席屋のキャッチの男に雑居ビルに連れ込まれ、あやうく口淫させられそうになった話、バーで隣り合った客が財布を落とした晩のうちにカードの限度額いっぱいまで煙草をカートン買いされてしまった話。

話せば話すほど俗っぽく落ちぶれていく私は、真正面にある男の顔を直視できなくなった。視線を落とすとテーブルの下では、男の靴下の中の親指と人差し指がじりじりと居心地悪そうに擦り合っている。

「これ、食べたらお店変えません? 窮屈でしょう、身体」

私が囁くと男も待っていたとばかりに大きな口を三角に開けて笑った。

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