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月に二回の劣情 #3

 自殺防止の青いライトが、午前5時台のホームに立つ通勤客の横顔をより不気味に浮かび上がらせる。地元の寂れたコンビニはとっくに24時間営業をやめていて、新宿を始発後に出ても各駅停車で最寄り駅に着いた頃にはまだ閉店中だ。

お腹の空いた私が仕方なしにまだ開かない自動扉の前、幽霊のように佇むと、6時きっかりにアルバイト青年の手動によりドアが開けられる。開店したてだというのに、チルド棚には昨日のおにぎりが数十円引きで乱雑に転がっていて、それを見るたび私は今日の朝がちゃんと昨日の夜の続きなのだと痛切に感じてしまう。

期限切れ寸前のおにぎりを三個レジ袋に放り込むと、またすぐに出ていくはずの家路を辿る私の足取りは異常に重い。すれ違う早朝出勤の人々。うんざりしているのは彼らのほうなのに、私はこの世の不幸を背負い込んだような土気色の顔をしている。

坂を上りきれば、私の家の方角にドコモの電波塔が見える。薄暗い昨日と今日の間にぼうっと浮かぶ電波塔を見たかったのに、明るくくっきりとした輪郭でそびえ立つその姿は、日々少しずつ夏に近付いていることを私に知らせていた。


『平成生まれのいいところは避妊するところです』

 飲酒からの徹夜、始発帰り。全身の倦怠感から這うように日中の勤務をこなしつつ、眠気醒ましがてらタカハシにメッセージを送ると、割合とすぐに返信が来た。

『また始発? フミ姉、体大丈夫かよ。俺は面白いからいいけど、いつまで続けるの』

『誰にも誘われなくなるまで、かな?』

おどけたスタンプをひとつご機嫌伺いに押してやろうとメニューを開いて、このやりとりがLINEですらない中華製のメッセージアプリ上であることを思い出す。

邦画の原作となった小説の感想をSNSに書いたとき、自分は映画好きが高じて映画館で働いています、とメッセージを送ってきたのがタカハシだった。

一向に会う約束をとりつけて来ないその男は、あっさり既婚だから、それも25歳でまもなく二児の父になるのだと言った。タカハシがこの先も、私に直接会うつもりがないとわかると、毎夜遊びまわっている実情を赤裸々に話した。タカハシは私の、手当たり次第で相手を選ばない節操のなさをゲラゲラと笑い飛ばしてくれた。

専門学校時代、自主映画を撮ったというタカハシは、今は同じ学校の先輩との間に一児を授かり、昼間はIT事務を、深夜はレイトショーのある映画館で学生時代から継続してアルバイトをしていると言う。

「そうでもしないと一人の時間が持てないし」

来春から幼稚園に通う男児と、第二子の出産を控えた妻。父ではない自分の時間を持つためだったら肉体の疲労くらい気軽に差し出せるんだろうか。タカハシは私よりずっと若いし、それに向こう20年くらいは何よりお金が必要なんだろう。

『ねえ、どんな映画を撮ってたの?』と訊ねると、タカハシは気軽に自分のフルネームを教えてくれた。予期せず他人の個人情報を手に入れてしまった私の胸はまたチリリと痛む。

Googleにタカハシのフルネームをぶち込むと、学生時代に撮ったという一本の自主映画のダイジェストと、幻となった二本目の予告編動画が引っかかった。自主映画時代に撮った安タバコをくわえた薄い顔に無造作な髪型の近影。SNSのプロフィールにもいまだその写真を使っているあたり、タカハシの一番自己実現していた時代はここなのだと主張しているように見える。

YOUTUBEからリンクされたタカハシのブログは二本目の映画の予告編をアップした二年後、23歳の夏で終わっていた。『過去の作品で音響を担当してくれた、同じ学校の先輩でもある女性と入籍しました。秋には子供が生まれます。家庭人として責任を果たすべく、制作活動は無期限休止とします』という記事を最後に。


<2019_04_24_22_18_wadachi>

「サザン、お好きなんですか?」

 歌舞伎町の雑居ビル4階、どこも満席でやっと入れた居酒屋のシートは隣席とのピッチが異常に狭く、否が応にも小声になってしまう。メタルフレームの奥、オドオドと目線を泳がせたまま神経質そうな細身の男はおしぼりで額の汗らしきものを拭いながら「え?」と聞き返す。「ハンドルネーム! 『希望のわだち』さんだから! なんてお呼びしたらいいですか?」と口元に掌を添えて顔を覗き込むと「……轍、でお願いします」と言ったまま、幸の薄そうな唇を結んだ。

居酒屋特有の、覆いかぶさる大量の環境音。周囲のノイズに耳が慣れると歓声や嬌声に紛れていたはずのジョッキのぶつかり合う音が聞こえ出すから不思議だ。真向かいの知らない人に監視されながら仕方なくこなす食事はいつも通り、味がしない。不毛だ、早く私をあなたの目的地まで連れ出してほしい。

男は「フ、フ、フ、フミさんは!」と初めて口にする私の名前を慎重に発音しながら「よくこういうので会うんですか!」と言った。周囲の席に聞かれたくない言葉を今日一番の大声で発され、作り笑顔が一瞬萎む。

店を選ぶのに手間取ってもう時間も遅い。今日はもう『ない』なら早く帰りたい。「たまに……。私、なんでも誘われると断れないんです」とだけ言ってアルコールで赤く染まった頬に手の甲を当て曖昧な顔をした。その顔が何を意味するか、さすがに鈍感そうなこの男にも伝わった様子で「出ましょう」と席を立つと、届いてまだ箸もつけていない揚げ出し豆腐には見向きもせず、一直線に会計へ向かった。


ちょうど半分ずつ勘定を済ませると店の階段を駆け足で下り、勢いよくホテル街とは逆の左方向に歩き出す。反対ですよ、と言うのも野暮だし、結局私たちは一度右に曲がればいいところを左に三度折れて大回りののち、目的地周辺に辿り着いた。

この時代に市中引き回しがあるのならきっとこういうことなんだろう。そう思ったのは私の右手を引っ張るように歩く男の下半身がずっと勃っていたからだ。

元はビジネスだったのであろうラブホに休憩で入ると、そんな時間はないのにご丁寧にジャケットとシャツをハンガーに掛ける。手持ちぶさたな私も、ちょうどいいとばかりに位置情報をタカハシに送る。

都心から遠く離れた土地に住む彼の終電まであと20分を切ったらしい。流れ作業のような愛撫から挿入、正味5回ほどしか腰を振らなかったように思える。滞在15分、男の脳裏には今度は終電の時間しかないようだ。隆起したままの下半身をまたスラックスにしまい込むと足早にホテルを後にし、歌舞伎町を競歩じみた早歩きで抜けて行く。往路同様に私の歩くのが遅いものだから、男の横顔は更に焦れている。

「先、帰ってもいいですよ」

点滅する歩行者信号機の手前で私が言うと「じゃあお言葉に甘えて!」と右手を挙げたまま彼は赤信号を渡り、あっという間にその背中は見えなくなった。

最初から私が正しくホテル街まで導いていれば、彼も終電までにもう10ピストンくらいは出来たかもしれないな。そんなことを思いながら残された私一人、私鉄の駅まで歩く。私の街に帰る電車の最終はまだまだ1時間以上先だ。新宿始発の座席に座ってスマホを開くと、さっきまで隣にいた彼からSNS経由でメッセージが届いていた。

『今日はありがとうございました。おかげで終電に間に合いました』

このありがとうは、短い時間だけれど性交してくれて、のありがとう?これで終わりかと思われたメッセージは三行ほどの改行を空けてまだ続いていた。

『性病とか、持っていないですよね』

自分とは流派の違う非常識さに案外と傷ついたりはしなかった。性欲の谷間、正気に戻った男から心無い言葉をかけられたことは少なくない。

『じゃああなたは絶対に持ってないって言い切れるんですね』

なんて陰湿な返信を打ってはみたけれど、送信しなくも気が済んだのでそのまま棄てて地元駅までの各駅停車に揺られて居眠りをした。



 これだけ複数の男と身体を重ねても、私は決して自分から誘ったりすることはしなかった。私には便利な顔がある。曖昧な、困ったような、どうにでもとれる表情。これを私は『余白の顔』と呼んでいて、柴田や、性病の男のような誘いたくても誘えない男に向かって、余白の顔をするのだ。

そうすると大抵の男は私に自分に都合のいい台詞を吹き替えてくれる。ときに「抱いて」だったり「帰りたくない」だったりするのだろうか。余白の顔をするとき私は真っ白な吹き出しを掲げ、彼らのフリー素材になる。

 種として、雄として弱く、雌を確保できない人間にも同じように性欲があるのだ、それは気の毒なことだった。私のようにもう枯れて、手のひらの上にのせ両手で擦り合わせたならパラパラと粉となり風に舞っていくような、そんな存在でも誰かの役に立てるならそれでいいと、途中からそれっぽい動機付けをした。

理由なき奇行は他人を脅かす。こんな調子だから多くて二度、大半の男が一度きりで私の元を去っていった。高価な食事も綺麗なホテルも自分から要求などしなかったけれど、タダ同然であることを差し引いても再び会うに値しない気味の悪い女、それが私なのだ。だからこそ身体を交えたあと、それでもなお、私を繰り返し呼ぶ男の心理に興味があったのかもしれない。

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