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月に二回の劣情 #2

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 柴田の家に初めて行ったのは二週間前の週末のことだった。出会い系SNSで私の書いた本のレビューを読んで「読書の話をしませんか」とメッセージを送ってきた柴田に、やはり私は初対面で自宅まで持ち帰られる羽目になった。

大学を卒業して一年間高校で数学教師をしていたという柴田はペーパーテストでだけ点数をとれる人間の典型のような男。学生時代はずっと陸上部で今も朝活と称して早朝、まだ暗いうちから資格試験の勉強をしているという柴田を、ストイックと変態って紙一重だな、なんて意地悪な目で見てしまう。

高校の教師を一年で辞めた理由を「世界中を旅したくなったから」と語っていたが、緊張すると軽く吃音が出る柴田の背中を、後ろ指さす女子高生たちを想像すると何かが腑に落ちる。ためしに「日本はどのくらい離れていたの?」と訊ねると「半年」という。どうやらずいぶんと彼の地球は狭い。

初対面でも見知った人でも、飲食を共にすることは私にとってひどく苦痛で、箸は進まないし味もわからない。けれど食事を含めたデートの体を装わなければ集まってくる男の質は格段に落ちる。

特別身なりが良かったり優しかったりする必要はなかったけれど、粗暴な男と関わって危害を加えられるのはできれば避けたいと思っていた。だから苦痛であるはずの食事も、私にとっては安全のための耐えるべきプロセスだったのだ。

手をつけられなかった食事代を半額支払い、ホテルで事を済ませ、家に帰るとその日の埋め合わせをするようにコンビニ食を胸いっぱいまで詰め込む。相手が変わっても支払い元が違っても、食事がどんなに豪勢になっても、帰宅後の過食をやめることはできなくて、これは私そのものが抱えた問題なのだと理解するまでさほど時間はかからなかった。

「味見、してみなよ」と柴田の注文した日本酒を一口だけ舐める程度に飲み込むと私は困ったような顔をした。介抱するそぶりで柴田は私を自宅方面行きのホームに連れ込む。

「心配だから」

本当はもっと気の利いた言葉が欲しいけれど、立ち往生よりずっといいから今日のところは及第点だ。ほろ酔いながらも私は最寄り駅からマンションまでの道のりを注意深く見回しながら歩く。

「帰るときはTSUTAYAの角を、右だね」

私が言うと「そう、分かりやすいでしょ」と柴田はにっこり笑った。ああ、既に朝になったら私を送る気なんてさらさらないのだ。

だったら私は今すぐにでも駅前のあのマイナーなコンビニに駆け込んで、パンくずでも撒いて歩きたかった。これから下半身を受け入れる予定の男の口先よりも、夜通し野鳥についばまれるであろうパンくずの方がずっと信頼できる。

それでも柴田はまだ親切な方で、きっと私が甘えて不貞腐れれば仕方なしにマンション下くらいまでは見送るのだろう。ただ私もそんな処世術を授けてあげるほどお人良しではないから。いつか自分でその答えまで辿り着けばいい、私が見届けることはないけれど。

私がうっかり空想に夢中になっているうちに、柴田のマンションに着いてしまった。やはり少し酔っているのかもしれない。無骨な金属製の重い扉を開けると、この部屋のすべてが丸見えだ。宅配便なんてどう受け取ればいいのだろう。ドア一枚開けた瞬間に暮らしのすべてを見通されることを恐れる様子のない柴田が、なんだか私は怖かった。

私はよく知らない男が怖い。殺されたくない、知られすぎたくないと思う。部屋とは、暮らしだ。生活だ。ワンルームならワンルームに、1DKなら1DKに、それぞれ家主の生活のすべてが詰まっている。どうしてそこに女といえども名も知らぬ人間を上がり込ませることができるんだろう。

引っ越したばかりだという部屋の壁に立てかけられた寄せ書きの中央、太マジックで刻まれた『柴田幸太郎』というフルネームを見つけて身震いする。サイズを間違えて買ってしまったという寸足らずのカーテン。きっと昼間、この部屋にはほとんど陽が当たらないのだろう。4月だというのに柴田の部屋はうっすらと寒い。

「あ、あがたりょう 」

枕元に積まれたビジネス書に紛れて、二冊、見覚えのある背表紙を見つける。

「読んだことある? 売れてるって聞いて買ってみた」

「うん、私の行くバーにたまに来るんだよ、直接話したりはないんだけど」

私の返答にはさほど興味を持たなかったのか、もしくは既に次の興味で頭がいっぱいだったのか。地方生まれの柴田は、へえ都会ってすごいねとだけ言うと部屋の電気を消した。

話題が尽きたのを言い訳に、どちらともなく布団に入る。まだ新しいはずの布団は既に一人暮らしの若い男特有の垢と埃の混じった、私のもっとも苦手な匂いがした。充電器を繋ぐ素振りで手早くタカハシにGPSで位置情報を送る。これもまた私の日課のようなものだった。

ぎこちない手つきで一度だけ交わると、柴田は満足したようですぐに寝息を立てた。予想通り女慣れしていない柴田は行為のきっかけを掴むまでに疲弊したのだろう。それは私も同じで最初に肌と肌が触れ合うまでが気が遠くなるくらいに長く、無駄に体力だけ消耗していた。

いつの間にか終電もこの街を過ぎていったらしい。駅近の弊害でひどい騒音と振動のする柴田の部屋にも静寂が訪れていた。床から数センチ浮遊したカーテンの隙間に漂う空気は、明らかに外気の匂いを纏っている。

あとまだ2時間以上先の始発の時間まで、ただひたすらにカーテンのひだの数を数えて過ごすしかない。液晶の明るさを最小にしてそっとスマホを確認すると、タカハシに送った位置情報に『既読』がついていた。

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