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「人新世の『資本論』」を地域のものづくりで読み解く

私たちは、今、どんな時代を生きているのだろう?
私の求める豊かさってなに?

これまで生きてきて、「豊かさ」ということをこんなに考えたことはなかった。もう、豊かなものに生活は溢れているし、それが当たり前の中で生きてきた。でも、コロナ禍で少し自分が変わった。

今ある豊かさを享受できない、制限を受ける生活を強いられるようになると、これまで「豊かだ」と思っていたものが、実は便利なものに取り違えていたような気がして、本当の豊かさはもっと今、実は手に届かない所にあるような気がして、追い求めるようになった。物質的な物のある状態は、決して=「豊かさ」ということにはならない。

それは、人それぞれだと思うけれど、私にとっては、風土の豊かさを感じられるもので、この都会の普段の生活の中では自然とのつながりは薄れ、感じにくいものとなってしまったものだと気がついた。

自然環境は変わった。

そうして、今いる社会がこのままで良いのかと立ち止まるようになり、この本を手に取った。

第一章 「人新世の『資本論』」を読む。

豊かさをもたらすのは、資本主義なのか。コミュニズムなのか。

この本については、もう様々な人が手に取り、その過激かつ核心に迫る内容に、多くの人が共感し、納得する反面、かといって、「資本主義を止めることはできない」「言ってることは分かるけど、本当に社会は変えられるのか」と胸の奥で感じた人は多いと思う。
今ここで突然、資本主義をやめることはできないけれど、変えられるところから変えていく、その意識と一歩を踏み出すどうかで、世の中の仕組みは少しずつ変わる。

今まで気候変動も、他人事のように感じていた私も、この本に出会ったことで、現代の社会がSDGsの矛盾、「可視化されていないもの」への無知によって増長されていることを実感した。

暴力性は遠くの地域で発揮されているため、不可視化され続けてきた。
人間は自然に働きかけ、様々なものを摂取し、排出するという絶えざる循環の過程の中でしか、この地球上で生きていくことはできない。
しかし、人間は他の動物と異なる特殊な形で自然との環境を取り結ぶ。
それが「労働」である。労働は、労働は、「人間と自然の物質代謝」を制御・媒介する、人間に特徴的な活動なのである。

この、「働く」ことが、実際は人間と自然を結ぶ関係性「媒介活動」なのだということに、私は新たな発見を得た。

資本主義から脱成長コミュニズムへ

マルクスの資本論は、その言葉だけは高校時代の授業で聞いたような気がする。その程度の認識だった。

マルクスは晩年、自信が唱えた「資本論」を結果的に否定するような研究へ向かう。

近年、マルクスの解釈が再び見直されるようになり、その概念の一つが、「コモン」(あるいは<共>)と呼ばれる考えだ。

<コモン>とは、社会的に人々に共有され、管理されるべき富のこと。

人々が「豊かな社会」で暮らし、繁栄するためには一定の条件が満たされなくてはならない。
・水谷土壌のような自然環境
・電力・交通といった社会的インフラ
・教育や医療といった社会制度

彼にとっての「コミュニズム」とは生産者たちが生産手段を<コモン>として共同で管理・運営する社会のことだったのだ。
さらに、マルクスは人々が生産手段だけでなく、地球をも<コモン>として管理する社会を、コミュニズムとして構想していたのである。

「人新世」ー人間の経済活動が地球の表面を変え果てた時代ーの気候変動・自然環境をを取り戻すには、資本主義経済から離れ、脱成長コミュニズムに進まなければいけない。

私たちは、この地球の自然環境を共有の財産として、新たな方向へ導かなければいけない。
それには、自然と人間を結びつかせる、その媒介活動となる「労働」「生産活動」、自分たちが働くことを見直していくことに、社会の仕組みを変えられるヒントがあるのではないか。

ものづくりと、共有される<コモン>の未来

資本主義以前の時代には、ものづくりは職人の手に委ねられていた。<構想>と<実行>を伴う作業は、職人の腕がなければ生産することができず、そこには労力と時間がかかることで、生産力を画期的に上げることは難しい。

そこで、資本は作業を細分化して、分業を構築させた。

機械化され、生産力が上がると、職人はその領域が次第に狭まる結果となった。

作業の効率化によって、社会としての生産力は著しく上昇する。だが、個人の生産能力は低下していく。

筆者が唱える、脱成長コミュニズムの柱は、画一的な分業の廃止。
つまり、それは労働の創造性を回復させることであり、労働を「魅力的」にさせることをマルクス自身も求めたいたという。

創造性・クリエーションを上げることによって、質が向上し、単一的・均一的なものから脱却することができる。

私は、ここに豊かさを求める生活のヒントとなるものが、日本の「ものづくり」産業を復興させることなのではないかと考えた。

ものづくりの時代を取り戻す。風土と結びついて生まれた技こそ、自然と人間を繋ぐ物なのではないか。

次の章では、社会の「豊かさ」に結びつく労働「ものづくり」を発展させようと地域で活躍するプレーヤーをご紹介したいと思います。

資本主義の枠組みから外れた「ものづくり」を発展させること、その価値を見直すことも一つの豊かさへの第一歩になるのではないかと考えました。

第二章 ものづくりの時代へ①分業から脱却した高岡銅器・伝統工芸の技

ここで、私が紹介したいのは、高岡で伝統工芸を営むモメンタムファクトリーoriiの革新的ものづくりのストーリー。

モメンタムファクトリーoriiの代表、折井宏司さんは、高岡銅器の「着色」を行う「折井着色所」の3代目、伝統工芸士。折井さんは一旦は東京で就職したが、その数年後、家業を継ぐために高岡に戻り、平成20年に「モメンタムファクトリーOrii」をスタート。伝統工芸の技を用いながら現在に通用するものづくりに革新させ、折井さんによって着色された銅板は、多くの建築家・インテリアデザイナーにその技術が買われ、5つ星ホテルや商業施設、住宅などで採用されている。

現在、折井さんのところには建築資材・看板の注文が売り上げの60%を占める。その他は、時計や照明などのプロダクトで30%、そして、創業当時から続ける伝統工芸については10%となっているということ。生活様式が変化してしまったため、仏具や美術品にお金をかける文化が失われつつある今、25年前と比べると業界全体の需要が4分の1にまで落ち込んでしまったという背景があると言います。

伝統工芸の町、高岡
高岡のものづくりは約400年前に始まります。加賀百万石を築き、繁栄とものづくりをもたらした前田利長がこの地に高岡城を築き、開町しました。
父は、秀吉とも親交が深かった織田信長の家臣、前田利家。その後、利長の代においては、豊臣秀吉から徳川家康に天下の覇者が変わる頃、激変する時代において加賀・越中・能登の3カ国合わせて122万5千石となり、外様最大の藩「加賀百万石」をつくりあげました。
利長は、江戸幕府が開かれ、戦乱の世に落ち着きが見えた頃、家督を前田利常に譲ると富山城に隠居し、息子を見守っていました。しかし、富山城が火事により焼失したため、高岡に城を築いたのがこの街の始まりです。
利長はこの街の産業政策の一環として、7人の鋳物師を招き、5軒の工場をつくったと言います。これが今にその技術を綿々と受け継ぐ、高岡銅器の始まりとなりました。

折井さんの実家である「折井着色所」は、祖父の代から、神社仏閣に納める銅像や、また高岡銅器の美術品に着色することを生業としていました。
高岡は分業が進んでいる場所。一つの工場で、鋳物の工程を全て行い完成させる自社完結とは違い、それぞれの行程だけを行うというのが高岡のスタイル。その徹底した分業化により大量生産を可能にし、高岡は銅器の生産が国内の90%をシェアしてきたのです。
折井さんが高岡に戻った頃は、丁度バブルが弾けて数年経った頃。東京から離れた高岡は、バブルの弾けたその2−3年後に非常な打撃を受けることになりました。

新しい発色技法の挑戦

折井さんは高岡に戻ると、実家で着色の修行を始めますが、仕事がないと腕をあげていくことができない。分業されているが故に、来た仕事を行っていくことで手を動かしていくことになる。仕事がなければ手も動かせられない状態だったと言います。
そこで、時間ができた折井さんは、鋳物の全行程を学ぶために勉強会に参加するようになりました。そこで学んだのは商品を作り出すことの大変さ。
折井さんはそこで原点に戻り、「色屋さんだから色を出す板でやろう」ということに行き着きます。そこで目をつけたのは、鋳物ではなく、より安価な銅板でした。通常のやり方だと、薄い銅板では鋳物と同じように発色させていくことが難しい作業を、なんとか成功させることができないかと研究を始めるようになりました。
「鋳物の伝統を守る高岡で、銅板に目をつけるなんて、誰もしていないことをやってみようと思えたのは、自分が家業を継がず、一旦は東京に出て、伝統工芸にかぶれなかったからこそ出来たものだと思います。そのまま家業を継いでいたら、邪道なことはできなかった。」
まさに伝統から生まれた、革新がここに始まりました。
「ただ、良い色を出せても、知識がないから偶然だせた色を再び出すこともできないんです。」折井さんはそこから重ねて実験を行い、ようやく自身の色を表現する力を手に入れました。

まさに折井さんが成し遂げたのは、分業によって仕事が画一化されてしまった伝統工芸に、「創造性」自己の表現・クリエーションを実現したこと。
折井さんは、「分業による下請けから脱却したい」という思いを叶え、ここでしかない技を創造し、今、折井さんのところには弟子入りしたいという美大卒の若手が多く門戸を叩きます。

「僕が始めたことはまだ始めて10年くらいのものですが、自分が死んだ後、30年40年して高岡に来た人がこの壁面を見て、これが高岡なんだと思ってもらえるようになっていたら嬉しいです。」

豊かな風土の残る地域が発展すること、そしてその土地で生まれたものづくりが振興することは、社会の豊かさにつながる。豊かさとはそこに日々の生活を「面白く魅力的に」働く人たちがいることなのではないか。

生産過程の民主化「開放的技術」の共有について

ここで一旦、「人新世の『資本論』」に戻りたい。

マルクス主義者、アンドレ・ゴルツは、資本主義の技術発展の危険性を提示し、その上で重要なのは「開放的技術」と「閉鎖的技術」の差別化だと解いた。

「開放的技術」とは、「コミュニケーション、協業、他者との交流を促進する」技術である。
そして、「閉鎖的技術」の代表格は原発で、セキュリティー上の問題から、一般の人々から隔離され、その情報も秘密裏に管理されなくてはならない。

そして、グローバル危機にはまさに「開放的技術」を共有していくことが、生産力向上のために必要なこととなるという。

「希少性の価値」を生むことは、そこに格差を生じさせる。一方で、「開放的技術」を分け合うことで、潤沢さが<コモン>として管理される。

ここで、私の知る「開放的技術」とは何か考えてみた。ここで注目したのは、現在、地方創生の意味合いからも、またコミュニティづくりで街に寄与する点からも人気を集める「クラフトビール」の技術だ。既に一種の「開放的技術」としてシェアされ、地域で広がりを見せクラフトビールの人気は高まりを見せている。

ものづくりの時代へ②クラフトビールの作る地域の未来

クラフトビールは、その気候風土や醸造所や使用する特産物によって、個性が様々である。そして、クラフトビール業界自体、技術を秘密にするという閉鎖性から遠く、それぞれの醸造所に見学や研修に訪れて、その技術を新たにクラフトビールづくりに挑戦する人に伝えていくという特色を持つ。

私が以前インタビューをさせていただいた、岩手県遠野醸造の代表袴田大輔さんからは「クラフトビール業界の特徴として、技術を独占するのではなく、シェアして業界全体の技術力を高めていこうというマインドがある。」と教えていただいた。

大量生産ではできない、クラフトビールの魅力は、そういった業界全体で発展しようという横のつながりが全国にある所で、地域独自のビールが生まれ、そこに人々が集まり、「コミュニティ」を生み出す仕組みとなっている。

まさに、クラフトビールは自然からの産物を人の「労働」によって新たな形にしていくこと。そこには農業の発展も大きく関わり、地域コミュニティの促進、そして、街の経済発展にも効果を上げる。

また、島根県でクラフトビールを醸造する石見醸造では、「石見式」という
醸造方法が開発され、通常の醸造設備を揃えるより簡単に、木箱とポリ袋でビールを発酵させることを可能にした。「石見式」の醸造技術は全国に広がりを見せ、この方法で新しくブルワリーを始める人が増えた。

技術はみんなでシェアをする。このマインドが産業を発展させ、人と人との結びつきを広げていく。

「人新世の『資本論』」を自分の知っている身近な所で読み解くと、ものづくり・地域産業はこれからの脱資本主義的未来を作る上で、大きな可能性となるような気がする。

終わりに

「豊かさ」とは何かと問うようになって、私には少しずつ、自分の感じる豊かさが、この日本の風土の中にあって自然を感じられるもの。という答えを見つけられるようになった。

そして、その自然と人間を媒介する概念としての「労働」。

今、多くの企業が「サステナブル」なものを生産しようと意識を変えようとしている。
それは科学の力を否定するわけでは全くなく、意識を変えて行けるところ、そして、今可視できるものに取り組むだけでなく、不可視である地球への影響や未来を作る仕組みを変えることはきっと大きな一歩となるような気がする。

人間の命が自然循環の中にあること。自然界・生命体は全て循環している中に、私の「労働」がどう自然と結びついて社会の良い循環の一つになっていけるか。

あなたの豊かさとはなんですか?

そして、残していきたいものはなんですか?



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