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勝利か結果か実力が全てという議論に否定も肯定も難しいのは、これらの定義が同語反復のようであるためではないか

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注意

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漫画

『「もう....働きたくないんです」冒険者なんか辞めてやる。今更、待遇を変えてやるからとお願いされてもお断りです。僕はぜーったい働きません。』
『ニラメッコ』
『賭博黙示録カイジ』
『銀魂』
『NARUTO』
『ドラゴンボール』
『ドラゴンボール超』
『キミのお金はどこに消えるのか 令和サバイバル編』
『ラーメン発見伝』
『らーめん才遊記』
『らーめん再遊記』
『マンガで分かる心療内科 アドラー心理学編』

テレビアニメ
『NARUTO』
『NARUTO 疾風伝』
『ドラゴンボール』
『ドラゴンボールZ』
『ドラゴンボール超』

テレビドラマ

『下町ロケット』(TBS系列,1,2,ヤタガラス)
『半沢直樹』(1,2)

はじめに

 『ゼロ年代の想像力』で、「1990年代は価値観が多様化して、ゼロ年代は何が正しいか分からなくなったために、何が正しいかは勝ったものが(暫定的に)、無根拠であることを織り込み済みで決める決断主義の世界となった」という趣旨の説明があります。
 これに、経済の新自由主義=ネオリベラリズムが後押ししたともあります。
 池上彰さんの書籍には、新自由主義は「勝ち組の論理」だとあります。
 これらの論理は、なかなか反論が難しく、非情だと言いたくなっても、「不満があるなら勝てば良いだろう」という論理になりやすいとみられます。
 私はこれらの類として、「実力主義」、「結果が全て」、「勝つことが全て」といった論理の3つをここで挙げて、それらの論理が強固に見えるのは、反証不能な、そもそも「実力を判定するのに実力が要る」、「結果が出たと思っても新しい結果が出る」、「勝利しても何らかの敗北感から逃れられない」という、単語の定義に同語反復の要素があり議論を曖昧にしているためだと考えました。

『カイジ』の利根川の論理に乗せられる

 まず、「勝利が全て」という論理を用いた物語として、漫画『カイジ』を挙げます。
 『ゼロ年代の想像力』で、「時代の先駆けだが、ギャンブルの金銭による成果だけで幸せになれるという構図は古い」という評価があります。
 ここでは、莫大な借金をした若者達に、ギャンブルの指示をする利根川が、途中まで丁寧だったのが、質問に答えられないと注意して不満を言われると、「豹変」し、「大人が質問に答えてくれると思ったら大間違いだ。大人は都合の良いことしか言わない。20歳を過ぎて何年も経ったお前達は心に刻まなければならない。勝つことが全てだと。有名なスポーツ選手や棋士も、勝てなければ人格も評価されない」と、教え説くように話しました。
 それに多くの若者は涙して、ギャンブルに勝つことを決意しましたが、主人公のカイジは、「確かにぐっと来たところはあったが、そんな理屈に乗せられている時点で、こいつらは馬鹿じゃないのか」と戸惑っていました。
 まず、大人になれば、何らかの結果を出さなければならない、消費するだけでなく生産する側にならなければならないという、権利だけでなく義務があるという論理は認めます。

「勝者が全て」という論理で生まれる勝者と敗者

 しかし、「勝利が全て」という言葉自体が、発しただけで、既に勝者と敗者をここで生み出していることで、「勝利」の定義がトートロジー、同語反復になっています。
 利根川は若者に「お前達は負けて負け続けてこんなところにいる」とも話し、「これからどんな地獄になっても文句を言えないのか」という反論に「既にここが地獄の底なのだとも考えられる」と返しています。
 つまり、「お前達は既に負けている」という反論しにくい言葉に、「勝つことが全て」という言葉を加え、2つ目を認めた時点で「お前達は俺に負けたから全てを失っても文句を言えない」、「俺は勝ったから何をしても良い」という論理の正当化になっているのです。

「勝利が全て」というパターナリズムと「自己責任」

 利根川の発言が「金言」のように取れるのは、現代日本の、本来は「相手のためを思う善意の強制」であるパターナリズムが、「一方的に損害を与えて、それに利益が混ざっているのだから活かせ、あるいは損害を利益に変えろと主張する」論理が、相手の自由や利益を奪うことの正当化、美化に繋げて、いつの間にか善意すらあるか曖昧にしていると言えます。

2022年11月9日閲覧

 『半沢直樹』で、主人公の半沢は第2期の生意気な部下に「愛の鞭」かのように、負傷しても「不注意」だと責めて向上を促しているような扱いになっています。『下町ロケット』TBSドラマ版でも、上司が部下に「制約に不満を言う前に努力しろ」と突き放し、「これであいつも成長してくれれば」と陰で話しています。
 それが「この損害を利益に変えろ。助けないのがお前のためだ」というパターナリズムと「自己責任」の両立に繋がるところがあります。
 つまり、「勝利が全てだ」という論理は、「それによる損害を、勝てばお前の利益を認めてやるという利益にも繋げられるのだから、こちらのルールに従え。それがお前のためにもなる美しいルールだ。我々はお前を助けないが、お前は勝ちさえすれば我々に何をしても良い」というパターナリズムと「自己責任」を結合させて「金言」のように美化する論理であり、相手が認めた時点で、言い出した人間を勝者にしてしまう、同語反復の要素があります。


原因論と目的論にも反論しにくい

2022年11月9日閲覧

 アドラー心理学は、「原因より目的が大事であり、人が怒るのは原因ではなく人を支配したいからであり、無意識や感情のせいにしたいだけだ」という論理があるようですが、それは「反論すること自体に目的があるではないか」という、反論を利用してしまう正のフィードバックがあります。カール・ポパーがアドラー心理学を「反証不能で科学にならない」と表現したのも、それに関わるのでしょう。
 逆に、カントの哲学を扱う漫画で、「全てに原因はあるか」という議論をロボットとする人間が、「全てに原因はある」というロボットに、「今僕は原因なく立った」と反論すると、「私の言葉を原因として立ったのではないか」と返されて恐怖しています。
 つまり、全てに原因か目的を見出す論理は、人間しかそれに反論出来ない以上は、反論に「原因」と「目的」があるため、そもそも反論に肯定の要素が混ざってしまうのでしょう。
 「勝利こそ全て」という論理も、反論を吸収してしまうところがあります。
 しかし、私がここで書くように比較的冷静に余裕のある場だからこそ、原因論や目的論や「勝利」の定義を議論出来るのであり、その余裕を奪うことで、利根川は勝利していたとみられます。

地位財と集諦

 また、人間が合理的に行動するとは限らない心理を扱う行動経済学では、(それ以前からありましたが)地位財という概念があります。
 『キミのお金はどこに消えるのか 令和サバイバル編』では、アメリカで格差を縮めるために、企業の経営者、資産家の財産を公表したところ、かえって格差が広がったとあります。これは、「人間は自分より下だと思っている人間が幸せになるのが許せない」という地位財の概念から、「誰に負けても良いがあいつにだけは負けたくない」と多くの経営者が考えたことで、かえって自分の給料を上げる競争ばかりするようになったと推測されています。
 「人のすごく悪いところではないか」という評価も漫画の中にありますが、この地位財という概念も、ある意味で、「勝利」の定義の曖昧さがあります。つまり、企業経営者は多くの人間より桁違いに高収入でも、僅かに自分より勝る給与の相手に「敗北している」という感覚ばかり優先して、それで「自分は苦しんでいる側だ」と主観的にみなして競争し続けるのでしょう。
 『銀魂』の人気投票でも、周りがうらやむ高い順位の土方や沖田や神楽でさえ、さらに高い順位を求め、1位の銀時でさえ自分の派閥の順位を上げることばかり考えて、8位で満足していた新八に「どこまで人間は欲深いんだ」と呆れられました。それは、仏教で「ある苦しみを取り去っても、別の苦しみが集まってくる」、「集諦(じったい)」とも言えます。
 アメリカで近年仏教が注目されるらしいですが、その鍵はこの「苦しみ」の定義にあるのかもしれません。
 地位財も、それに近い「集諦」が、「いくら周りに勝者だとみなされても敗北感を取り払えない苦しみがある」という意味で、むしろ「勝利」の曖昧さを示しています。


2022年11月9日閲覧

「結果が全て」と言うだけで変わる結果

 次に、「結果が全て」という論理も挙げられます。
 『ラーメン発見伝』で、ラーメンを扱う商社の課長の四谷は、味へのこだわりはあるものの、自分の認める味のラーメン店を取引相手が酷評してトラブルになったときに、「ビジネスで大事なのは是非ではなく結果です」と、店を紹介した部下のラーメンマニアの藤本に責任を求めました。
 まず、「是非より結果」というのは、「意見より事実を重視すべきときがある」という意味では納得します。
 しかし、結果というのは時間が絡むため、アキレスと亀のようにどこまで区切ってもきりのないところがあります。
 「結果が全て」の類の台詞が、結果そのものに影響を及ぼしてしまう可能性があります。
 『ラーメン発見伝』で、成功しているラーメン店主で、「シニカル」な発言の多いとされる芹沢は、序盤で藤本に「結果が全て」に似た台詞を話しています。
 芹沢は高級食材を使うことを宣伝しつつ、その味を活かした理想の「淡口らあめん」が分かりにくく、1割程度の客にしか受け入れてもらえず、高級食材を使っているが、ほとんど意味のないものの分かりやすい魅力を持つ「濃口らあめん」で儲けていました。
 それに「濃口は食材の味が活きている」と知ったかぶりをする人間に、1割のうちである藤本が見くびられたため、「何も分かっていない」と喧嘩を仕掛けていましたが、芹沢は独特の姿勢でした。
 事務所で店の人間しかいない中で、藤本を「味の分かる客」としては優しく接していましたが、彼がラーメン店主を目指していることを知ると、「お前、同業かよ。同業のくせに、よく人の店をとやかく言えるな。教えてやるが、お前はただのラーメン好きとしては味を分かっている方だが、プロを目指す身としては何も分かっていない」と発言しました。
 芹沢は自分の味を理解してくれる1割のために店を行う誠意があり、消費者として、味を分かっていなくても商品を買ってくれれば、芹沢は「あれは製造経費を運んで来る働きバチみたいなもの」と陰で言いつつも相手をして、分かってくれる客は「理解者」として本心から大事にしていたのです。
 しかし、それは消費者としてであり、「生産者」を目指す藤本は、味を理解しない消費者も相手にする苦しみを理解しないのが、芹沢には許せなかったのだとみられます。
 消費者と生産者に線を引くべきであり、消費者としての「分かるべき」要求水準と生産者としての「分かるべき」要求水準は異なるのだという論理には、私も深く同意します。
 しかし、芹沢の巧みなところも、見落としてはならないと考えます。
 「味の分からない客を陰で小馬鹿にしつつも、分かりやすい宣伝で引きつければ、結果を出せば良い」という論理は、その本音を口にした時点で結果が台無しになる危険性があります。
 芹沢に「やり込められた」と認めた藤本が、仮にそれを、この『ラーメン発見伝』序盤の時点で広まっていたネットで公表すれば、芹沢の損害になる可能性もありました。しかし、藤本にとっても、「消費者として味を分かってはいるが、分からない消費者に喧嘩を仕掛け、生産者としては消費者に合わせる苦労を分かっていない」という自分の言われた情報は不利であり、ネットにそのまま伝えるのははばかられるでしょう。
 つまり、芹沢の「結果が全てだ」という表現は、その発言がネットへの公表などで結果を崩すのを避けた、相手や場を選んだ発言なのです。

SNSの時代での「結果の優先」がもたらす結果

 次々作『らーめん再遊記』で芹沢は、多少「丸くなった」という自覚はあるものの、「このSNS時代はエシカル(道徳的)に振る舞わなければならない」と内心で呟くことがあり、『発見伝』のような高圧的な発言は、少なくとも外面的には減っています。
 また、「ラーメンマニア」とトラブルを起こした経験のある店主の千葉が、かつて『発見伝』で「俺は元ラーメン好きだが元ラーメンマニアじゃない」と話したのが、『再遊記』では、「マニアだった頃」と振り返り、「ラーメン好きとラーメンマニアを区別したあの頃の論理に限界はあった」と自省したとも考えられます。
 また、芹沢は『発見伝』の序盤に比べれば、味を理解する人間が増えたという発言もあります。
 そのため、芹沢も「結果が全てだ。馬鹿な客からも商品を買わせれば勝ちだ」という論理からある程度醒めた感覚はあるかもしれません。

『ニラメッコ』と『ラーメン発見伝』

 お笑いを描く漫画『ニラメッコ』では、芹沢に似た論理を使いつつ、失敗しそうになっている芸人がいます。
 あまり売れない中で、芸だけでなく顔の良さで女性などの人気を得ているらしい芸人が、そうではないらしい先輩の芸人に「お前達は笑われているだけだ。あの客は笑いの沸点が低くて、芸を分かっていない」という趣旨の発言をされて、「見下している女子供も笑わせられない三流芸人が、一丁前に客を選ぶな。分かってくれる客だけ相手にすれば良いなんて綺麗事を言って、本当はエゴサーチしているのではないのか」と返しました。
 「分かってくれる客だけ相手にすれば良いなどときれいごとを言うな」というのは、芹沢が藤本に話したのに似ています。
 芹沢がはっきり発言していたわけではありませんが、経済学には使用価値、料理や食材の味などに対して、周りが受け取ってくれるかなどの交換価値があり、使用価値をいくら上げても交換価値には比例しないというのが、おそらく芹沢が表現したいことなのでしょう。
 しかし、この芸人は直ぐに相方にむしろ注意されて、相方の方が先輩に頭を下げて、引き下がらせています。何故なら、「それが喧嘩になったり公表されたりすれば、不祥事になるから。ネットの炎上が怖いから」でした。
 つまり、「結果が全て」という発言が、この場合は「先輩を怒らせて喧嘩になった」という次の結果を生み出してしまうのです。この場合は、先輩が、芹沢に対する藤本ほど不利な立場ではないために、「結果が全てなどと失礼なことを言った」と公表して、逆に結果を覆せる可能性がありました。
 芹沢の『発見伝』の序盤と比べてネットの炎上などの危険性が高い状況では、芹沢のような「結果が全て」という論理も、場によっては危険なのです。

『NARUTO』での「結果の奪い合い」がもたらす結果

 『NARUTO』では、忍者がチャクラというエネルギーや五行の要素を持つ忍術で争いますが、徐々に戦いの技術がインフレーションを起こします。
 その極致とも言えるのが、うちは一族の眼力と、そのライバルの千手一族の生命力を合わせたことによる幻術「イザナギ」でした。
 これは、世界の創造に関わるという神秘的なもので、眼を1つ失明する代わりに、自分と世界の全てに幻術をかけて、現実と幻をある程度入れ替えるものでした。あまりに強力だと言えます。
 しかし、かつてイザナギを使ったうちは一族は、眼を犠牲にしつつその現実、自分に都合の良い結果を奪い合うようになりました。
 「手柄を挙げたのは事実、忍の世界は結果が全てだ」と自分の覇権を正当化するうちはの忍に、「ならば俺のイザナギで結果を書き換えてやる」と戦いを挑んでいます。
 その果てにあったのは、争った人間は死ぬのを続け、最後に生き残った人間に都合の良い結果と、イザナギの繰り返しで幾つもの貴重な眼力が失われる「結果」でした。
 そこで、イザナギを使っても「自分は負けていない」という幻にとらわれるのを繰り返す幻術「イザナミ」が登場しました。
 いずれにせよ、「結果が全て」という態度が新しい悲惨な結果を招くことにもなります。
 ここでは、イザナギさえ使えれば他の実力が劣っていても、使い手同士の争いに乗じて漁夫の利を得る「最後の勝者」だけが結果を都合良く書き換えた要素もあるかもしれません。
 現実という結果を書き換えることが「出来る」からこそ、「今こうしてこのイザナギの使い手が失明しているということは、この使い手が現実を書き換えたのではないか?その証明が出来ない」という不可知論として、信頼を得ることが「出来ない」という未知数の結果も生みます。出来るからこそ出来ないことがあるのです。

2022年11月9日閲覧

『ドラゴンボール超』におけるレベル


2022年11月9日閲覧
 『ドラゴンボール超』では、「人間のレベルを測る方のレベルはどうなのか」という入れ子のような構造があります。
 元々『ドラゴンボール』では、人間を守ろうとする好意的な宇宙の神々が多かったのですが、時折「人間同士の争いでひいきはしない」というような発言もありました。
 それらが強調された『ドラゴンボール超』では、人命や惑星の安全を軽んじる、むしろ一部を「破壊」することで全体の「バランス」を保つらしい破壊神や、それを指導する「中立」の天使が、人間に冷たいところがあります。破壊神すら超える全王は、自分のいる宇宙を消し去ることもあります。
 しかし、人間を威圧したり、人間同士を争わせて悪人を減らしたりする破壊神ビルスの怠惰な姿勢などが原因なのか、主人公の孫悟空やビルスの属する第7宇宙は、「12の宇宙で人間のレベルが2番目に低い」と評価され、全王に消されかけました。
 レベルの定義は分かりにくく、『ゼロ年代の想像力』で「ゼロ年代の物語での戦いのきっかけは、登場人物の退屈しのぎなどであっても避けられない」とあります。そのような理不尽を、全王が破壊神や人間に行っているとも言えます。
 私はレベルの低い原因として、「第7宇宙は強過ぎて、それに見合った特殊能力がないためにかえって目的を達成しにくくなっていないか」と推測しています。

強過ぎて下がるかもしれないレベル

 
 たとえば、『ドラゴンボール』では、途中から武闘家がエネルギー波で惑星を破壊出来るほどになり、戦いは大規模ですが、多くの登場人物は宇宙空間に耐えられないか惑星を守りたいかの事情があるため、相手が耐えられるか、周りを巻き込むかが、惑星を破壊する以上の実力に関係なく重視されているところもあります。
 そのため、彼らが平和的に競争するときも、惑星以上に破壊出来るものが少なく、「星は壊せても、たった1人の人間は壊せない」という武闘家の並外れた強さから、相手の体を痛めつけるしか、強さを分かりやすく示せなくなっている可能性があります。
 だからこそ、破壊神ビルスは惑星を簡単に破壊出来るが、そのエネルギーである「神の気」が周りの武闘家に探知出来ないため、強さを示すときに魔人ブウの体を攻撃するしかなくなったとも考えられます。
 つまり、「強さ」という「実力」が高過ぎるために、「分かりやすい比較をする」という目的を果たしにくくなる、「強さ故のレベルの低さ」を招く可能性があります。
 実際に、アニメ版で人間のレベルの高い宇宙の破壊神は、「破壊神はものなど作らない」と断言したビルスと異なり、その時点の悟空達でも破壊の難しい「カチカッチン鋼」の修復を行えるようです。
 カチカッチン鋼には劣るものの、漫画版で悟空を苦戦させた、「カッチン鋼」を界王神は作れます。また、界王神と共に、あまり頼れる存在にみなされていないミスター・サタンは、悟空達より圧倒的に弱い自分の実力を示すためにパンチマシンや瓦を使います。
 悟空やビルスが力比べをしたければ、パンチマシンのようにカッチン鋼を使うことで、「暴力」より「破壊」で穏やかに行えた可能性があります。サタンや界王神についてそれらを思い付かない悟空やビルスは、「強さに見合った発想や記憶や知識が足りない」ためにかえって「レベルが低い」のかもしれません。
 つまり、「強さ」という幾らか客観的な「実力」や「レベル」が、偏った分野においてはかえって目的を果たしにくくする危険があり、それを天使や全王は主観的に「レベルが低い」と言いたいのかもしれません。

レベルの入れ子

 しかし、「レベルを測る側のレベルはどうなのか」とも言えます。
 ビルスも、アニメ版ではもっともレベルの低い第9宇宙の界王神の粗野な言動には、天使のウイス共々呆れています。
 第9宇宙の破壊神は、アニメ版で、宇宙消滅の危機で、ある惑星の人間が暴動を起こしたときに、惑星から逃げられない被害者もろとも破壊したようです。これが、「レベルの低い人間を減らして全体のレベルを上げる」ためだとすれば、「レベルの低い者に安易な罰や対処をする側もレベルが低い」可能性があります。
 ビルスは漫画版で、自分に追いつこうとするベジータの修行を「レベルが低くて見ていられない」と呆れるように話していますが、その放任こそ、天使から見れば「破壊神として人間の管理がだらしない」のかもしれません。実際に、ベジータがその過程で身につけた強さが、「悪人」のモロに複製されたこともあります。
 そして、天使のウイスはビルスだけでなく悟空達も鍛えていますが、その修行でビルスを起こすときの爆弾を、悟空がウイスに突然押し付けたときは、それを禁じていなかったので、「なかなかやるじゃないですか」と笑っています。これはウイスに悟空が珍しくダメージを与えたときですが、約束事を重視する天使が、その約束の穴を突いて悟空が自分を出し抜いたのを、むしろウイスは喜んでいるのかもしれません。
 天使の父親である大神官も、宇宙の頂点である全王に「約束事は守らなければなりません」と注意しています。
 天使も自分や全王の義務や間違いを認めないわけではなく、そこには、「天使や全王のレベルも低い可能性」を見出しているかもしれません。
 たとえば、全王は、タイムトラベルで生じた並行世界ごとに存在し、「未来トランクス」の世界で界王のザマスが宇宙を荒らしたために消し去りましたが、それは「ザマスのレベルが低い」とも考えられますし、あるいは並行世界全体で言えば、「その世界の界王神や界王を放置していた、そもそも全王自身のレベルはどうなのか」とも言えます。
 たとえば、宇宙を消し去ったあとの全王は、退屈していたらしいのを、物怖じしない悟空が、元凶と言えるタイムマシンで、本編世界に連れて来られていますが、それを漫画版でウイスが「悟空さんは全王様をお助けした」と表現して、他の天使すら驚かせました。それは、「人間の間違いを正すために宇宙全体を罰したつもりの全王が、かえってその間違いや人間の善意で助けられる面もある」という意味で、「レベルを判定する側のレベル」とも言えます。
 つまり、人間のレベルを測る神々、そして天使自身にも「レベルの限界」があるならば、「レベル」や「実力」もその定義に同じものが必要になり、判定する責任を先送りにしてしまうかもしれません。

実力を測る実力

 「実力を計測する実力」が100パーセントの存在がいない限り、「実力が全てだ。90パーセントの人間は85パーセントの人間に優る。嫌ならば実力を上げれば良い」という論理も、その計測の誤差が5パーセント以上あれば、覆ってしまいます。
 デカルトは、「物事を考えるときは、確定したものだけを扱い、順番を重視すべきだ」と哲学で考えて、その究極のところを「神」としたようですが、これは「相手の実力を判定する実力が100パーセントの、究極の前提」と言いたかったのかもしれません。 
 レベルは、一定の方向の数値などの、ある程度客観的な長所が、それだけでは解決出来ない目的や課題を果たせない短所に繋がるときに、「レベルが低い」といった主観的で曖昧な不愉快さの表現に使われるのでしょう。
 実力も、ある数値で測れる「力」に対して、「それは表面的だ。本当の力、真の力、芯や中核の力は別にある」という意味合いでしょうが、おそらく「表面的な力では解決出来ない、むしろそれが高いと悪化する問題」の普遍的な統一された定義が難しいからこそ、「実力がない」という主観的な評価になるとみられます。
 その意味で、レベルや実力の定義は、「表面的な力の奥にある」と言っても、誰もが認める中核が見つからなければ、それを探すのにも「レベル」や「実力」が必要ならば、同語反復のようになってしまいます。

自分の実力に気付いてもらえない被害者 

 『「もう....働きたくないんです」冒険者なんか辞めてやる。今更、待遇を変えてやるからとお願いされてもお断りです。僕はぜーったい働きません。』(以下『もう働きたくないんです』)では、ファンタジー世界における、ブラック企業のような労働を強いるギルドで、一見弱い初級魔法しか使えない代わりに持続時間の長いエクスが、酷使された上に侮られて待遇の悪い状況で、働くのを辞めたのですが、徐々にその隠れた能力を周りが認めて、不正や酷使をしていた人間が制裁されたり、認める人間は助けられたりしています。
 ここでは、単なる市場原理や競争だけでなく、エクスの能力に気付かない、そもそも「実力」があるのか疑わしいギルマス(社長のような役職)や元ギルマス、子爵やその執事の「権力」が苦しめているところがあります。
 自分の弱いところ、過酷なギルドの労働への消耗や単独で魔物を倒せないところを、エクスの一見地味な初級魔法による強化や陰での魔物退治に助けられていたのに気付かない人間は徐々に失敗していき、気付いてエクスを誉めていた人間は少しずつ信頼関係を得ていきます。
 しかし、ここで重要なのは、本来エクスの「実力」を判定すべきだった人間のギルマスや子爵が気付かずに、市場原理や競争とは少し異なる「権力」で押し切っているのも過酷な労働や非効率性の原因だったことです。

2022年11月9日閲覧
 岩井克人さんの書籍を参考にして、法律、貨幣、遺伝子、文化が人間社会の構成要素だと私は考えていますが、エクスを苦しめるのは、賃金の低さという貨幣だけでなく、法律や文化や遺伝子による身分や「元ギルマス」という権威などの要素があると考えます。
 つまり、「実力」を判定する「実力」の低い人間が貨幣の「実力」以外の要素で押し切っているのが、問題だとも言えます。それは、「強いところ」、「弱いところ」のこじれた組み合わせにより主人公も周りも苦しめていると言えます。

被害者も気付いていない

 しかし、エクス自身も自分の賃金が、「初級魔法でも魔導士はこれより高いはずだ」と気付かない、自分が倒した魔物の成果を横取りされていたことに気付かない、自分の魔法が科学者の驚くものだったと気付かないなど、「エクスの実力を判定する実力の低い」人間のうちだったと言えます。気付いているのは、周りに評価されていた魔導士のマーラなどです。
 自分の実力に気付かない無自覚なところを、「謙虚な美徳」として扱う物語も多いでしょうが、それは「実力を判定する実力の低さ」という子爵やギルマスの問題が主人公にも降りかかる危険性があります。
 その意味で、「実力を判定する実力の低い人間は悪い目に遭っても仕方がない」とも言い切れません。完全な「実力主義社会」は、決して幸福ばかりをもたらすとも言えません。

まとめ

 「勝利」、「結果」、「実力」が全てという論理は多いものの、それは反論を吸収して利用してしまう反証不能なところがあり、「勝利しても敗北感がつきまとう。別の勝利が欲しくなることもある」、「結果が全てと表現して崩れる結果もある」、「実力を判定するのにも実力が要る」という同語反復の要素があるため、果てしない苦しみ、集諦のようなものを生むのかもしれません。

参考にした物語


漫画

原作/縛炎,漫画/村上メイシ,2022-(未完),『「もう....働きたくないんです」冒険者なんか辞めてやる。今更、待遇を変えてやるからとお願いされてもお断りです。僕はぜーったい働きません。』,スクウェア・エニックス
久世岳,2021-(未完),『ニラメッコ』,白泉社
福本伸行,1996-1999,『賭博黙示録カイジ』,講談社
空知英秋,2004-2019(発行期間),『銀魂』,集英社(出版社)
岸本斉史,1999-2015,(発行期間),『NARUTO』,集英社(出版社)
鳥山明,1985-1995(発行期間),『ドラゴンボール』,集英社(出版社)
鳥山明(原作),とよたろう(作画),2016-(発行期間,未完),『ドラゴンボール超』,集英社(出版社)
井上純一/著,アル・シャード/企画協力,2019,『キミのお金はどこに消えるのか 令和サバイバル編』,KADOKAWA
久部緑郎(作),河合単(画),2002-2009(発行期間),『ラーメン発見伝』,小学館(出版社)
久部緑郎(作),河合単(画),2010-2014(発行期間),『らーめん才遊記』,小学館(出版社)
久部緑郎(原作),河合単(作画),2020-(未完),『らーめん再遊記』,小学館
ゆうきゆう(原作),ソウ(作画),2014(発行),『マンガで分かる心療内科 アドラー心理学編』,少年画報社(出版社)
カント/原作,佐藤文香/著,近藤たかし/まんが,2020,『まんが 純粋理性批判』,講談社

テレビアニメ

伊達勇登(監督),大和屋暁ほか(脚本),岸本斉史(原作),2002-2007(放映期間),『NARUTO』,テレビ東京系列(放映局)
伊達勇登ほか(監督),吉田伸ほか(脚本),岸本斉史(原作),2007-2017(放映期間),『NARUTO疾風伝』,テレビ東京系列(放映局)
大野勉ほか(作画監督),冨岡淳広ほか(脚本),畑野森生ほか(シリーズディレクター),鳥山明(原作),2015-2018,『ドラゴンボール超』,フジテレビ系列(放映局)
清水賢治(フジテレビプロデューサー),松井亜弥ほか(脚本),西尾大介(シリーズディレクター),小山高生(シリーズ構成),鳥山明(原作),1989-1996,『ドラゴンボールZ』,フジテレビ系列(放映局)
内山正幸ほか(作画監督),上田芳裕ほか(演出),井上敏樹ほか(脚本),西尾大介ほか(シリーズディレクター),1986-1989,『ドラゴンボール』,フジテレビ系列

テレビドラマ

伊與田英徳ほか(プロデューサー),八津弘幸ほか(脚本),池井戸潤(原作),2015,『下町ロケット』,TBS系列(放映局)
伊與田英徳ほか(プロデューサー),丑尾健太郎(脚本),池井戸潤(原作),2018,『下町ロケット』,TBS系列(放映局)
伊與田英徳ほか(プロデューサー),丑尾健太郎(脚本),池井戸潤(原作),2019,『下町ロケット ヤタガラス 特別編』,TBS系列(放映局)
伊與田英徳ほか(プロデューサー),八津弘幸(脚本),2013,『半沢直樹』,TBS系列(放映局)
伊與田英徳ほか(プロデューサー),福澤克雄ほか(演出),丑尾健太郎ほか(脚本),2020,『半沢直樹』,TBS系列

参考文献

宇野常寛,2011,『ゼロ年代の想像力』,ハヤカワ書房
カール・R・ポパー(著),藤本隆志,石垣壽郎,森博(訳),1980(初版第1刷),1997(8刷),『推測と反駁』,法政大学出版局
那須耕介(編著),橋本努(編著),2020,『ナッジ!? 自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』,勁草書房
沢登俊雄,1997,『現代社会とパターナリズム』,ゆみる出版
池上彰,2014,『おとなの教養』,NHK出版
高崎直道,1992,『唯識入門』,春秋社
中村圭志,2016,『教養としての仏教入門』,幻冬舎新書
デール・S/ライト/著,佐々木閑/監修,関根光宏/訳,杉田真/訳,2021,『エッセンシャル仏教』,みすず書房
小林道夫,2006,『デカルト入門』,ちくま新書
中村元,2003,『現代語訳 大乗仏典1』,東京書籍
金岡秀友/校註,2001,『般若心経』,講談社学術文庫
デカルト(著),谷川多佳子(訳),1997,『方法序説』,岩波文庫 
岩井克人,1998,『貨幣論』,ちくま学芸文庫
岩井克人,2014,『資本主義から市民主義へ』,筑摩書房

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