見出し画像

芳賀繁『ミスをしない人間はいない』から得た知見

 立教大学心理学教授が著した本を読むのも4冊目だ。これまでとはまた違う内容について書こう。

なぜ違反をするのか

 ルールや決められた手順を守らないことを「違反」と本書では言っている。違反をすれば当然ミスは起こる。ではなぜ違反をするのか。

人が違反をする理由
①ルールを知らない
②ルールを理解していない
③ルールに納得していない
④みんなも守っていない
⑤守らなくても注意を受けたり、罰せられたりしない

本書130ページ

 工場等において、たとえばクリーンルームに入るときにすべての手順を踏まない理由を挙げてある。「なぜここまで消毒等を徹底しないといけないのか」わからないから手順を省略してしまう、というのが理由なら、それは②が適用される。周りの先輩や上司が守っていなければ当然守らない、というのなら④に当たる。という具合である。
 だが、校閲者がもし違反をすることがあるならbが、なぜそれをしてしまうかという話になると、この①~⑤そのままの理由は当てはまらない。
 まず「違反」を定義する。本書と同じく「決め(られ)た手順に従わないこと」としよう。具体的には、チェックリストを使わないとか、渡された資料をきちんと見ないといったことになろう。なぜそうなってしまうのか。

①感情面の揺れ等で集中力が落ちており、当該部分の文字を目では見ていても脳に入っていない
②時間がなく、すべてのチェック項目をチェックするのが不可能
③チェックリストや資料の作り方が不適切で、参照しながらの作業がやりづらい

 理由として大きいのはこんなところだろう。そして、①はメンタル、②は物理的な制約、③は資料作成を改善しない限り、また同じミスが繰り返される。
 対策方法については改めて投稿するが、ここでも簡単に書いておく。

①の対策
ふだんから心身の安定につとめる。運動、瞑想、散歩などを規則的に行う。仕事を始めるときは、校正刷りを前に置いて深呼吸を3回するなど「儀式」を決めておき、必ずそれを行ってから仕事を始める。これは脳に「仕事モード」であると刷り込むためである。

②の対策
本当に時間がないならば、何を優先するのかを発注者と話し合う。これに尽きる。

③の対策
資料作成、特にチェックリストについては細かくは改めて書くが、「優先順位別」「1行に1項目」で作成するというのは、どんな場合にも守るべき鉄則だ。これだけでも使い勝手は向上し、守られる確率は上がるはず。

本当に「すべてのミス」に対策する必要があるのか?

 些細なミスをなくすために、作業手順を複雑にするのは副作用の害を生むだけだと思います。 

本書201ページより

 「すべてのミスに対策が必要なのかって? それを言っちゃおしまいよ」と思う人もいるだろうが、まずは本書に述べられている概要を記しておく。
 製造業の「検品」工程における話だ。ある工場の製品検査では、検品に加えて検査した個数と不良品の個数を記入して、ロット単位で合計を計算する係がいる。ところが、次工程の「検算」において、ひとりの検査係だけが計算間違いが多いことがわかった。
 この場合どうするか。対策として考えられる一つ目は、当該の人員を検品係から外す。だがし検品人員であれば、「検品」がきちんとできることが重要なスキルであり、計算は付随業務にすぎない。「検品」ができるなら配置換えの必要はない。
 対策の二つ目。検算する人員を増やす。だが、コストにも時間にもその余裕はない。
 工場から相談を受けた著者の答えは「何も対策しない」。検算という次工程があり、そこでほとんどのミスは発見できているという。発見できなかったとしても、製品の歩留まり率はコンマ何パーセントか変わってくるという程度だというのが現況だ。
 ここで何か作業手順を変えたり加えてしまうと、計算間違いほど頻繁には起きないけれど、もっと重大な影響を及ぼす別のミスが起こるかもしれない。だからこそ、「何も対策しない」のが著者の考えであるという。
 これを校閲にたとえてみる。まず、ケースAとして校閲者が「検品」係だった場合を考える。ある一人の校閲者(たとえば、自分)だけが見落としが多いのであれば、改善策云々というより、校閲者としての適性がないから止めなさい、ということになる。
 (フリーランスの)校閲者になる方法はいくつかある。スクールに通って検定を受ける、校正プロダクションや出版社の技能試験を受ける、あるいは出版社や編プロなどの内部で校閲をしていたが独立し、元の会社から仕事をもらう。大体この三つだろう。
 三つのどれであっても、見落としが多ければ試験には合格しないし、評価の目がある社内で校閲業務を長く担当することもないだろう。従って、校閲者になるという時点で、すでに適性はあるはずだ。
 もちろん、校閲者のなかにも見落としが「比較的」多い人と少ない人はいるだろう。だが、細かい見落としは多いが「重大なミス」を見逃すことはほとんど(「絶対に」見逃さない人はいない)ない人だっている。逆のパターンもあるだろう。
 というわけで、「校閲者」というカテゴリー内での見落としの多寡は、ミスの種類、著者との相性、編集者の指示等を考えると誤差の範囲と考えられる。
 次に、ケースBを考えてみる。校閲者が「検算」係に当たる場合である。どんなに精度が高い人でも、「検算で間違える」、すなわち校閲者であれば「間違いを見落とす」のはゼロにはならない。
 小さい見落としの個数については、わたしがいつも言う「見開きページに平均して20か所の間違いがある場合と、1か所の間違いがある場合とでは、拾える個数も変わってくる」で事足りると思う。見開きに1か所しかない間違いや不適切表現を拾えなければNGだろう。だが、見開きで20か所の間違いを数百ページにわたってひとつも見落とさない、というのは不可能に近い。
 やはりこの場合も、対策としては「その前の工程を見直す」ということで、個人の問題ではなくなる。
 だが、「重大な間違いを見落とす」というミスはある。最近なら、差別や失礼な表現を見落とすのは、校閲者としてマイナス点が大きい。その場合、一度は編集者等が注意してイエローカードを出す。二度目からは適性または能力なしと判断されて、レッドカードで退場、すなわちその人員は外されることになるだろう。フリーランスの怖いところである。
 では最後の命題にいこう。

ツールを使ってもミスは減らないのか?

客観的なリスクが低下すると、人の行動はリスキーになるという困った法則があります。リスクホメオスタシス説です。見通しの悪い道路を改良しても、 自動車の衝突安全性を高めても、ドライバーが速度を上げたり、無理な追い越しをするので、事故はちっとも減らないというのです。

本書131ページより

 ABS(アンチロック・ブレーキ・システム)を搭載した車と、搭載していない車とで、ドライバーの行動に違いが出るかどうかという実験がなされた。その結果、ABS車を運転する方が走行スピードが速く、車間距離が短いことが分かったのだという。実験期間の3か月でいうと、ABS車の方が事故も多いという結果になった。
 これはかなりおそろしい。安全装置によって運転がリスキーな方向に変化するという「リスクホメオスタシス」説を裏付けている。
 「自動車の衝突安全性を高めても、事故はちっとも減らない」を自動車での命題とするならば、校閲者の命題は「ツールを使ってもミスは減らない」ということになろう。
 校正ツールはいろいろあるが、一般的であり、自分が使っているJust Right!を考えてみる。
 Just Right!は呼応表現の不整合、表記揺れなどを一覧表示してくれる。英語教材校閲では、スペルミスを拾ってくれるのが何よりありがたい。スタンダードな用法ではない漢字、送りがなを検出する機能も持つが、同ソフトの指摘は必ずしも適切ではない。したがって、文芸作品ではわたしはこの機能は外す。著者が意図的にスタンダードではない漢字や送り仮名を使うことが多いから、あまり意味がないのだ。
 それでも、Just Right!を使ってわたしは10年になるから、ツールとの付き合い方もわかっている。もちろん、頼りになる相棒である。ツールがあってもミスが減らない、あるいは増えるというのは「あり得ない」。

ドライバーの運転は機械によって荒くなるのに、校閲者のゲラ読みは機械によって荒くならないのか

 以上のことから、「校閲者のゲラ読みは機械によって荒くならない」と言える。理由は二つある。
 第一に、ドライバーは機械を使いながら運転しており、校閲者は機械を使った「後」に自分が作業する(あるいは自分が作業した後に機械を使う)。この点が異なる。
 機械と人間が同時並行で作業していれば、機械を使うデメリットの方が大きいかもしれない。だが機械と人間が別工程であり、担当工程も別々である(人間がそれをわかって使っている)ならば、機械を使うのはメリットの方向にしか働かない。
 第二に、校閲者はツールが提示した結果をひとつひとつ「判断」する。機械が表示してくる結果を採用するか無視するかは、人間が判断している。ツールが勝手に文章を変更してくることはないのだ。
 ということで、この二つの理由で説明がついたと思う。AI翻訳が現時点では「実用性には遠くて使えない」と言われるのも説明がつくのではないか。
 AI翻訳においては、機械と人間は別工程で、担当工程も別(機械が「翻訳」、人間は「チェック・エディット」を担当することになる)である。上記の第一の理由はクリアしている。
 だが、訳文生成過程において、人間が何かを判断するという工程はない。つまり、第二の理由をクリアしていない。機械が勝手に出してくる訳文にはノイズが多く、これをひとつひとつ取り除く手間がかかるから「こりゃダメだ」となるのではないだろうか。
 というわけで、ツールと人間が別工程であり、判断を人間が握っている分には校閲者にとってツールは頼りになる相棒になるはずだ。これがわたしの考察だがどうだろう。

注:Trados等の翻訳支援ツールならば「人間が判断していく」のだから第二の理由もクリアしているはずだ、と思われる翻訳者は多いでしょう。これについては別途書きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?