通訳者の作者と同じ職業に就いている「はるか」を描いた小説。
 冒頭に、主人公の年令について記述があり、自分と同年代ということがわかる。同感するところも多いだろうと思ったとおり、すぐに本の中に入ることができた。
 わたしは翻訳エージェントに長く務めていたので、翻訳や翻訳業界のことはそこそこ知っている。だが、通訳という仕事は近い領域のようでいて、実はほとんど知らない。知り合いも少なく話を聞く機会もあまりない。自分には遠い世界だとは思っていたが、驚きの連続だった。
 

完璧とも聞こえる同僚の訳を引き継ぐ瞬間が迫ると、はるかの胸は鉛の塊になった。秒針が規則正しく歩を運んで近づく脅迫者に思えた。一分前になったとき、はるかは大きく息をした。これが望んだ仕事だと自分に言い聞かせた。以前の会議の記録を読み、関連する文献を勉強し、準備に費やした時間を思った。五秒前を指した針を見て、はるかは息を整え、ヘッドホンをなおし、右手を静かにスイッチの上に伸ばした。

本書p54より

 読んでいるだけで息が苦しくなってくる。緊迫した空気のなかで極限まで集中力を発揮しなければならない仕事だ。それにしても、人の集中力というのはどこまで訓練で伸ばすことができるのだろう。
 などと考えていると、同時通訳(同通)について「訓練と経験です。何というか、注意力の分散技術です」「例えば聞くほうに六十パーセント、しゃべるほうに三十パーセント、残りは図を見たり書類を探したりするほうに向けるのです」という記述もある。集中しながら注意力を分散させ、それぞれの領域で集中するという離れ業を必要とする職業なのか。
 同通ではこんな風に注意力を分散させる技術が要るとしたら、逐次通訳(逐次)はどうなのだろう。素人には、逐次のほうが楽なんじゃないのかというイメージがある。だが「前に聞いたことを覚えていなくてはならない。そのうえ、聞いたことを編集して綺麗な文章で出さなければならないために負担が大きい」のだという。以前、ある通訳者が「いま聞いたことを何分間も覚えていないと逐次はできない」と言っていたが、こういうことだったのかと、この本を読んでやっとその意味を理解した。
 逐次通訳の具体的な脳の働きについても記されている。 

「しばらく話をしたあと切って、まとめて訳すんです。内容を概念として記憶し、その概念を別の言語で自分の語りとして出します」
(中略)
「感覚的には理解した論理を頭の半分にしまい込む感じです。このときは原則、訳出する言語で単語をメモし、一方、頭の半分は、耳が聞いたことが常識的に正しいとか、自分の持っている知識をつじつまがあっているか、どのようにまとめようかなど考えます。語りがひと区切りすると、間をおかず、再現すると決めておいた箇所から訳出したい言葉で語り始めます。そのとき、メモしてある数字や人名、言葉などを重ねていきます」

本書p72より

 脳を半分に分けて別々に機能させるということは、やはり注意力の分散技術が必要ということか。論旨の流れは記憶して、ポイントになる語はメモを取っておく。翻訳者も、原文(たとえば英語)を読みながら意味とロジックを理解し、キーワードは別途調べ物をしたりするので、ここは似ているかもしれない。
 通訳と翻訳が似ているといえば、「関わった会議から生まれた政策決定や変更、社会の反応が、新聞や業界紙で報道されるのを見るのは楽しかった」というくだりもある。そうそう、ここはわかる。いま自分は翻訳そのものは(英語教材を除いて)しないけれど、翻訳チェックや校閲をしていても一次情報はもらっているので、自分が関わったプロジェクトや書籍がどう動いていったのか、新聞等で追えるのは楽しい。
 通訳者と翻訳者はどちらも、異言語間を行ったり来たりする、ことばそのものの商売。本書にも通訳者から見たことばの話が随所に出てくる。「日本語は豊かで柔らか、かつ明快ですね。あいまいだという人もいますが、あいまいにしゃべっているだけです」、「よい文章は論理的にできているので、言語の構造が感覚的に身につくと、次に来る言葉が想像つくようになります」など、まさにそのとおりだ。
 感覚の同調は、言葉(特に日本語)のプラス面のことばかりではない。「〈ガバナンス〉や〈アカウンタビリティ〉なんて、使うほうも聞くほうも分かっているのかしら?」「〈ターゲット〉なんかも、〈目標〉なのか〈標的〉のつもりなのか、こちらが考えなければなりません。語り手の手抜きですね」。よくぞ言ってくれました。日本語の書き手全員にこのくだりを読んでほしい、特に翻訳(英訳)の元原稿を書く側の人に。
 言葉といえば、こういう一つ一つの単語の話ばかりではない。東日本大震災の後、主人公らはボランティア通訳として郡山に向かうのだが、その記述にこんなところがある。 

 翌朝、派遣団員の顔合わせをすると、原発事故を受けて会員の派遣を中止した国が増えていた。二階の端にある暖房を切った小さい室内で打ち合わせが始まった。
「放射性物質は出ているとしてもわずかです。健康被害はないでしょう。チェルノブイリとは違います」
 会のはじめに県から派遣された中年の男性担当者が明言した。その言葉を海外グループに伝えるのに、放射能を理由に参加を取りやめた国への非難と受け取られないよう、節子が配慮しているのをはるかは感じていた。 

本書p201より引用

 ひとつの言語を異なる言語で伝えるときに、その言葉のニュアンスまで正しく伝える。それが通訳者や翻訳者の役割だ。だが、いわゆる「配慮」が必要になることもある。本書のこの場面では、日本(福島県)側が「(放射能による)健康被害はない」とはっきり言っている。だがそれを伝えるときに「健康被害はないのだから日本へ来るのを取りやめることはなかったはず」という意味を入れてしまうと、そうした国を非難していると受け取られる可能性がある。だからこそ、ここは特に注意して、中立的な言葉と表現を選んで、それを発する。国と国との間に入って、生命にかかわる話を伝達するとはそういうことなのだ。
 こんな風に、本書の言葉に関わる箇所は、原点に立ち戻って考えることを含めて楽しくてたまらなかった。
 しかし実は、本書は読みながらあまりにつらくて先に進めず、読み終わるのに数週間を要した本でもあるのだ。
 本書には女性問題(女性差別)の記述が随所に散りばめられている。読んでいると、自分自身が育った家庭で、学校で、教育実習の場(自分には、男女差別のない数少ない職業のひとつが教員という認識があった。だからその道も考えて教職課程をとり、総仕上げとして教育実習にも行った。だがそこで厳然たる差別を見て、感じて、衝撃を受けた。そして教員になる気力が萎えてしまった)で、そして社会に出てから受けてきたいろんな制限や屈辱が、回り灯篭のように目の前を過っていく。
 そして、この問題はいまも日本社会に、いや他国にも厳然と存在していることを考えると、怒りと悲しみと、そして諦めが心の奥から湧いてくる。
 読んでいてつらくなってきては本を閉じ、数日してからまた開く。そうやってページをめくった本である
 そんな感情も、終盤の一節で落ち着く。「幸せは人それぞれ、でも人の幸せはどこかで公平だと思うのよ」主人公の祖母がこう語りかけてくる。そして、あたかも背中をさするように宥めてくれるのだ。
 読んでいて呼吸ができなくなったりページを閉じて読了を諦めたりした後で、すべてを本に委ね、本に抱かれた心地になった。いわば、本書でかき乱された不穏な気持ちを、本書がすうっと収めてくれる。大きく息をついて救われたと安堵する。その心持ちのまま、読了することができた。

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