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他人との比較からどう逃れるのか

社会人になってから味わった苦い思い出

子供の頃は、それで良かったものです。大人が誰かを贔屓すれば、「あー!贔屓だ!贔屓だ!ずるいぞ!」って、言うことが出来たからです。

しかし、社会に出てみると、贔屓されないのは、努力が足りないからだとか、一生懸命さが見受けられないからだと言われて、悪者にされてしまうのです。

僕は初めて就職した先で、のけ者にされてしまいました。同じく同期で入ったSさんは、僕よりも年上だということで優遇されたのでした。あからさまな贔屓でした。Sさんは、何の苦労もなしに沢山の仕事をどんどん任されるようになりました。僕はというと、もう必要のない人間と言わんばかりに、いつ辞めてしまってくれても構わないと言わんばかりに、虐げられた仕事ばかりを押し付けられていました。

それから、僕は次第にひどいいじめを受けるようになりました。そのいじめてくる人間の中に、Sさんも含まれていました。それは、とても納得のいくものでもなく、屈辱的な思いをしました。とても、悔しかったのを憶えています。

この世界は平等でない?

僕は、普段買い物に行く時に、よほどのことがない限り決まったお店を利用させてもらっています。それは、僕なりの理由があるのです。家から近いだとか、駐車場が止めやすいだとか、店員さんが親切だとか、混んでいないとか、安いとか。時として、割高でもここがいいとか、遠いけど、行く価値があるというようなことも起こります。

しかし、これもお店側からすると、贔屓だということになります。どのお店も、贔屓してもらうために、常にあれこれ工夫しながら、必死になって努力をしているものです。そうでないと、お店の存続に関わることであるからです。更に言えば、ちょっと違うお店にいったところで、僕は、普段利用させて頂いているお店から、贔屓だと非難される訳でもありません。

僕らは子供の頃から、平等は大切ですよと、必ずと言っていいほど教えられては来たものの、何を持って平等なのでしょうか。この現代社会において、平等であるかないか判断できないものはたくさんあるものだからです。

こう言うことだって、あり得ると思うのです。僕の中での平等であっても、他の誰かにとっては、平等でないということ。僕自身が今、平等であると感じている部分は、僕自身が納得することができているからこそ、平等だと感じることが出来ているに過ぎないということなのです。

そう考えてみると、入社したての僕は、どうして平等に扱ってくれないんだと嘆いていたけれど、どうだったのか疑問に思うのでした。それから年月が経ち僕も、立場が大きく変わりました。入社してきた新人を指導する立場だったとしたら、どうだったのでしょう。

新しくふたりが入社しました。ひとりは、ほんの数日前まで、学生であり、礼儀作法も含めて社会のことも何も分かっていない人、もう一人は、年上な分、社会のことも幾分理解していて、レスポンスも上手に出来る。教えればすぐに戦力になるのかもしれない人。この二人を平等に判断して選び、すぐに戦力として扱えるように、どう育てるのか。

そう考えると、かつての僕は、レギュラーになれないからといって、ひがんでいただけのことに過ぎなかったけのように思えたのです。

僕に足りなかったのは、贔屓されるためにの努力や、人を納得させるための実力を身に付けようとしなかったこと。

他人との比較を逃れるために

僕は、今になってようやく学ぶことが出来たのです。他人と比較する前に自分自身に問う必要があることを。今こうして、誰かと比較して、自分だけが不平等に感じていること。心の奥底でモヤモヤとした違和感みたいなものは、少なくともいくつもあります。例えば、お金持ちに生まれた人はずるい。いつもあの人は、旅行や趣味を楽しんでいてずるい。あの人は、自由を手にしていて羨ましい。あの人はいつも仲間に囲まれて羨ましい。どうして、自分ばかりが窮屈な思いばかりするのだろう。

恥ずかしながら、そんな風に感じている部分があります。でも、そうひがむ前に、そもそも、僕は、どんな努力をしているの?そこに向かって、何か行動しているの?人に選ばれるだけの自分であろうとしているの?そう自分に問うことが出来るようになれました。


最後まで読んでいただきありがとうございます。
メルシー

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