閉店ガラガラ事件簿 後編 【小説】
【前回までのお話】
5年前の6月、アメリカに住んでいた私、娘と二人で日本へ一時帰国の為、向かうことになった。
乗る予定の機体を私が間違えてしまうというアクシデントに見舞われて、飛行機に乗れなくなってしまった私達に待ち受けていたものとは。。。
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飛行機に乗り遅れてしまい、途方にくれてしまった私だが、まずは夫に電話をして、再び航空チケットを旅行会社に頼んで手配してもらわなければと思った。
「もしもし、私だけど、飛行機に乗り遅れちゃった」と夫と電話が繋がると開口一番に私は話しだした。
「飛行機に乗り遅れたってどういうこと??」旦那は突然のことに、すぐには理解できずにいた。私と娘はすでに機上の人々となっている時間で、突然の電話に驚いていた。すぐに代わりの便を旅行会社に頼んで手配してもらわないといけないことを告げた。
そして、私達はホテルに1泊することにし、航空会社の人に頼んでお願いすることにした。
一旦電話は切り、夫は旅行会社に連絡、私はその場にいる航空会社の人にホテルの手配をお願いすることにした。
航空会社にいたスタッフの一人、60代とおぼしき男性が私達の前に現れた、胸元のネームプレートには「張」と書かれていて、話す英語から中国人だとわかった。
なぜ、話す英語から中国人だとわかったのかというと、私はアメリカで英語を第一言語に持たない人が集う英語教室に通っていて、中国人の友達が多く、中国人の話す英語の聞き取りはわりと理解できるようになっていた。
張さんは、私に2つのタイプのホテルの提案をしてくれた、一つは空港から外に出て少し歩くが格安に泊まれるホテル、もう一つは空港内にあり少し金額の高めのホテルだ。
私は外に目をむけた、ガラス張りの窓の向こう側の景色は、少し寂れたダウンタウンが広がっていて、誰も歩いている人はいなかった。
なにより、その日はトルネードの余波が街を襲っていて、窓ガラスには雨粒がうちつけられ、街中にはトルネード警報が鳴り響いていた。
こんな中、スーツケースなどの大荷物を抱え、娘と二人、その中に飛び込んで行くのは得策ではないと考え、私は張さんに、空港内のホテルでお願いしたいと申し出た。
私達は、張さんを先頭に、ホテルに向かって歩きだした。空港と直結しているホテルまでは数分で着いた。ホテルのロビーで、受付の人に張さんが事情を説明してくれて、私には受付の人から部屋のプランの提案があり、私は一番安い部屋をお願いした。
張さんは手に持っていた新聞を私に手渡した「大丈夫、これを読んでリラックス」と差し出された、日本経済新聞を私は受け取り、ロビーで張さんと別れた。
日本経済新聞は私にとって、リラックス出来る物ではないが、張さんの優しい言葉、気持ちが嬉しかった。
ロビーで部屋のカードキーをもらい、私達は3階にある部屋へエレベーターで向かい、荷物は後からベルボーイが運んでくれた。
私と娘はやっと、部屋に入り、緊張感から開放されて、くつろぐことができた。
しばらくすると、夫からも電話が入り、明日の午前中の日本行きの航空チケットを確保でき、直接、朝、窓口に行き、名前を言うと航空チケットを発券してくれることになった。
そして、私は両親に連絡をいれた。日本に着いたら、成田空港から私の実家まで高速バスを使って移動することになっていた。そして高速バスの駐車場まで親が迎えに来てくれることになっていたのだ。
1日遅れで到着することを伝えて、時間などは再度、日本に着いたら連絡するということになった。
ほっとして、部屋の窓の外の景色に目をやった、窓の外は空港の駐車場でまったく景観はよくない。でも,その駐車場の景色はどことなく、どこかで見覚えがあるような気持ちになり、落ち着くものがあった。
そして、突然、ある人のことが頭をよぎった。
14年前、アメリカの英語教室で知り合った、日本人のえみちゃん。
えみちゃんは私より4つ年上で、アメリカ人の旦那さんと結婚したばかりで私の通っていた英語教室に来た。
私とえみちゃんは別のクラスだったが仲良くなり、個人的につきあうようになった。ホームパーティを開くのが大好きな人で、ハロウィン、感謝祭、年越しパーティなどを開いてくれて私達夫婦をいつも誘ってくれた。
たくさんの数え切れない思い出があるが、えみちゃんは数年前にアメリカ国内で引っ越していて、娘が生後半年の時に別れて以来、会ってはいなかった。
会ってはいなかったが、時々メールなどでお互いの近況は報告していた。
私はえみちゃんが今住んでいる場所が、テキサス州ダラスだということを思い出した。
そして、Messengerでダラス空港のホテルに1泊することになったと連絡してみた。
1時間くらいして、えみちゃんから連絡が入った、「何回かメイちゃんに、電話をしているけれど繋がらない、このトルネードの天候のせいかもしれないので私の携帯に電話してみて」と電話番号を教わった。
電話をかけてみると、そこには、以前と全く変わらない、明るく元気な快活な性格そのままの語り口調のえみちゃんがいた。
私のいるダラス・フォートワース空港から車で1時間くらいの場所に住んでいて、旦那さんは空港の近くで勤務していると言っていた。その日は息子さんの習い事があり、家に帰るのは夜の20時くらいになるのだが、それから私のいるホテルまで車を運転して会いに来てくれるという。
私の泊まることになったホテル「GRAND HYATT」というホテルは、どうやら空港には2軒あるらしく、もう一つのホテルは空港からシャトルを使わないと行けない場所にあるらしく、私の泊まっているホテルがどちらかわかってくれた。
その後、また連絡があり、旦那さんが早く仕事から帰宅できるようになり、息子さんの習い事の送迎をお願いできることになり、19時には私達のホテルへ会いに来てくれることになった。
19時にホテルの入り口前で待ち合わせ、私はドキドキしながら待っていた、もう7年近く会っていないからすぐにわかるかなとも思っていた。
遠くから一人の女性が私の方へ歩いてくるのが見えた。髪の毛は茶色く、長いウェイビーヘアー、黒い上下のパンツスーツに身を包み、足元も黒いヒールの靴を履いていた。
全く変わらない、それどころか若返っているえみちゃんがそこにはいた。
えみちゃんはとてもアクティブな女性でピアノ講師と日本語学校の先生だ、その日も数人の生徒さんにピアノを教え、その後、会いにきてくれた。
「久しぶり〜、このホテル、1回入って見たかったの、お値段も高いから、なかなかホテル内に入るのも、室内に入るのもできないよ」と私に話しかけてきた。
私達は、私の泊まっている3階のホテルの部屋へ移動してお喋りすることにした。
部屋に入り、窓側におかれている、ソファーに腰掛けて話が始まった。
思い出話から、7年間の空白を埋めるべく、会話は止まらない。
私も、その時にアメリカ生活で抱えてる悩み事なども、えみちゃんに相談することができた。
時が深夜0時を迎え、すでに娘はベッドの中で熟睡していた。
私達は後ろ髪を引かれる思いで別れることになった。ホテルの下までお見送りに行こうと思ったけれど、ここでお別れで良いとえみちゃんに言われた。
「また、いつの日か、アメリカか日本で絶対に会おうね、メールはするからね」と、何度もまたの再会を約束して、私はエレベータに乗り込むえみちゃんを見送った。
そう、また、今日みたいに、思いがけずに逢える出会いもこの先たくさんあるはずだから。
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おはようございます。
昨日の「閉店ガラガラ事件簿 前編」をお読みいただき、たくさんのスキボタン、コメントありがとうございます。
後編を楽しみにしていてくれたか方がいて、うれしくなり、後編を書いて見ました。
私のうっかりミスで思いがけず、見知らぬ地ダラスで娘と二人、夫と一緒だったら絶対に選ばない高級ホテルに泊まり、そしてなんと言っても7年ぶりに、大切なお友達のえみちゃんとの再会はとてもうれしい出来事となりました。
えみちゃんについては、また後日書きますが、私の人生で多大な影響を与えてくれた人です。えみちゃんに出会わなかったら、娘ももしかしたら、私の横に今、いないかもしれません。
お話を書いているうちに、いろいろな思い出が頭をよぎっています。
人生、出会う人、タイミングって不思議だなと思っています。
今日は、金曜日、本当は「週末家飲みDAY」の日でしたが、急遽、この「閉店ガラガラ事件簿 後編」を投稿しました。
朝から激しい雨が降っています、5年前のダラスでの雨を思い出しています。
ヘッダーの写真は5年前のホテルの部屋から撮った写真です。
皆さんにとって、何か懐かしい、楽しい思い出にふれることの出来る1日となりますように!
Have a good weeken!
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