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Aちゃん

 日本に仕事で帰ってた時、Aちゃんと20年ぶりに再会した。
 彼女は近所に住む幼馴染で、小さい頃から途轍もなくオーセンティックな女の子だった。どうしたらあんな風になれるのか、幼いながらも羨ましくて仕方がなかった。

 昭和時代の私の親はとにかく世間体を気にするタイプで、私に「必要以上」を求め、私のやる事なす事全てにおいて、口出しては極度に怒ったり、母の思い通りになると異常に褒めたりしてきた。心理学的に言えば、精神の成長には随分影響があったと思う。

 そうこうしているうちに、いつのまにか、彼女は東京の学校に行ってしまった。私服で通う彼女の姿はいつも生き生きしていて、それは私にはとても眩しく見えた。「自由」その物だった。

 私と一体何処が違うのか観察してたら、やっと分かったことがある。それは「地声で話している」だった。なんか安心感がある。嘘がない。Aちゃんは確かに小さい頃から自分の意見を持ち、周りなんか気にしない、関係ない、勇気ある純粋な子だった。
 
 そのAちゃんに、この前久々に会った。Aちゃんは私を家によんでくれ、手料理でもてなしてくれた。懐かしい地声、あの頃のままのAちゃん、やっぱり良いな。沢山の思い出が甦る。きっと彼女は未だに沢山の人を惹きつけてることだろう。

仲良しの旦那さんと東京の一軒家で幸せそうに暮らしている彼女。
キャリアを一番に考えパートナーも作らずヨーロッパでバリバリに働いている私。

 決して選んだこの道を後悔している訳じゃない。でも、もしあのままずっと彼女と親しい関係でいたらどんな風になってたか、違う道を歩いてただろうか、考える。
何十年経った今も、お互いを大事に思うのも愛おしく感じた。
もしかしたら、私が海外に来て一旗あげたいと思ったのも、彼女を追いかけ自由を獲得したいからだったのかな。

光のポエトリーをずっとつくっている、夢を見ながら自由でいるために。
これでいいんだと思う。



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