MEGUMI ITO

エッセイを見せる。芸術家でいることや子育て、人との繋がりを私の世界観で伝えられたら嬉し…

MEGUMI ITO

エッセイを見せる。芸術家でいることや子育て、人との繋がりを私の世界観で伝えられたら嬉しい。www.ito-megumi.com ドイツ生まれ、スイスと鎌倉で育ち、パリ在住。オーストリア国立応用美術大学に留学後、照明アーティスト。ウィーン、パリ、東京、インターナショナルに活躍する。

最近の記事

私の歩く道

 私は物作りで生活を営んでいる。いつも厄介なのは値段をつける作業。用意する物と私の労働時間とアイデア料を足せばいいだけだが、自分の魂までくっ付いていくから案外難しい。まるで人前で裸になり、私はいくらですか?ってきくようなもの。いっその事物々交換が良い。もしくは誰かが勝手に決めてくれてもいい。でも誰が決める? 無闇な値段も納得できないし。  普段は希望価格を伝えれば納得してくれることが多いが、たまに値切ってくる人がいる。そんな時は何だか虚しくなり自己価値が低くなるのを観る。と

    • ピクニック

       今日は日曜日、お昼近くまでベッドの中でゴロゴロして過ごした。  そろそろ起きなきゃ。台所には昨日から下水が詰まってるせいで洗ってない食器が幾つか残っているけど、ほぼほぼ肩付いている家に居るのは気持ち良い。  昨日までオランダから息子が遊びに来てたから、家の中がごっちゃごちゃになっていた。私も時々一時帰国をした時に、母に私が来ると家がはちゃめちゃになるって言われたのを思い出す。数日間、私に甘えるだけ甘えさせて返したい。去年から通い始めた芸大に行く息子は、やっと好きなことが

      • 父の詫び状

         何十年も前に父の詫び状を読んで深く感動した。いつか私も父に何かを伝えられる時がきたら書きたいと思っていた。  父は普通の人とは大分違う変わった人だった。まだ生きてるけど、笑。母とは正反対で世間体なんていう言葉は彼にはない。本が大好きで何百冊と家にある。この前出版されたパンテオンの本は四百ページ以上もあり、出版社はページ数を減らすよう父に頼んだが、聞かない。  父は愛犬と義母を連れヨーロッパ中を旅し、ローマのパンテオンの調査を何年もかけてした。ある時はイタリア語、ラテン語、

        • 怒るのをやめたら

           昔、私はよくガミガミしてた。特に息子に。「教育」とかの理由で。自分がイライラしているのを忘れて、そのイライラを周りに押し付けてた。  可哀想に息子はまだ小学生で抵抗する事も出来ないので、別れた夫の家によく行っていた。  言い訳をするなら、当時は経済的に窮屈で、これからどうして良いかも分からない程、困惑状態だった。相談する人もいなかったから死ぬほど苦しかった。  私にはその時好きな人がいた。その人に息子がどうやら言ったらしい。ママが怖いって。それを聞いた彼は私に真剣に考

        私の歩く道

             夢を叶える

           ウィーンに長いこと住んでいた間に、賑やかな友達がたくさんできた。私は叶うのなら素敵なクールな人たちの仲間入りしたいと思っていた。不思議とそんな人達から誘われる機会が増え、段々とその仲間に染まっていった。  私は自分のスタイルに気を使い、格好良く着こなし目立ったせいか、いろんなところから声がかかった。ウィーンではおしゃれな人が少ないし、ましてや私が日本人女子だから、ちょっと高く評価されたのもあると思う。   私の「未来の世界」が始まったのもその頃からだった。それまでは人に

             夢を叶える

          大好きな葉子ちゃん

           中学が同じだった。当時、私にファンレターを書いてくれたらしい葉子ちゃんは、双子の片割れと結婚している。なので、彼女は私の義理姉。とにかく不思議な出会いで、最近では週一間隔で電話する仲。  色々ある話の中でもとっておきの、とにかく面白すぎてどう説明したら良いか分からないが、このエピソードを紹介する。  葉子ちゃんは大学病院の看護師。とても頑張り屋さんで、誰よりも患者や同僚たちに「幸せ」を振り撒いている。少し抜けている謂わゆる天然さん。その辺も私に似ているので、私達はすっかり

          大好きな葉子ちゃん

          光のポエトリー

           私は自分でプリントした生地でランプを作り始めた。それがきっかけでギャラリーで個展をする事が決まり、今では公の場所やプライベートの家にも照明を作っている。ここまで来るのに二十六年。  よく私に助言をしてくる人達がいて、失礼な事を平気で言ってくる人もたまにいるが、つい最近、尊敬するあの人からヅキッとすることを言われた。 「君の作品はアートで、光のポエトリーそのものだ」って。  私達はこの宇宙という完璧な空間にいる。超自然に当たり前に存在して、五感を満たし、知識を身につけ、

          光のポエトリー

          Aちゃん

           日本に仕事で帰ってた時、Aちゃんと20年ぶりに再会した。  彼女は近所に住む幼馴染で、小さい頃から途轍もなくオーセンティックな女の子だった。どうしたらあんな風になれるのか、幼いながらも羨ましくて仕方がなかった。  昭和時代の私の親はとにかく世間体を気にするタイプで、私に「必要以上」を求め、私のやる事なす事全てにおいて、口出しては極度に怒ったり、母の思い通りになると異常に褒めたりしてきた。心理学的に言えば、精神の成長には随分影響があったと思う。  そうこうしているうちに、

          m&m

           夕飯に来たボーイズ達はまだ高校生だった。  息子の圭と二人だけで暮らしてたのもあってか、我が家はいつも圭の友達がたくさん来て賑やかだった。週末になると夜中まで遊んで帰ってくる音が聞こえる。キッチンにあるコーンフレークがガサガサなる音、冷蔵庫のドアの開け閉めする音。そのあとは覚えてない。 朝起きると、お手洗いのついでに、靴の数を数える。そんな数年もスリル満点で楽しかった。人生が何処に向かってるのかなんて、全く未知のトンネル内状態。とにかく突っ走ってきた。  いつものように

          カッコつけんのは三十まで

             最近知り合った同じ歳のまきちゃんは、手相を読んだり、タロットを読んだりするのを仕事としている。明るくて、研ぎ澄まされた感覚を持つ可愛い人だった。私は知り合ったばかりなのに自分を剥き出しにして、葉山にある気の良いイタリアンで長いランチを彼女達と共にした。 さて、私の手相は…… 彼女が読む限り、私は成功する。老母の様な「シワだらけの手」なんだそう。とにかくたくさん良い事を言ってくれた。  なんでも、江戸時代

          カッコつけんのは三十まで

          私の一日のルーティン

           息子がオランダに留学した。 それをきっかけに、私は三十年も住んでいたウィーンから、パリに引っ越した。 いつかはやるだろう、と思ってはいたが、遂に到来。誰にも相談せず一人で静かに決めたので、周りの人は少し驚いていた。何故パリなのか…… それは奥底に潜む自分がいつか外に出たいと思っていて、パリでなら出来ると直感的に感じてたから。  パリに着くと友人からの勧めで日記を書き始めた。始めは日記を書くというのが子供っぽいように思えたし、「毎日書く」というのが億劫になるのも不安だった。

          私の一日のルーティン

          助川さん

           そこで現れたのは今回の虎ノ門ヒルズでの仕事で出会った助川さん。私のお世話を四六時中してくれた。頭の切れる、愉快でハートのある人だった。何度口からご飯粒が吹き飛んだことか。それほど笑った。親友の死を忘れてしまうほどだった。  ある時、オンライン会議で、そこにいない人の悪口を誤って言ってしまった人がいて、司会をしていた助川さんは最後にこんな気の利いたことを言った。 「今回の会議の録画は、どなたかの心の声が残ってしまいましたので、消させていただきます。その方には後ほど、お仕置

          時間という名の薬

           パリに着くまであともう少し。今アイスランドの上を通過中。ロシアとウクライナの戦争のせいで、遠回りをしている。 それにしても今回の滞在は予定よりも長引いた。私が二十歳の時にヨーロッパに越して以来、二ヶ月も帰国したのは初めてのこと。  私は西麻布と麻布十番、二箇所に分けてお部屋を借りた。最初の西麻布では、ひたすら悲しみに浸った。何故なら私の親友が半年前に急に亡くなったからだ。死がこんな身近に起こるとか、案外あっけないとか、今まで考えたことも無かった。高速道路に面した私のお部屋

          時間という名の薬

           いつも散歩している時にお花に会うと挨拶をする。通りで売られる花、自然に咲いている花、ホテルの中に置いてあるのなんかも。みんな可愛く挨拶を返してくれる。私はその挨拶に出会えるのが楽しみで、大好きで、心が癒されるのを感じる。  大分前、美大受験の時に花を描く特訓があって、当時、全くセンスのない私はまず見える“茎と葉”から描き始め、頭の部分は後回しにした。すると最後に残しておいたはずの肝心なその花の頭がキャンバスから半分くらいはみ出し、あとは入らなくなっていた。そんな恥ずかしい