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学校の先生の転職事情

3月の残りわずかのこの時期、SNS上では「退職の報告」をする教員が出てくるのも春の風物詩となりつつあります。

一方は「心労」で退職を決断された先生たちがいます。
彼女・彼らは、その業務の負担から年度途中から心が折れてしまっていたにも関わらず「責任感」という最後の手綱だけで、3月まで戦い抜いた勇者たちです。年度途中で辞めてしまうことの意味をよくわかっているからこその勇姿に、私は本当に拍手を送りたい。
現在の学校現場には、この「責任感」だけで、何とか毎日学校に通えている先生がたくさんいます。その中の何人もが、「年度内」で退職や病気休暇を取られます。その方達を責めているわけではありません。心身を崩してまで仕事をする必要はない。
でも一方で、「残された側」の負担もまた重い。これは、「代替講師不足」という学校現場の問題と関係しています。「欠員が出ても補充ができない」というのが昨今、言われている「教師不足」の本質です。これが常態化することで、次のステップは「4月1日の時点で教師が足りない」までいくのですが、そこまで来たら、いよいよ「教育崩壊」のカウントダウンだなと感じます。そうならないための「抜本的改革」を教育行政には期待します。

そして心労での退職の先生たちがいる一方で、SNSでは「活躍による昇進」という「新しい転職への道」が開かれつつあります。

私もその中で生きている人間なので、決して客観視して語れるものでもありませんが、ここ数年の学校の先生によるSNSの利用率は目を見張るものがあります。その証左として、教師向けの専門書である「教育書」の筆者が軒並み「SNS教員」という現象が挙げられます。
元々「教育書を執筆できる教員」というのは、選ばれた先生たちの「特権的な名誉」だったのです。例えば「名のある教育研究会での活躍」とか「地域の困難校での教育経験」などがなければ、その名誉にあずかることは叶わなかったわけです。そのためには「辛い下積み時代」を経て「運良く人脈を獲得し」、そこから「出版社の編集者とお知り合いになる」のような奇跡を何度も経験しないとならなかった。しかし、現在のSNS全盛の時代においては、それらを一足跳びできてしまうのが「SNSでの知名度」というわけです。

実際、SNSには様々な教員が「無料で」情報提供を行なっています。その質は、まさに玉石混交といった状態ではありますが、それでも「無料」というのは大きい。それまでは「◯波の教師陣による特別授業」とか「筑◯流の授業づくり」というのを「現地まで赴いて」拝顔しないと得られない「秘密の情報」だったのです。それが叶わない人は書店へ赴き、著名な「〇〇の先生」の本を買っていた。そうして知った知識を「あのねぇ、筑波ではこういうに授業をしているのだよ」といってドヤ顔をするのが、「教育通の教員」だったわけです。
その事情がここ数年で一気に崩れてしまった。「教育界の権威」も流石にこの事態には戦々恐々なのでしょうね。そろそろ「有料」では、集客が望めなくなるのではないでしょうか。

さて、SNSで活躍した先生たちはその後、どうなるかといえば、そのルートもある程度「固定化」されてきているのかなと感じます。それが、先述の「活躍による昇進」という言葉です。

学校教育における教員の「昇進」というのは、元来「学校長への道」の一本だけでした。もちろん、学校長になる前に「教頭を経験する」とか「指導主事を経験する」などの「複線的なチエックポイント」はありましたが、それでも最後の「上がりは学校長」という認識は共通でした。

そして、この常識が崩れつつあります。
まず「学校長」というゴールの魅力はそれほど薄れていないものの、その前段としての「教頭職」の過酷さに耐えられない教員が続出しています。僕の自治体でも、今年度、何人もの教頭が現場からいなくなりました(その補充は、主席教諭とか指導主事です。ちなみに、管理職人事は秘密情報ではないので、役所のページで公開されています)。
教員の労働実態は世間に知れ渡ることになりましたが、教員の5倍くらいは過酷であろう教頭の労働実態は、まだ知れ渡っていません。しかし、教頭を経ないと学校長にはなれない以上、心身を壊すリスクを取ってまで「学校長への道」を歩む先生の数が減っています。

元々、学校には、会社組織のように「役職」がいくつもあるわけではありません。学校組織の権力ピラミッドはかなり歪です。学校長を頂点にして、その下に教頭がいて、あとはみんな「ヒラ」である教員なのです。だから、かなり「薄っぺらいピラミッド」なのです。最近はこの多数の「ヒラ」に序列をつけて(主席教諭や指導教諭)、「管理職予備軍」にする風潮もありますが、それでも「昇進」には程遠い構造です。

ここに先述のSNSでの「インフルエンサー教員」が登場するわけですね。すると、どうなるか。そもそも学校の先生はほとんどが「公立学校で務める公務員」なわけです。公務員というのは、不景気の現在こそ魅力的な職業に移るかもしれませんが、その保守的な組織体質や、厳しい職業倫理なども相まって、決して「華やか」とは言えないことを忘れてはいけません。
だから、インフルエンサー教員のように「書籍を執筆しながら、講演会を開いて、有料オンラインサークルの運営」までをしていると、どうしても「動きづらい」と感じてしまうわけですね。
大体、書籍執筆一つをとっても、学校長→委員会の担当→その上司という3段階の決裁を取らないといけません。これは講演会も同様なので、まあ面倒です。内容についても「教育的かどうか」という基準で何度も説明を求められ、納得してもらえなかったら却下ということもままあります。そんな状況に嫌気を差してしまう気持ちもわからないではない。

そこに目をつけたのが、「私立学校」や「教育企業」というわけです。彼らは「高待遇」と「自由」を売りに「インフルエンサー教員」を「引き抜き」にかかるわけです。この魅力には抗い難いですね。何より、人間に備わった「承認欲求」をしっかりと満たしてくれる。
教育という仕事は「成果」が見えにくいです。そして「成果」を追い求めすぎてもいけない。現代の株式会社が「四半期ごとの成果」を求められて「長期的な事業に取り組めない」という問題がありますが、教育もまさにこの問題があるなと思います。「今、ここ」での成果を追い求めた結果、「未来の社会の形成者」をどう育てていくのか、ひいては「この社会をどうしたいのか」という「時間軸の長い視点」が欠如していることを危惧します。
そんな成果が見えにくい教育の仕事をしながら、「自分は引き抜かれた」という承認欲求も満たされる。何より、それを「退職の報告」として、承認欲求発生装置であるSNS上で公表できる。これはもう忘我の絶頂なのでしょうね。数ヶ月前から「いつ公表しようかな」と指折り数える時間は幸せなのだと思います。

なんで、こんなに詳しく書けるのかって?それは多分、僕がそうなるだろうから。残念ながら、僕にはそういう話は一切来ませんが。

そして、SNS上の「退職の報告」は、次なる「インフルエンサー教員」を生み出すわけですね。成果を認めてもらえない公立学校を「踏み台にして」、自身の教育実践を高めていき、最後には「引き抜きからの退職」という「上がり」を目指す。

まあ、皮肉めいて書きましたが、それでも学校の先生は「自身を研鑽する」ということには違いありませんし、勉強をすることはいいことなのです。時代は変わるものですし、いつまでも「筑◯勢力が尊敬され続ける」のもなんだかモヤモヤしますしね。

そんなことを考えた、春のSNS上の「退職ラッシュ」なのでした。
皆さんの新天地でのご活躍を期待しております。
僕も春から休職して大学院生になりまーす笑

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