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学力保障の闇

「学力保障」という考え方があります。
学校が子どもたちに身につけさせるべきものは「学力」であるという考え方ですね。

1981年、アメリカのレーガン大統領は「危機に立つ国家」という報告書を出していますが、その内容には、国民の識字率の低下への危機意識が叫ばれていました。
報告書には「アメリカの成人の2300万人は日常の読み書き理解テストができない」や「17歳の多数が高度な知的スキルを持っておらず、40%は文章題から推論ができず、説得力のある文章も書けない」などが述べられています。

別の何かで読んだ内容ですが、例えば、「軍隊に入隊した新兵が銃の取り扱い説明書が読めない」や「成人が薬を購入したが、服用間隔や副作用ついて読んでも理解できない」などの具体例を併せて聞かされると、その危機意識に実感が伴いますね。

いわゆる「読み書き算」というのは、誰もが思い浮かべる「基礎学力」だとは思いますが、一体、どの程度の能力が「基礎」であり、どこからが「応用」になるのかというのは、人によって異なるのではないでしょうか。

例えば、高卒の保護者の家庭では、その子どもには「高卒程度の学力」を望むかもしれません。一方、大卒の保護者の家庭では「大卒程度の学力」となりますね。

学校の先生として、子どもたちへ話す内容に「2年生なら、2年生の国語の文章を読んで理解することが求められています。」というのがあります。すると、子どもから「じゃあ、大人は?」と聞かれるので、「大人は新聞が読めるくらいの力が必要ですかね」なんて答えるのですが、これの良い答えがあれば教えてください。でも、確かに、日本の成人のほとんどが「新聞が読めない」という報告書が今後出たら、それは少し怖いですね。

学校現場だと、「当該学年の学習内容の習得」というのは最低限度として求められていると感じます。学校の教科学習には「体系的に」なっています。これは、つまり「Aを学んだら、Bが理解できて、Bを使ってCを学習する」と言った感じで学習が階段状になっているわけですね。
だから、ある学年でAを学び損ねてしまったら、次のBの学習に困難をきたし、Cには至れないのではないか、という漠然とした不安を教師は抱えてしまいます。
例えば、かけ算の九九は良い例です。2年生の「九九」を覚えていないと、3年生の「わり算」は困難になりますし、4年生の「わり算の筆算」は到底できないでしょう。

一昔前までは学校教育は「七五三」なんて言われていました。これは「小学校で7割、中学校で5割、高校で3割」の子どもしか「授業を理解できない」という内容です。私は小学校で働いているのですが、だからこそ、この「3割が授業を理解できない」というのは痛感してしまいます。確かに、それくらいの割合の子どもは「授業についていくのが困難」なのでしょう。

でも、それに対して学校は「何もしない」というのが「学校の怠慢である」という認識が、学校の常識になってからは、この「七五三」もあまり聞かなくなったような気がします。つまり、学校は「3割の子ども」への「対応」が求められるわけですね。これは素晴らしいことだと感じる方は多いのではないでしょうか。それまで「見捨てられていた子どもたち」に「救いの手」が差し伸べられた、と。

確かに、そういう側面もあるでしょう。しかし、物事には両側面があることも忘れてはいけません。僕はこれまでどちらかというと、それの負の側面を見てきました。

例えば、こんな事例を挙げてみましょう。

放課後の九九の再々テストが終わった児童が、
「やったーこれで、九九の勉強をしなくていいんだ!」と喜ぶ

その先生は、九九がなかなか身につかないその子に「多大な時間と労力」をかけて来たはずです。プリントを毎日用意して、休み時間ごとに九九を唱えさせて、保護者にも家庭学習を進めて・・・。その結果、子どもが感じたのは「学習への喜び」ではなくて「九九からの解放」なのですから、これはなんとも皮肉なエピソードです。

もちろん、九九を覚えられていないというのは、教師も保護者も不安だと思います。しかし、人間ですから、「忘れていく」というのも、またあります。通常、2年生だと2学期に九九を学習しますが、3学期に復習してみると、確かに「3割」くらいの子どもは「忘れて」しまっています。
そのあたりは教科書会社も把握してますので、3年生になっても、繰り返し学習内容に九九が登場するわけです。そうして、少しずつ定着していくわけですが、どこまで行っても「全員が完璧に九九をマスター」というのは困難なわけです。
ということを書くと、「何を言っている。私のクラスは全員が九九のテストが100点である。」と言う先生が出てくることでしょう。

100マス計算というのが現場を席巻した時期がありました。「九九をなんとしても覚えさせたい」と思っていた現場からすれば、この教育実践は救いの手に見えたのでしょう。以降、算数の時間やそれ以外の時間にも毎日のように100マス計算をさせるという学級が出現しました。もちろん、そのクラスの子どものほとんどは九九をマスターしていたことでしょう。なんなら、大人よりも素早く九九を唱えることも可能だったと思います。

でも、ここで疑問が出てくるのです。それで本当にいいのかと。いやいや、九九ができること自体は素晴らしいことだとは思うのです。でも、「それだけ」でいいのか、と。
100マス計算は、その仕組み上「競争」の原理が採用されています。同一課題を、いかに早く解くかというのを競わせているわけです。このように書くと、「何を言っている、競っているのは過去の自分のタイムであって、周りのクラスメイトではない」と反論がされそうですが、同一課題をさせている以上、そこに「優劣」を感じてしまうのは人間の性です。自分よりも速く解ける子供と比較して、劣等感を「感じ続ける」子どもがいても不思議ではありません。

「どうして、こんなに捻くれた書き方をするのだ!」とお怒りの諸氏のために付け加えますが、私自身は、過去に「不登校傾向児童」を担当していたことがありました。そこで感じたことは、そこに来る子どもたちの多くは「学力不振」だと言うことです。いわゆる「勉強が苦手な子」ですね。でも、これでは語弊があります。正確には「学力向上への諦め」のようなものがあったのではないかと感じています。

「僕は、勉強ができなくてもいいよ」
「私は、もう勉強をしない」

どうして、子どもたちは「学びから逃走」してしまうのでしょうか。それは、学校から課せられる課題が「定量的に測れるものばかり」だからと言うのが僕の見解です。詳しく説明しましょう。

100マス計算が現場に受け入れられた理由は明白です。それは、「出来不出来」が一目瞭然だからです。あれは、訓練みたいなものなので「やればやるほど上達」します。だから、教師も「教育的効果」を感じやすい。漢字練習もそうですね。書かせれば書かせるほど成果は出る。だから、教師はついつい「課題を出し過ぎてしまう」。「学習は足し算」だと誤解してしまうんですね。スマホにアプリをインストールする感覚で、単調で定量的に測れる課題をどんどん学習活動にインストールし始める。
もちろん、多くの子はアプリのインストールのように身につけていくことでしょう。子どもも満足して、保護者も満足。何より、教師自身が一番満足でしょう。「子どもの変容」に喜びを感じない教師はいないでしょうから。

しかしね、この人間理解が浅はかではないかなと感じてしまうわけです。人間はスマホではありません。だから、何かをインストールすれば、何かがアンイストールされるわけです。それは例えば、先ほどの例で言えば「学びからの逃走」ですね。

周りが単調な訓練に熱狂すればするほどに、冷めてしまう子もいることでしょう。周りには簡単にできることが、うまくできない子だっています。しかし、教室が「単一のものさし(ここだと学力向上)」の世界になればなるほど、そこに居心地の悪さを覚える子どもは苦しくなるはずです。

現在、不登校の児童は20万人を超えるとも言われていますが、それは上記の現象の一つの現れではないかと言うのが僕の仮説です。

仮に、学校が「学力向上のみ」に専心した場合、よくある問いである「学校と塾は何が違うの?」に、学校の教師はどう答えたらいいのでしょうか。ここに答えられない教師が増えて来ているのではないでしょうか。

学校は、ひいては公教育は「未来の社会の形成者を育成する場」であると言う、教育基本の目的を忘れてしまった学校の末路は、「未来の経済を支える人材を製造する工場」となってしまうのではないでしょうか。そして、そこに馴染めない子どもたちを、一体、どこが受け入れるというのでしょうか。僕はそんな不安を「学力保障」という言説から感じてしまうのです。

もちろん「子どもの自主性を尊重するんだ」といって、学習に向かわない子どもを「放置」することを良しと言うわけではありません。
しかし、教育活動を単調な訓練に落とし込んで「教育の成果」と満足することにも警戒感を持っています。
つまり、正解は「その両者の間のどこか」ということになります。だからこれは「原理の話ではなくて程度の話」になります。教師自身が、その都度、判断して、自身の教育哲学と向き合い続けないといけない。要は「悩み葛藤し続ける」ということこそが答えなのではないかなと、最近は考えています。

この「悩み葛藤する」ことを「めんどくさい」と割り切って仕舞えば、確かに世界は「わかりやすく」なることでしょう。しかし、その「わかりやすい世界」の住人は、思考停止した教師が把握できる人たちだけであり、その外側にいる「苦しんでいる子ども」たちを、その教師は見つけることができなくなります。だって、その子の苦しさを測る「ものさし」を持ち合わせていないのだから。

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