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【SERTS】scene.3 水席を囲めない私たち



※この話には一部グロテスクな表現や性的な表現があります。



 新緑が続々と拓けていく。視界の左右で切り立った岩肌と聳える木々が、水の流れを見守るかの如く、穏やかなカーブを描いていた。幽玄な大自然が延々と星の表面を覆うさまは遠目には優美でありながらも、時折ひやりとするほど鋭利な造形が剥き出しになっており、文化圏などひと踏みで圧倒できるのだと微笑み囁いている。そんな大渓谷を成す群峰一塊一塊の迫力に押し潰されそうなのに、空は遠く広い。
 緑の風。黄色い青空。それらを混ぜ、ただ深い一色に落とし込んだ水面を、一隻の舟で進む。競技用ともアクティビティ用ともまた一線を画すクラシカルな手漕ぎ舟は、いま現在観光用としてでしか機能していない。それでも物流を担い生活の要だった頃の伝統を受け継いで来たのだろう、若く精悍な顔立ちの船頭の肩には厳かな矜恃が見受けられた。そんな彼の肉体と一体化した舟が風を切って行くのを涼やかな心地で観察し、また体感しながらも、王の項をがっちりと捕まえている僕はどこか大自然に浸りきれない。なぜなら目を離せば直ぐにでも王は渓流に飛び込みかねないからだ。
「おさかなぴちぴち。カニさんいるかなおいしいな」
 矢鱈と上手い鼻歌。王はご機嫌だ。
「おさかなさんもカニさんも静かにしてるから王も大人しくしようねえ」
 水面ばかりを注視してうずうず落ち着かない様子の王を前にずっと不安な僕は、睛では雄大な自然を眺めていても、頭の中の理性的な部分が真剣に子供用ハーネスの購入を検討している。相手が王であるので不敬罪に問われかねないのがデメリットであるが、それを差し引いても今すぐに欲しい。しかし王は力が強すぎるので、まったく意味をなさない可能性もあって悩ましい。一層のこと、太公望辺りに「頼むから力を幾らか制御できるハーネスを作ってくれ」と泣きつきたいところだ。安倍さんちの清明くんでもいい。
「王、こっち来なさい」
 今にも渓流へ身を乗り出しそうな王を、膝の間を叩いて引き寄せると、存外に大人しく僕の腕の中に来てくれた。項から手を離し、抉れるようにか細いアンダーバストの辺りを両腕で捕まえて嘆息すると、花束の甘く青い香りがする。もう終点まで離してやらないぞと意を決しながらその顬に唇を寄せると、王は「くすぐったいです」と身を捩った。
「ほら、王、景色が綺麗だよ」
 そう言って王の顔を船の外に向けさせると、王は「ふむ」と呟いて大人しくなった。そしてその透明な睛に新緑が映りきらめいているのを見て、幾分か安堵の心地が胸に広がった。自然に魅入るだけの豊かな感性があるなら上々だ。そのまま王と同じ方向を眺めながら、しばらく穏やかな時間を過ごす。今だけすべてが緩やかだ。本当に……今だけ。
「あっ、おおきいおさかなです」
 きゅっ、と王のマイナス記号型の瞳孔が開いたと思った瞬間、僕の腕が弾け飛ぶような衝撃があった。人間なら骨が折れるなり罅が入るなりしているであろう感覚に呆気に取られているうちに、ざぶんと水飛沫。ひっ、と短い悲鳴を喉奥から漏らしながら王を目で追うと、舟からは落ちてこそいないものの、舟上から腰を折り、肩の辺りまでを水に突っ込んでいた。そして水に深く沈めた両腕を体幹で支えているようなしなのつくりで「捕まえました」と僕を振り返る。
「嘘でしょ……」
 そう呟いたことですら自覚のないほどに呆然とするが、直ぐに現実に立ち戻り「離しなさい!」と王に向かって叫んだ。しかし王は「わほほ」と笑うだけ。王が腕を突っ込んでいる辺りは水飛沫こそ上がっていないが、水が湧くかのようにうねっているので、本当に何か捕まえてしまったのだと察する。
「ねぇ待ってって本当勘弁しておさかなさん痛い痛いだから離してあげて」
 懇願する形で王の腰を抱いて引っ張るが、流石は王だけあって粘る力が僕より強い。僕の半分以下の体重しかないくせに……と本腰を入れて王を水面から引き剥がそうとするが、王はなにが楽しいのかきゃっきゃと笑う余裕があるほどびくりともしない。そして船頭が冷たい目で僕たちを見ている。「監督不行届ですみません!」と大声で謝罪するが、青年は妙に冷静だ。
「良いですよ、引き揚げても」
「えっ? えっ?」
 青年の言葉の真意が掴めず混乱していると、王が「うんとこしょ」と勢いよく腕を振り上げた。つられて背中から転がる僕。水飛沫を上げ、弧を描きながら甲板に叩き付けられる……白い亀。
「わぁお鍋ですね」
 僕の腹に倒れ込んだ王が、僕を気遣うより先に起き上がってそんなことを言う。後頭部を強く打ったことで吹き飛んだ眼鏡を手繰り寄せて掛け直しながら僕も起き上がると、見間違いではなく海亀ほど大きな白い亀がそこにはいた。
「ねえおまえ、亀は捌けますか?」
「いや、どう考えてもヤバいやつじゃんって」
 逃げようとする亀の甲羅を、パーの手で甲板に押さえ付けながら王が振り返るので、思わずそう指摘する。この国の白い生き物になんて、関わっても碌なことがない。例えそれが瑞獣でもだ。
 王に離してあげてと繰り返し懇願していると、冷たい目でこちらを見つめていた青年が徐ろに口を開いた。
「うちになんの用ですか?」……どうやらそれは亀に対して投げ掛けられた言葉らしく、それを聞いたらしい亀が「ひぃ」とか細い悲鳴を上げた。明らかに言語を操る生命体の発声である。
「いや、ここいらは気温が低いから涼みに来てるだけで」
 亀は言った。よく見ると、隻眼である。
「黄河はあっちでしょう。アンタが来ると縁起が悪いから早いところ帰ってくれませんか」
 船頭の青年は櫂を置いてこちらにやってくると、王の手から亀を取り上げた。亀は怯えた様子で、バタつく手足にも力がない。
「い、いいじゃん! たまにはさ! 別に洪水起こすつもりもないし!」
「どうせ薄着の女人に引き寄せられたんでしょう。もう生贄の時代じゃありませんよ」
「生贄じゃなくてもさ、乳のデカい美人がいたら近くで見たいじゃん。凄かったよぉ、水中から見上げるおっぱい」
 亀の言葉に、青年は僕に含みのある視線を投げ掛けた。その意を汲み取り、僕は頷く。すると彼は砲丸投げの要領で振り被り、角度と勢いをつけ、思い切り亀を投棄した。叫ぶ声がみるみるうちに遠ざかり、そしてぼちゃん、と水に落ちた音がする。それを確認した青年は、櫂を拾い上げると再び舟を漕ぎ出した。
「……あれは?」
河伯かはくのジジイです。黄河から出てくるなって言ってるんですが」
 河伯。黄河の仙人で、神でもあり、若い女の生贄が得られないと洪水を起こす。沙悟浄という名は広く知れ渡っており、僕も劇や映画で観たことがあった。
「……慣れてるみたいだね、喋る亀に」
 少し警戒しながらそう問うと、青年はああ、と呟いてから答えた。
「代々この仕事をしてると、水の妖魔やら神やらと縁があるんですよ。じいちゃんのじいちゃんの、そのまたじいちゃんの代からやってるし、小さい頃から話も聞いてました。だからお兄さんたちのことも平気ですよ」
 どうやらとっくに人間ではないと見抜かれていたのだろう。稀にこういう人間や一族がおり、彼らは等しく口が堅い。その理由が触らぬ神に祟りなしという教訓からなのか、交流を温めた結果なのかは解らないが、後者であることを祈る。優しくドライな彼の態度に敬意を表して「そりゃどうも」となんでもないふうに肩を竦めた。
「終点から街の方にバスが出てるんで。早く着替えさせてあげてください」
 そう言った青年がどこか落ち着かない様子で目を逸らすので、振り返って王を見る。プールで遊んだ子犬のように無垢な濡れ鼠がそこにいたが、あろうことか白いブラウスが透けて青いレースの下着がくっきりと浮いていた。
「僕が投げたかったなぁ、あの出歯亀」
 後悔を口にしながら、王に背を向けさせその身からブラウスを剥ぎ取ると、ハンカチで素肌の水気を拭って僕が着ていたシャツを着せてやる。肌着のシャツ一枚では川風は寒く、くしゃみが出そうだったが、決定的な刺激が足りず不発に終わった。

 街の中心部に位置している、大飯店を冠したホテルに到着すると、先ずは王を風呂に押し込んだ。本来ならチェックインをする前に街をぶらつき食事を摂りたいところだったが、流石に濡れたままでは王が可哀想なので致し方ない。元はと言えば王のせいではあるのだが、自業自得で濡れてしまったことと、濡れたせいで寒くなってしまったことは別の問題として捉えるべきだ。
 僕も寒かったので王と一緒に風呂で温まり、上がって髪を乾かしている最中に王が眠いと訴えてきたので、ふたりで仮眠を取る。アルマジロのように丸まった王の薄い腹を後ろから抱きながら眠ったはずなのに、目覚めると王は仰向けの僕の胸に突っ伏して寝息を立てており、つい愛おしくなってその羽毛のように濃密な睫毛に触れた。この寝顔に何度救われたことだろう。その旋毛の辺りにキスをして、うつ伏せでは胸が苦しかろうと僕の上から下ろしてやる。すると王はうんうんと呻きながら薄目を開くと、ぐずぐず丸まったり、猫の香箱座りのような体勢を取ったりしたあと、ベッドから滑り落ちるようなかたちで起き上がった。
「亀の夢をみました……」
 王は瞼を擦り、ちいさな声でそう言った。
「縁起がいいんじゃない?」
 亀の夢は吉夢だと聞いたことがある。
「えっちなことをされそうになる夢でした」
 王はさらりとそんなことを報告して僕の心をざわつかせるが、本人は深く気にしていなさそうに甘い欠伸をする。
「……参考までにどういうことをされそうに?」
 黄河にまで異議申し立てをしに行ってやろうかと、苛立ちを腹に蓄積させ、あの出歯亀の住処に何を撒くか決めるより先に、そんなクエスチョンが口から飛び出した。我ながら俗欲に塗れている。
「されてないですよ。断ったので。断らないと、おまえが泣くと思いまして」
「あ、その辺は理解してくれてるのね」
 そして王が僕の頭を撫でるときの雰囲気で寄って来るので、恐縮の心地で頭を垂れれば、王は「グッドボーイ」と僕を褒め、やわらかく撫でてくれる。その動機はわからないものの、嬉しさと心地好さに黙り込んでいると、王は僕の頭を撫でるのとまったく同じ動きで自らの薄っぺらい腹に触れた。そんな優しい動きでも、母体が胎児を慈しむような姿とは全くリンクしないところが、王らしい。
「腹のなかがからからです」
 どうやら空腹だと言いたいらしい。
「お腹空いた、って言うんだよ。そういうときは。カラカラは……喉が渇いたときかなあ」
「ナカ、スク。ふむ。確かにスク、な気がします」
「そうそう。覚えてね」
 顔を上げ、今度は僕が王の頭を撫でながら、そんな穏やかなやり取りをしていると、唐突に喉がぎゅっと詰まった。言語化よりも先に身体が反応し、喉の不全に加えて心臓が小石のように縮こまったこともあって、なかなか声が出せない。その認識と肉体のラグを利用して、考察する。今僕が傷付いたわけを。
「あー……そっかぁ……そうだね。……そうだねぇ」
 しかし苦労して口から発したのはそんな意味を成さない言葉だけで。王のちいさな頭を撫でていた手を肩まで滑らせると、その棒のような身体を抱き寄せ胸に収めた。僕の唐突な抱擁にも大人しくしてくれている王は、不思議そうに僕を見上げ、その透明な睛をくるくるときらめかせている。
「お腹空いたって感じたら、いつでも言っていいからね」
 僕の手が震えていることを察したのか、王は僕の腕の中から手を伸ばし、いま一度僕の頭を撫でると「ナカ、スキました」と覚束無い口調で言った。そして「この国の言葉ではなんと言うのですか?」と続ける。
「ウォーウーラ……だよ」
 検索したままの発音を、王に伝える。我餓了。文字にすると、王に照らし合わせてしまえてなおのこと苦しくなった。
「ウォー、ウー、ラ」
 餓の部分の発音が難しいのか、王は何度か繰り返すと、やがて納得した様子で僕に笑顔を向けた。
「ウォーウーラ、です。ラドレ」
 花のような笑顔。王は、餓えていても笑う。
「そうだね、ご飯食べよっか」
 もっと早くこの言葉を教えてあげられればよかった。酷い時間差で発現した後悔がもう二度と消えないことを悟り、そしてこの痛みが二度と引かないことを祈りながら、王の肩を叩いて着替えるよう促す。

 小厨の名の通りに控えめな佇まいの食堂に入ると、カウンター席に座り羊肉燴麺ヤンローフイミェンをふたつ注文する。そして椅子が回ることが嬉しいのか座面をくるくると回転させて遊び始めた王にやめるよう注意していると、目の前の厨房から大きな殴打音が響いた。見ると麺の生地を板に叩きつけて捏ね始めた店主の姿が間近にあり、彼は捏ねたあと輪状にした生地を手で引き裂くようにして伸ばし、また引き裂いて伸ばしを繰り返して、ただの小麦の一塊を何本もの極太の平麺に誂えていく。その見事な手捌きには年季が入っており、まるでひとつのショーのように計算し尽くされ、無駄がない。王も彼の職人技に感心したのか、控えめに手を叩いて喜んでいるようだ。
「兄ちゃんたち、旅行かい」
 製麺が落ち着いたのか、中華鍋を火に掛けながら店主は言った。深い赤色をしたエプロンにしっかりとアイロンが掛けられているところから彼の気質が窺えるようだ。
「はい。国内を回って色々食べようかと。この辺りでは燴麺フイミェンが有名と聞きましたので、レビューを見てこちらに」
「ほお。それは光栄だね。確かにここら辺の……ソウルフードと言っても良いかな。軽すぎず、重すぎず、三食いつでも食べられるのが燴麺さ。ビャンビャン麺と間違われたりもするがあっちは汁無し、こっちはスープ。やっぱり飯は温かくないとな」
 そう言って店主は、温まった中華鍋に具材と調味料を入れて炒め始めた。鍋にちゃっちゃと放り込まれて行くのは、キクラゲや細切りの押豆腐、あとは時間差で青菜だろうか。そこに寸胴からスープが注がれ、じゅわりとひと際大きな音が立つ。そして先程延ばした麺が放り込まれたことで、スープに小麦のとろみが生まれるのが見て取れた。これは熱そうだぞ……と喉を鳴らしている僕のに見せ付けるようにして、ダメ押しとばかりに他の料理で使うであろう茹で麺機の上で温めてあった麺鉢に、熱湯が注がれる。それから丁度麺に火が通ったであろうタイミングで麺鉢から湯が捨てられ、代わりに中華鍋からスープが注がれた。そのつるりと滑らかに具材と麺が青磁色のステージに滑り込むさまは、美しい。なにもかもが計算し尽くされた動きをしている。続いて羊肉の塊がサービス精神たっぷりに盛り付けられ、最後に一掴みのパクチーが散らされた。その瞬間、料理としての香りが立ち上がってくる。
「スープは甘粛から仕入れた羊を半日以上炊いて、しっかり臭み取りをして作ってる。牛肉燴麺用のスープもあるんだが、やっぱり俺にとって故郷の味と言えば羊だね」
 そう言いながら、熱さをものともしない歴戦の勇士の手が、存外に優しく僕と王の目の前に麺鉢を置いてくれた。旅行客向けの挨拶なのか、最後にエンジョイ、と笑顔で言った店主が、他の客から飛ばされた新たなオーダーを遂行しに厨房の奥へと潜って行く。その背中を見送り、王に箸を渡すと、持ち方を整えてやってから自分も箸を手に取った。先ずはレンゲで白濁したスープをひとくち。眼鏡が曇る。とろみがあり、予想通りかなり熱いので、傍らの王に「ふうふうしてね」と声を掛ける。
 麺にはかなりコシがあり、幅広なこともあって少し食べにくいが、一口あたりの満足度が高く、一定のペースを保って食べ続けないと直ぐに満腹になりそうだった。盛られた羊肉もほろほろと柔らかく、確かに臭みはないが羊を満喫しているといえる芳醇な香りがする。野趣のある肉を食べているこの感じを、特に王は気に入ったのではないかと傍らを見遣ると、案の定そのちいさな口に肉をぐいぐいと押し込んでいるところだった。
「お肉は逃げないよ」
 がちゃがちゃと大変なことになっている箸を直してやりながらそう声を掛けると、王は肉塊をごくりと飲み込んで「死んでいるから逃げませんね」と相槌を打った。
「う、うーん……そうなんだけどさ?」
「わたくしは普段死肉を喰らいませんし、贄は生きたままいただきますが、それはそれとして屠肉とはとても尊いものですね。肉の硬さが違う気がします」
 その言葉に、王が普段使いするのが英語でよかった……と辺りを見渡しながら「そうですねえ、王」と頷いた。
「昔は雰囲気を察して賢い家畜が涙を流したりしていたみたいですが、今は技術が進んで本当に眠るように……処理できるとか」
 命を頂くことに関する議論はいつまででも続けるべきだと思うが、人間社会におけるそれに王が関心を引かれるとは思わなかった。この家庭的な食堂でするには物騒な話ではあるが、その意識がある程度明瞭なときにしか聞けない貴重な『王の言葉』なので付き合うことにする。
「それは素晴らしいことです。食べるための狩猟も屠畜も等しく神聖な行為ですが、苦痛を和らげる試行錯誤は大切ですね。ヒトの子、偉い偉い」
 王は、喰らう。殺して喰らう。喰らうために殺す。だから殺しに躊躇いはない。しかし加害され反撃するとき以外……特に贄を喰らう場合は、極めて穏やかにそれを遂行するのだ。稀に発生する交尾の失敗に伴う殺害については……アクシデントとしてカウントするべきだろう。オンだろうがオフだろうが、王は基本的にいつだってお優しいのだから。
 あるとき、王は「これは毎日やらなくてはならないのですか」と生贄の喉笛を噛み切ったあと、血塗れた真っ赤な唇でそう問うてきたことがある。その問いはおそらく僕個人に向けられたものではなかった筈だが、一番近くにいた僕が「その玉体を維持するためです」と真面目ぶって答えると、王はただ「そうですか」とだけ言って捕食を続けた。
 糧というただそれだけの範疇を超え、美食という概念すら生み出した雑念の多い料理というもので使われる無数の命と、かつて王が毎日真正面から向き合っていた一個の命。この差を王がどう考えているかは、僕如きが察するには余りあるが、王のような存在にとっては塵にも同じであろう下等生物たちの命を、実のところ尊重していたのだということは解る。醤油煮のフグ一尾。細かく刻まれて何食分にもなる牛一頭。匙の上の貝一粒。王に喰われるのだからと祈りの形で蹲っていた贄。……その差異について、僕は答えられない。
 いま僕が王を連れ回して料理なるものを食べさせていること、ひいてはヒトの食性について、王は『文化』として理解しているらしく、口出しも駄目出しもしないし、柔軟に楽しむ姿勢をみせているが、ひょっとしたらとんでもなくグロテスクなことをさせているのではないかと危惧しないこともない。しかし、僕だって人間ではない。結局は縄張りを弁えることしかできないのだから、ただ一点明確に赦されている『目の前に出されたものを喰らうこと』をひたむきに成すだけだ。
 レンゲの上で麺を畳むのにも慣れた頃、王が「これはなんですか」と卓上調味料の小壺を指差したので、貼ってあるテープに書かれた文字を読み上げてやる。
「胡椒。醤油。黒酢。辣醤……は、辛いやつだね」
「これはなぜここにあるのですか」
「料理に入れて、味を付けたり変えたりするんだ」
「勝手に味を変えていいのですか」
 なるほど。だから以前フィッシュアンドチップスをそのままで食べようとしたのか……と今ここで気付く。おそらく料理人が提供したそのままで食べなくてはならないと無意識に思い込んでいたのだろう。
「これがここにあるってことは、いいってことなんじゃないかな」
 すると王は睛を輝かせ、小壺のうちのひとつを手に取った。
「ちょっと待って。それ爪楊枝」
「ツマ、ヨー、ジ」
 紙ナプキンのことは理解していそうだが、爪楊枝はわからないらしい。しかし王の鋭い牙には必要なさそうなものではあるので「食べ物じゃないよ」とだけ答えて、その手から爪楊枝入れを取り上げた。
「今食べているものをどうしたいの? なにが足りないか、なにが欲しいか、考えてみて」
 すると王はふむ、と喉から思案の音だけを発して黙り込んだ。その真面目な横顔はいつだって可愛らしい。
「……これは五味のバランスがとても良いですね。非常にハオチーなものです」
「そうだね。僕もそうだと思う」
 頷きながら、案外王は味覚が敏感なのだということを察する。どうやら食べる際に特に文句を言ったりしないだけのようだ。
「なので、知らないものを試してみたいです。胡椒は、知ってます。醤油も、わかる。黒酢は……酢、となにか違いますか?」
「原料が違う。米酢との比較になるけど、米酢は精米。黒酢は玄米だ。味が違うかもね」
「辣醤とは? 辣油、と違いますか?」
「醤は……そうだね。ペーストみたいなもの。油とちがって発酵食品だね」
「では、黒酢と辣醤を入れます」
 そう言って、王はそのふたつの小壺を手元に引き寄せた。先ずは黒酢の蓋を開け、黒い……と当たり前のことを言って僕を笑わせる。
「ちょっとずつね」
「ちょっとってどのくらいですか」
「あー、うーん……匙が入ってるでしょ。取り敢えず一杯ずつ試したらどうかな。それで足りなければ足せばいいよ」
 僕の言葉通りに王はそれぞれひと匙ずつ調味料を足すと、スープに軽く溶いてから麺を乗せたレンゲを口にした。すると王の眠たげな瞼がぱっと開く。
「どう?」
「さっきよりハオチーです。ん? いえ、さっきのもハオチーで、これもハオチーなので、ハオチーなことは変わりませんね……つまり、何か入れてもカワラナイ……?」
 王のその真面目な分析が面白くて、お茶を飲んでいたのをつい噴き出しそうになってしまう。心の内で頑張れ、頑張れ、と応援しながら次の言葉を待っていると、スープをもうひと口飲んだ王が言った。
「ああ、なるほど。どちらもハオチーですが、こちらのほうが、わたくしはスキ、です」
 王の個人的な感想に、つい浮かんだ「よくできました」という浅はかな言葉を声にすることはできずに、ただ微笑んで頷くことしかできない。しかしこれは会心の一歩だ。世の中には好き嫌いで選ぶことができるもの、選んでも良いものがあるということを、どこかのタイミングで思い出してくれれば上々だ。
 唐突に、王はひとり沁み入っている僕の眉間に触れると、なぜか親指でそこを撫でてきた。どうしたの、と問い掛けると、王は真面目な顔で答える。
「おまえはたまに、ここがぎゅっとなります。怒っているのですか」
「ここはねえ、怒っているとき以外にもぎゅっとなるんだよ」
 レジで会計をしていると、客入りが落ち着いたのか厨房から店主が顔を出した。コードを読み取り電子マネーで支払いをしながら、今日は川下りをしてきたということや、明日は省都を目指すことを話すと、彼は娘が駅構内で店を出していることを教えてくれたので明日はそこで買い物をすると約束する。
「この親父より商魂逞しく向上心のある娘でね。今や色んな駅やイベントに出店している事業家さ」
 そう言って店主はレジブース後ろの壁を指差した。大学の卒業式だろうか。アカデミックガウン姿の女性と、その隣で異様に身体を強ばらせた彼が写った経年劣化防止加工の瑞々しい写真が飾られている。
「苦労して大学にまでやったのに企業に入らんで飲食店なんざ……」
 その言葉の端々や、写真には父娘ふたりのみということから、二人家族なのだと察する。男手ひとつ、ということなのだろう。だから彼はこんな得体の知れない旅行者相手にも宣伝を欠かさないのだ。
「だからこそなんじゃないですか。複数店舗をやり通せてるなら才能もあるみたいですし」
「かなぁ。だといいんだけどなぁ」
 言いながら、彼は置物の壺に興味津々な様子の王を見て目を細める。親という生き物にとって、子と似たような年頃、或いは歳が下に見える個体は皆我が子のように思えるらしく、視線に気付いた王が彼に向かって「ハオチー、シュエシュエ」ときらきら手を振るのを見て昔を懐かしんだ様子でいる。
「似てますか」
 僕が問うと、店主は「いんや」と首を振って「似ちゃいないが、やっぱり若い子は自分の子みたいに思っちまうよなあ」と続け、それから王に棒に刺さったキャンディの包みを手渡すと、その顔がぱっと明るくなるのを見て再び破顔した。実のところ王は彼よりもずっと歳上の筈だが、勿論それは黙っておく。人間年齢に換算すればまだまだ年頃の若い子のようなものだろう。
「ほい。アンタにも」
 店主は僕にもキャンディを渡してくれると、そういう歳ではないと言いたい僕の視線を察したのか「娘には彼氏がいるみたいなんでな」とはにかんだ。
「練習ですか。ケッコンノゴアイサツ、の」
「馬鹿言え。まだ分からん。まだ分からんさ」
 僅かに鼻息を荒くする男親の姿に、つい苦笑が漏れる。僕を娘の彼氏の枠組みに入れてくれたことは嬉しいが、どちらかと言えば僕は彼と同じ保護者の目線であることが多い。娘が結婚? ……どこか許せない。信じ難い。まだ分からない。
「アメで懐柔できそうですか?」
 僕の問いかけに、彼はそうであってくれという希望と、相手だって大人の男だという悟りが混在した、怒り泣きのような顔で答えた。
「まだ……分からん」
 キャンディは店を出たところで王にひったくられ、その小さなポシェットに押し込まれた。

 一口美味とプリントされた紙の包みに入れられた餡餅シャーピンをふたつ持って、高速鉄道に乗り込む。朝早くだったが昨晩教えてもらった店は開いており、抜群に空腹を刺激する香りを駅構内に漂わせていた。肝心の娘はガラス張りの厨房でせっせと生地に餡を詰める作業をしていたので挨拶は叶わなかったが、来たるべきピークタイムに備えているその手捌きはあの店主によく似ていた。そしてその傍に堆く積まれた焼く前の商品が詰まったバットの塔からして、かなりの数が売れているようで、他人事ながら胸を撫で下ろしたのだった。
 指定席の窓際に王を座らせ、その隣に腰を下ろし荷物を落ち着けていると、王はもう待ち切れない様子で僕の手にした紙袋を顔を寄せ匂いを嗅ぎはじめる。野生動物のようだな、と思わなくもないが、事実王は人間社会の範疇外の存在だ。それを野生と定義するのもありだろう。
 辺りの席を見渡すと、平日だからか指定席の乗客は多くはないが、一部浮き足立ったような子どもたちの姿が見られたので微笑ましくて目を細める。どうやら車内販売を待ち侘びているようだ。昔、国内の鉄道内では飲食が禁止されていると聞いたことがあったが、今は規制が緩和されたようであちこちから弁当や軽食の匂いがする。これらは行楽や労働を象徴するとても尊いものであり、人の営みがそこにあることを証明するこの気配を僕は愛している。僕はヒトではないが、ヒトの中にいると孤独が薄れる気がして、できるだけその活気に触れていたいと思う。
 熱いよ、と声を掛けてから紙袋の中の包みを手渡すと、王は取り繕うつもりなのか「あちち」と真顔で言ってから包みを剥き、まだ湯気を立てている中身に齧り付いた。こんがりと焼き目のついた生地は油で照っており、王の唇を同じだけ艶めかせる。この国に来てから箸での食事が多かったからか、王はどちらかというと箸を使う必要のない料理が好みらしく、些か食い付きが良い。
「ハオチーですか?」
 一生懸命に食べている横顔に問うと、王は二度頷いた。口に物が一杯で喋れないのだろう。今のうちにと僕も餡餅を齧る。当たり前だが熱い。僕たちにとって飛び跳ねるような温度ではないだけで。小麦の生地は表面がカリッと仕上がっており、比較的薄地だがもっちりとしている。肉餡は餃子に似た味わいだが、若干の酸味があるので酸菜を使っているようだ。この酸味が却って肉の風味を引き立たせ、脂をすんなり受け入れさせてくれている。一枚と言わず二枚三枚ならぺろりといけそうだ。
 外の景色が見たくて鰻のようにうねる王の顎を捕まえて脂を拭いてやり、口紅を塗ってから解放してやると、すぐさま王は車窓に齧り付いた。景色を目で追っては、わほほ、と楽しそうにしているその狭い背中を眺めていると、そのうち王は飽きたのかそれとも単に眠いのか、僕の腕に額を擦り付けてきたので、顔を覗き込む。するとただでさえ眠そうな垂れ目がとろんとしており、残りの所要時間からしてあまり寝かせてやれないことを申し訳なく思いながら、ふたりの座席の間にあるアームレストを引っ込めて眠りやすいように姿勢を整えてやる。どこにいても眠るときは丸くなりたいらしく、いつの間にかヒールも脱いでいるようだ。
「……お腹空いた?」
 問うが、王はなにやらむにゃむにゃ言うだけ。
「ホテルに着いたら僕の血、飲む?」
 今でもいいけど、と付け加えると、王は僅かに首を左右に振った。流石にここでは嫌かと思いつつ、肩を摩ってやると、すぐに寝息が聞こえてくる。それを子守唄のように意識の中に溶け込ませた僕の呼吸も、次第にその静かな寝息に同期していく。

 今回は寝過ごさなかった。道中が短いことを意識していたからか、到着五分前に目を覚まして王を起こすと、未だむにゃむにゃ言っている王の手を引いて列車を降りた。流石は省都と言うべきか、他の駅とは明確に違う繁華の色がある。手に持っていたトランクを背負い、きちんとスマホを持っているか確かめるために王が肩から提げた小さなポシェットを開くと、突然中からカエルが飛び出してきた。
「嘘だろ……!」
「あっ、マイマイ」
 王が口にしたのはカエルに付けた名前……だろうか。
「マイマイはカタツムリ!」
 駅のホームにびたりと着地したその小さなカエルを慌てて捕獲し、外来種の持ち込み、環境破壊、といった言葉を幾つも頭に浮かべて肝を冷やしながらその写真を撮って検索をかけると、どうやらこの辺りにはどこにでもいる種らしく、安堵しながら改札へ急いだ。そして比較的規模の大きい植え込みにカエルを放してやり、バイバイと手を振る王に向き直る。
「王……せめて生き物はやめてくれないかな」
「死骸ならいい?」
「よく考えて?」
 これだからウェットティッシュが手放せないのだ。九十九パーセント除菌仕様のそれで手を念入りに拭き、王にも手を拭かせてからタクシーに乗り込む。運転手に行先のホテルの名前を告げると「チェックイン時間はまだだよ」と親切に教えて貰えたので、この辺りで時間を潰せそうなところはあるかと訊ねると、水族館、鴕鳥園、博物院の中から選べと言われ、少し迷ったが博物院へとお願いした。水族館も鴕鳥園も、王がなにかしらを捕まえかねない。
「ホテルへはあっちに一キロくらい歩いたら着くよ。バスもある」
 支払い時にそう教えてくれた運転手に礼を言い、タクシーを降りる。博物院はピラミッドのような四角錐に近い形をしており、その前で王と一緒にスマホのインカメラで頬を寄せたツーショットを撮って弊社のチャットに送る。すると「右要らない」「陛下のピースちっちゃくて可愛い」「眼鏡誰?」「陛下だけくれ」「良くて流刑」と、社長である僕に対して散々な態度の返信ばかりが続々と入ってきた。そしてすぐに僕だけが切り抜かれた写真が流される。そんな針の筵に「社長に対するハラスメントってどこに訴えればいい?」とコメントを打ち込んでいると、王が自分のスマホでも撮りたいのかインカメラを向けて来たので、シャッターを切る瞬間に頬にキスしてやる。しかし王は僕の唐突な接吻を気にした様子もなく、なにやらぽちぽちとスマホを弄っており、つまらないなと思いながら案内板の記載通りにウェブで観覧チケットを購入していると、スマホに通知が入った。見ると先程のグループチャットに、今撮ったばかりの写真が晒されている。滅多にここに顔を出さない王のアカウントで。 
「デジタルタトゥーについて教えないとね!」
 思わず叫ぶが、下手を打ったのは勿論僕だ。王には友だちがいないのでスマホ自体に僕以外の連絡先を入れていないが、弊社のチャットアプリには出入り可能な立場ではあるので、これを予期しなかった僕が全面的に悪い。僕が写真をアップロードしておいて、王は駄目だという理由がないのだから。
「左のかわい子ちゃんのチェキ全部下さい」「心做しか先程のものよりも画質が良いですね」「右側がぼやけて見えませんが左側は玉のように光っておいでです」「肌が潤う。エステ代浮いた」「流刑取り消し。あとはわかりますね?」
 全てに対して「わかる」……そう呟きながら、僕が送っていたのなら針の筵どころかもっと重い刑罰を下されていたであろう返信欄に、王からの返信が付くのを待つ。王は文字の打ち込みに四苦八苦しているようだったが、やがて羊の絵文字、ラーメンの絵文字、ニコニコ笑顔の絵文字が三つ並んだものがチャットに投下された。真っ先に誰かの悲鳴を表す弾幕のような文字列が投下されたところまでを見届けて、王と手を繋いで歩き出す。
「今度からチャットに写真をアップロードするときはお互いに許可を取ろうね」
「ふむ。よいでしょう」
 博物院の中で走り回られては堪らないと思っていたが、意外にも王は大人しく、相当眠いのだろうということが窺えた。管理された室内温度と湿度の中で微睡む王はまさしく出土品のような硬質さを湛えており、早く寝かすなり食わすなりをしてやりたいと思いながら文物や副葬品を見て回る。物凄く遠い未来、僕たちの軌跡からはなにが出土するのだろうかと夢想してみると気が遠くなるほど悲しく虚しく、考えたくないなと考古の浪漫をほっぽり出して王の息する身体に触れた。まだ温度があり、やわらかい。きっとこの先もずっと。

 チェックインを済ませると、なにより先にシャツを脱ぎ捨てて王を抱え上げた。腰を下ろしたダブルベッドは柔らかく、片手でフットスローを引き剥がしてテーブルのある辺りに向かって放るが、空気抵抗に減速し、床に落ちる。
 うんうん唸っている王の後頭部から髪留めを外してやると、頭頂部のあたりから流れていた毛束がしゅるりと重力に従って、ワンバウンドしてから大人しくなる。その瞬間、更に濃く花束の香り。その疲れているであろう頭皮を片手で揉んでやっていると、王は発光した睛でちらりと僕を見た。王が最後に「喰らった」のは、あの城塞を不法占拠していた吸血鬼プロトだろうか。そうなると経過時間からして魔力が尽き、料理だけでは補給が間に合わなくなって過度に眠くなるのも無理はない。コールドスリープ状態にならない限りはまだまだ放っておいても平気な症状だが、万一にそうなってしまうと僕がさみしくて堪らないので、早めに対策を打つつもりで王の口を指でこじ開け、僕の頸動脈の辺りにその獰猛な牙を押し当ててやる。しかし王はむにゃむにゃとなにかを言って一向に牙を差し込もうとはしない。元より王は僕の血を吸うこと自体が好きではないようで、毎回渋々といった様子でちびちび飲んでいるのだが、今回は眠気も相俟って可能な限りぐずるつもりでいるようだ。
「王、起きて。寝てもいいけど飲んでからにして」
「いらない」
「じゃあどうするの、狩りでもするの」
「しない」
「ずっとおねむだと僕、困っちゃうよ」
「困るのですか」
「困るよ。前だってさみしかったんだから」
「ふむ……」
「料理食べたいときでも、こっちの栄養が足りないときでも、お腹空いたって言っていいんだよ」
 ぞんざいな受け答えばかりをする王にそう言い聞かせる。これだけは確実に覚えて貰いたくて、僕の胸元を曖昧に握る王の手をそこから解いて握り締めると、王は絡んだ指を静かに見下ろした。羽扇のような睫毛が、どこから採光しているのか、睛とおなじ色の輝きをきらきらとその表面に纏わせている。
「ウォー、ウー、ラ」
 ただしい発音で、王は呟いた。僕は「そうだ」と頷く。
 王の身体が異様に細い理由は、成長期に満足な栄養が摂れなかったからだ。正確には、摂らせて貰えなかったというのが正しい。死なない程度に……という奴らの魂胆はすぐに察したが、死なない程度というものにも限度があるだろうと、あのとき僕は強烈な怒りを抱いたはずなのに、どうしてなのかつい忘れてしまっていた。そしてその陰鬱な熱を思い出したからこそ、王に腹の減り具合に関する語彙がなかった理由が、漸く解った。お腹が空いたと何千何億と感じていた筈なのに、王はそれを表現する言葉と、それを口にしていい自由を与えて貰えなかったのだ。
「僕はキミの騎士であり、非常食でもあるんだから。気にしないで吸いなよ。キミの望むものはなんでも用意してあげるのが僕の役目で生き甲斐なんだから。本当だよ。僕がキミへ向けた言葉が嘘だったこと、ある?」
 王は僕の肩に額を押し付け、首を振る。
「おまえは嘘は言いませんが、前にとんでもない我儘を言ってきたことは忘れてはいません」
「今それ言われるとなあ……」その尤もな指摘に鼻頭を掻き、続けた。「でもその我儘聞いて貰ってるんだから、キミはもっと僕に甘えて、我儘言って、迷惑をかけてもいい。僕たちは基本的にギブアンドテイクの関係で、主従を加味してもキミの我儘は足りないくらいだよ。そしてこれは我儘じゃなくて必要な行為だし」
 言いながら、王の唇の内側に親指を引っ掛けて、ピカピカの剣歯を剥いてみる。これは草食獣の歯・・・・・だ。美しい歯列だが、歪の産物だ。そのことを思うと、いつだって胸が苦しくなる。頼むからもっと好きに生きてくれと願ってしまう。
「好きだよ、王。愛してるよ。吸血しよう、ね?」
 僕が猫撫で声でそう言うと、王は観念したのか細く長く息を吐いた。そして新たな空気を吸うよりも早く僕を押し倒し、ぶつりと首筋を喰い破って、長い長い接吻のような吸血を。
「……ハオチーです?」
 問うと、黙っていろと言わんばかりに王のちいさな指の関節で僕の喉仏を刺突される。その衝撃に軽く咳き込みながら、王の背中に這わせていた右手で下着の留め具を外した。途端にほぐれて落ちる乳房が、僕の胸の上に、血溜まりのようなあたたかさで広がる。それからスカートの中にも手を差し込み、骨の感触の近いちいさな尻から薄い防壁を脱がせようとすると、その手を掴まれ制された。
「……おまえは手が早い」
 ぴしゃりと掴まれた手を放り投げられるが、めげずに手を伸ばしてしまう僕は、待ての成功率が著しく低い飼い犬だ。待ての概念は知っているが、それができるかどうかは、大変不義理なことにも、気分による。
「いやぁ、元取らないと」
 元、とは血液ではない。淋しいと思ってしまったことそれ自体だ。滅私なんてとんでもない。僕は常に僕のしたいことに従っているだけのエゴイストなのだ。
「逃げませんから待ちなさい」
 窘めるような声を発して吸血を続行する王の、ショート丈のサマーニットを捲り上げ、弛んだ下着を掻き分け掻き分け、外側でいちばん柔らかいところに触れる。そんな言うことを聞かない僕に痺れを切らしたのか、王は最後にじゅっと強く吸い付くと、起き上がってベッドの隅に放ってあったポシェットの中から可愛らしい柄の絆創膏を取り出し、僕の首筋にばちりと平手打ちのようにして貼った。見えはしないが、感触だけでぐちゃりと不格好に貼ってあることを察し、笑ってしまう。
 草食獣の組織をすり潰すことに特化した歯に噛まれると、肉食獣の鋭い歯による傷に比べて治りが遅くなる訳だが、王の一点集中の剣歯にもその要素は宿っているらしく、傷の治りが速い僕でも快癒までは些か時間が掛かる。元々、獲物を生かすことは生存戦略に組み込まれていないのだから当然だ。だからこうしてその都度絆創膏を賜るのだが、今日はどこかで不機嫌になってしまったらしく、貼り方が普段の数倍増しで雑である。
「おいで、王。ごめんね」
 絆創膏から出たゴミをきちんとゴミ箱に入れている王の腕を掴むと、王はむすりと不服そうな表情で捲れたニットを直そうとするので、慌てて引き寄せ抱き締める。
「ごめんね、ごめんね。しよ? したいな? ね?」
 我ながら雑な謝罪だなと思いつつ、頬擦りをしながら服を脱がせようとすると、王は僕の手を押し退け自ら服を脱ぎ始めた。

 事が済んだ瞬間に王がベッドから降りようとするので、咄嗟にその腕を掴んで「待って。ピロートークしよ、ね?」と縋り付く。王は、所謂賢者タイムの訪れが早い。明確に男性体である僕よりずっと。王にとっての元来の方法での交尾には性欲が伴わないのだから、誰かに挿入されるかたちの性交渉でもそうなるのは当然のことだろう。そのせいか王には全くと言って良いほど、イチャイチャしたいだとか、キスしたいだとか、下半身を使って繋がり合いたいだとかいう欲求がないらしく、常に僕と擦れ違っていた。多少なりとも欲があると仮定したとしても、少なくとも今まで僕に対しては開示されたことはない。いつだって僕からさせてくれと迫っている。
「ほら、ぎゅってしよ。ね? 好きでしょ?」
 まるで床上手の一点のみでヒモの座に君臨している情けない男のように、シーツの上で王を背中から抱き寄せる。以前好きだと言ってしまったがばかりに僕に連呼連発されることとなった「ぎゅうとされること」による逆襲を受けながら、王は苦しそうに呻き声を上げた。
「おまえはほんとうにしつこいですね……」
「性的に?」
「性的にも、です……」
「まあ自分では取り柄だと思ってますよ」
 血液に代替するほうの『元』を取ったので、我ながら栄養が行き届いて気分が良い。王もそのはずなのだが、どうにも事後は甘ったるい雰囲気にはならず、僕が幾らキスの雨を降らせても王は静物画のようにひっそりとそこに在るだけだ。しかしこれはいつものことで、いつものことだからこそ、この歪みがいつか取り返しのつかない事態を産むのではないかと危惧して、怯えを隠そうとするほどに王に対する感情が空回ってしまう。まるで壊れることが決まっている糸車だ。しかしどこでどんな異物を絡めとってしまったのか、それだけがわからない。王の肉体については詳細に知り尽くしているのに、その『知っている』とは単に自分の肉体の使い方を知っているというだけの虚しい勘違いなのではないかと、自覚してしまいそうになる。
 王は、僕にぎゅうとされることが好きだと言った。であるならば、なにが嫌なのだろう。なにをとりこぼしているのだろう。そういえば僕は王の嫌な物事をあまり知らない。知っているのは、砂のような歯触りの林檎が苦手なことくらいだ。
「王さぁ、僕のこと嫌い?」
 我ながら意気地のない発言であるが、どうしても喉から絞り出す他なかった。怯えながら、あるはずもないとわかりきっている断罪を待っていると、王は漸く僕を振り返った。
「いいえ。わたくしはおまえを大切に思っていますよ」
「それって好きってこと?」
「勿論です」
「愛してるってこと?」
「そういうことなのでしょう」
 禅問答。僕はどこにも至れない。
「どうして僕は王のお嫁さんになれないんだろう」
 呟くと、王は僕の頬を指の背でゆっくりと撫でた。この殆ど融け合っているような、ただ温もりだけがスライドしていく穏やかな感触を、真実と呼んで清濁併せ呑むには、僕の心はまだ獣だ。
「でもわたくしとおまえは、契約で繋がっているのですから、一緒にいるほかないのです」
 ああ、キミもどこにも至れないのか。僕はそこで初めて『僕たち』という存在の座標の定まらなさを知った。

「バカンスって言葉、知ってます?」
 ピアス型イヤホンを介したハンズフリー通話。朝市の喧騒。クリアな骨伝導。乱れない電波。テーブルに置かれたスマホ画面に映るアイコンの男は「いいですね、バカンス。私もちょいと釣りでもしにクロアチア辺りに行きたいですね」と、僕が言葉に含ませた毒を素通りし、惚けた様子で返事をした。嫌味の通じない図々しいタイプであることは知っていたが、それにしても朝七時に掛けてくるのはマナー違反ではないのか。
「アンタにもわかるように言い換えるとですね、仕事はお休み中ですよってことなんですよ。ご理解いただけました?」
 成体男性。会社経営。独身。扶養ではない同居人がひとり。そんな去年の所得税にはゲロを吐きそうになった僕だが、今は絶賛バカンス中の扱いであり、連絡用SNSアプリのひとことプロフィール欄には『電話をするな。メールにしろ』と大きめのフォントで記載している。
「お休みしていようとDMのポスティングはできますよね?」
 しかしながらこの害獣は、僕の都合などお構いなしに、こうしてしょっちゅう電話を掛けてくるのだ。まったく、迷惑極まりない。
「そのDMを郵便受け前のゴミ箱に捨てる自由が僕にはありますよね?」
「いやいや……想像してみてください。そのDMは一見、美味しそうなデリバリーピザのチラシ……ああ懐かしいな、ゼロ年代はこうだったなあ……」
「いや、誤認させるなよ。悪質だなあ」
 そう言いながら向かいの席で晶糕なる、糯米と棗のケーキ(読んで字の如く、屋台の老人は僕らに向かってこれはクリスタルケーキと言っていたが、見た目はかなり地味だ)をつついている王に視線を向けると、ニコニコ笑顔が返ってくる。どうやら見た目の飾らなさに反して美味いらしい。
「兎に角、お断りです」
「そう言わずに……」
 今僕と通話で攻防戦を繰り広げているのは、名々木雷蔵ななきらいぞうと云う名の雷獣……簡単に言えばハクビシンだ。彼はパートナーの妖狐と一緒に盗んだ本で書店を開いているおかしなブックシーフで、日々『本の魔女』の縄張りを荒らして回っているらしい。
「今日は朝から苛々してらっしゃるようですね。どうしました、ご主人にお相手して貰えませんでした?」
「いえ? 残念ですがうちは主従円満ラブラブでやらせて貰ってますんで」
 結局昨日は王にしつこく迫りに迫り、ホテルに篭もりきりになっていたのだが、栄養補給をしたとはいえ疲弊する程度には頑張ってしまい、そのうえ王も散々僕に使われて腰が痛いと訴え始めたので、仮眠をとったあと息抜きがてら朝市に繰り出した。そして何軒か買い物をし、イートインスペースに陣取って直ぐに着信音という形で邪魔が入ったと思えば、この営業電話である。要は本を出さないかという勧誘で、以前興味本位でどんな内容かと訊ねたところ「勿論やり手のラドレさんによるビジネス書も捨て難いのですが、売上を考えると王さんの水着写真集を」と言い始めたので通話を叩き切った。どこから僕の連絡先を入手したかは知らないが、全くもって話にならない。僕だって未だに王の水着姿は拝めていないのだ。
「切りますよ。僕は事前連絡無しで電話されるのが嫌いなんだ」
「では次回からはメールを差し上げた五秒後にお電話しますね」
「アンタ、僕に嫌がらせをするのが目的になってない? そんなんで営業上手くいくと思ってます? まだ入夏いるかさんのほうがマシだよ」
「失敬な。私が彼に劣っているとでも……」
 これ以上付き合ってやる義理は無いと、皆まで言わせずに通話を切る。着信拒否にしてやりたいところだが、妙に顔の広い連中なので後が怖い。
「お友だちですか」
 棗のペーストを生地に塗り付ける視線はそのままに、王が問うてきた。
「そんな訳ないでしょ。ただの営業電話」
 ひとくち頂戴、と王に甘えて寄ると、王は嫌そうな顔をしながらもスプーンの上に乗せたケーキを僕の口に入れてくれた。なるほど、行列が出来ていただけのことはある。棗の程よい酸味がもっちりと蒸された糯米にマッチしており、きちんとスイーツ然としていた。見た目は茶色と白だけだが、味わいは複雑で奥深い。
「もうひとくち頂戴」
「や、です」
 つん、とそっぽを向いて、王は膝の上にケーキの入った容器を抱え込んでしまう。それは独り占めしたいというより、僕の言うことを聞きたくないというのが理由のようで、その丸まった腰を撫でてやりながら「帰ったらまたする?」と囁くと、ひと際大きく「やです!」と拒絶の声が上がった。それがまるっきり予想通りの反応で、笑ってしまう。
「王はケチんぼだし、冷たいし、僕はひとりさみしくこっちを食べようかなあ」
 縮こまっている王に聞こえるように、幾らか声を張り上げながらテーブルの上のビニール袋を開け、プラカップを取り出す。未だ熱いその中には豆腐脳トウファオという、豆腐の上にとろみのあるスープを掛けたものが入っており、キツく嵌っている蓋を慎重に剥がすと、醤油ベースの餡の匂いに釣られて王がこちらを振り返ったのが解った。しかしそれには気付かないふりをして、一緒に買った揚げたての油条をスープに浸してかぶりつく。ジャクッ、と脳天に響くような歯応え。ホワイトペッパーの効いた醤油スープはどこか安心する味だ。そして王が先程より十センチほど近付いてきている。じわじわ、寄ってきている。
「あー、美味しいなあ。ハオチーだなあ」
 態とらしい声を上げ、視線だけ隣に向けながら食事を続ければ、魚はもう釣り針の間近だ。実のところ誘き寄せてケーキなり交尾権なりを強奪したい訳ではなく、ただ王の反応が可愛いからやっているだけなのだが、王は本当に慎重に慎重に、気配を消して、僕と触れ合いそうなほどすぐ隣に……。
「捕まえた!」
 王が更に距離を詰めて来るのと同時に、素早くその肩を抱き寄せ、膝に乗せてしまう。すると王はミオトニックゴートのように硬直し、少しの間の後「いじめです!」と声を張って僕を糾弾し始めたが、すかさず油条を手渡してやると「いじめです」の連呼は止まらないものの大人しくなった。通行人らが「朝からお熱いねえ」などと、こそこそ耳打ち合っているが気にしない。スープに浸した油条を夢中でぱくついている王の背中を抱きながら、ふとタスクを思い出しスマホを手に取った。
「ディナーなんだけどさ。水席ってコース料理が有名みたいだから食べてみたいなって思ってるんだけど、気になってる店だと三名からの予約なんだよね。料理のそれぞれは単品でも注文は出来るみたいなんだけど……」
 メモ帳アプリに控えていた店のウェブアドレスを開きながら王の手元を覗き込むと、王は紙カップの底に豆腐を見つけたらしく、油条で掘削してそのまま口に運ぼうと試みているようだった。しかし何度も失敗している様子で、眉間に皺を寄せ真剣な表情で豆腐と格闘している。
「ふむ。おまえはフルコースが良いと。ならわたくしがたくさん食べるからとお願いするのは?」
 それでも僕の話は聞いてくれているらしく、王は可愛らしい提案をしてきた。沢山食べている王を想像するだけで口元が緩む程度には、僕は王の食事する姿が好きだ。たとえ所作が不器用だとしても。
「たくさん食べるから規定人数以下で入れてくれっての、一見さんじゃ無理じゃないかな」
「なにを。わたくしはぱくぱくもりもり食べますよ」
「それは知ってるんだけどね」
 そんなやり取りをしながら、未だに豆腐を口に出来ていない王を見かねてビニール袋の中からプラスチックのスプーンを取り出してその手元に置いてやるが、王はどうしても油条で掬いたいらしく、悪戦苦闘を継続する。
「では私が同行する、というのはどう?」
 ふと、そんな声がして顔を上げる。見ると、ワンレングスの長い黒髪を一纏めにポニーテールにした、秀でた額の美しい女がビニール袋を片手に隣のテーブルに腰を下ろすところだった。
「私も水席が好きなんだけど、人を集めるのが毎回億劫で」
 濃いパープルの派手なパンツスーツの似合う、すらりと脚の長い女だ。強気なヒールのパンプスは拷問器具のようだが、そんな物騒なものを忍ばせているとはパッと見でわからないほど、キャリアウーマン然とした雰囲気を纏っている。これから出勤だろうか。
 女はビニール袋から油条と、豆乳スープと思しきものを取り出すと、油条に齧り付いてその表面を平たく整えてからスープの具材を掬って見せた。それを見た王は「おお」と声を上げると、同じように油条を齧ってから豆腐を見事掬い上げ、それが成功したことが余程嬉しいのか睛を輝かせた。そして女を見て「シュエシュエ」と礼を言う。
「可愛いわねー。ブークァチー。……で、お兄さんどう? 水席の話」
「有り難いお申し出なんですけど、見ず知らずの方に甘える訳には……」
「じゃあはい。これで見ず知らずじゃなくなるでしょ」
 そう言って女は鞄から名刺入れを取り出すと、中から一枚抜いてまるで友人同士でコミックの貸し借りをするかのような乱雑な手付きでこちらに寄越した。どことなく良い香りのするそれに目を落とせば『株式会社 ルオヤンムーダン 代表取締役社長』との肩書きが記されている。
「お名前は……ジャオさんで宜しいですか」
「だいたい合ってる。発音はジとヂの間ぐらいなんだけど、外国人の舌には難しいでしょうし、細かいところはいいわ。で、貴方たちは?」
 自己紹介を促され、相手は明らかに人間なので少し躊躇ったが、意を決して懐から名刺を取り出し、渡す。
「僕はラドレ。こっちは……王、と呼んでいます」
「ふぅん。貴方も社長さんなんだ。よろしくね。王ちゃんは……妹? 彼女? それとも会長?」
「……会長、ですね。一応」
 遠目が利いて仕事のできるタイプだと見当をつけてはいたものの、まさか瞬時に見破られるとは思わなかった。目が泳ぎそうな予感があったので、名刺に今一度視線を落とす。照という名の通り、看破に長けているようで、人に擬態している身としては少し恐ろしい。
「じゃああれだ。節税対策だ」
「それもまあ、無きにしも非ず」
「……ああ、この子交渉事に滅法強そうだもんね」
「わかるんですか?」
「見たらわかるじゃない。胸が大きいのは王の器だからよ」
 胸。思わず王の立派なそれに視線を向ける。体型に不釣り合いなほどのものをお持ちだが、確かにこのサイズになったのは王が戴冠をしてからだと記憶している。そして彼女の言う通り、王はスイッチが入ると交渉事には嘘のように強くなるのだった。その場を動かす力はまさしく天賦の才と呼ぶべきものであり、「王である」という、ただそれだけで発現できる簡易なものではない。しかしそれを初見で察するとは、この女は只者ではない。彼女は「王だから」ではなく「王の器」と的確に形容したのだ。
「おまえ、彼女の申し出を受けなさい」
 それまで静かにしていた王が、徐ろに口を開いた。
「え、いいの?」
「親が黒言うたら黒。白言うたら白じゃ」
「ねぇ王、最近サブスクで変なの観てない?」
 唐突に王の口から飛び出した日本語の関西弁のイントネーションに思わずそんな指摘が口を衝く。日本の強面のお兄さんたちがシノギをどうこうする物騒な作品でも観ているんじゃないかと心配になるが、のちほど履歴を確認することにして、王の陰からジャオに向き直り「先程の話ですが……」と切り出す。
「いいって言ってくれたんでしょ? オッケー。じゃあまた後で連絡するわ」
 僕が王の言葉を意訳するより早く、ジャオはスマホを振りながらそう返事をすると、空になった容器を一纏めにして店のゴミ箱に放り込んで行ってしまった。どうやらバカンス中の僕たちとは違い、彼女は忙しいようだ。
 王に僕の朝食を食べられてしまったので、朝市の終盤で安くなった手抓餅(クレープのようなものだ)を買って食べながら歩いていると、先程から矢鱈とそわそわした様子の王が「あのですね」と控えめに、しかし妙に軽快に切り出してきた。そちらに身体を傾けるようにして、なあに、と返事をすると、王は僕の手を取り、くるくると指で掌を触ってくる。これはお願いがあるときのモーションだ。
「可愛いドレスを着ていきたいです」
 そう言って、王はなにやら照れた様子で僕の肩に側頭部を押し付けてくる。
「え、なに。王は元から可愛いじゃない」
 唐突過ぎるお願いに混乱しながらそんな反応を返すと、王は頭を左右に振った。そしてぐずぐずと甘えた様子で、しかし口では「ワレェ、親の言うこと聞けないっちゅうんか」などと言うものだから、口直しに飲んでいた茶を地面に与えそうになる。
「キミ、なに会の会長さんなの」
「かわいいおはな会じゃボケェ」
 口調の割に、随分と可愛らしい組織名である。
「そっかあ。うちの会社はフロント企業なんだね」
 弊社のオフィスに『かわいいおはな』と書かれた代紋が掲げられているのを想像し、思わず笑う。確かに面子からして反社会的勢力のように見えなくはないだろうが、如何せん業務内容も見た目も可愛くないし、当然ながらお花のようでもない。
「おまえはカシラ、です」
「オヤジ、可愛いドレスは構いませんが、理由は聞かせちゃもらえませんか」
「さっきも言うたやろ。親が黒言うたら黒。白言うたら白じゃ」
「そこ教えてくれないんだ」
 王が乱暴な言葉を覚えるのは嫌だが、この様子からして相当嵌っているようなので監督によってはこの系統の作品を観るのはアリかと思い直す。監督によって、というのは暴力描写の手が込んでいるかそうでないかを選別するという意味だ。たまに恐ろしく理不尽で痛々しい描写を得意とする者がいるので保護者としては気が抜けない。
 その後もしばらく王の小芝居に付き合い、スジがどうだのケジメがどうだのという物騒な言葉を交わしながら、朝市のあったレトロな市街から唐突に近代的な街並みに抜けたのを不思議に思いつつ歩く。この国には中間というものがないな、とずっと気になっていたことを改めて感じ、聳える摩天楼を見上げれば首が痛い。まだ所感と異なる地域を訪れていないだけかもしれないが、この国は大自然、田舎、大都会の三つで構成されている印象があった。
 スマホでブティックを探すと、百貨店に『FM』が入っていることが確認できたので、王と手を繋いで店に入る。会員証を翳し、黒を基調とした店内を進み、ドレスコーナーにて「どうぞ」と声を掛ければ、王は上機嫌で吊るされたドレスを一着一着手に取り品定めし始めた。
「サカヅキ、サカヅキ、ゴブのサカヅキ」
 鼻歌まで歌って、相当に気分が高揚しているらしい。
「五分は駄目だって。後々困るって」
「ナナサン」
「検討の余地あり」
 僕たちの服は基本的に『鏡の魔女』に仕立てて貰うことが多いが、次点でよく利用するのがこのFMこと『Fallen Museum』だ。初代デザイナーの椿屋霧雨つばきやきりさめが息子に代を譲って久しく、今や彼のデザインしたものはプレミアム価格で取引されているが、息子の幻日まほろび氏が作るものも負けてはいない。一貫して、どんなデザインのものでも動きやすいのが魅力だ。あとは店舗スタッフが全員同族なのも入りやすい点のひとつとして挙げられる。
「おうカシラ。これはどうじゃ」
 ドスを効かせたつもりであろういくらか低い声で言いながら、王はドレスを身体に充てて僕の前に進み出てきた。タイトなデザインで好みだが、胸元がばっくりと開いているのが気になる。気になるが、パートナーのスカート丈や露出度をガミガミ言うような男にはなりたくなくて、乳を出すなとは言えずに頭の中の語彙を掻き回し、必死に適切な上澄みを探す。
「……涼しすぎないかな」
「そうですか?」
 僕の感想に王は首を傾げると、今のドレスをラックに戻し、別の一着を手に取った。
「これは?」
 王が次に手に取ったのはロマンティックなデザインの一着で、ロリータ魂を感じさせるこれは見たところ椿屋霧雨デザインの復刻だろうが、これも胸元が開放的だ。個人的には王に買ってやりたいが、これは流石にふたりきりのときでないと着せられない。
「似たようなのが、あった……気がするなあ」
「むん……そうですか」
 王が消沈しているのを見て、胸が痛む。乳が出ているからなんだと考えを改めるべく色々と想像を巡らせてみるが、自分が許容できる谷間の深さが相当浅いことに愕然とする。わかっている、王に色気を振り撒きたいという欲求がないことくらい。わかっている、世の殆どの女性が露出に対し「可愛いから」以外の動機を持っていないことくらい。しかしいくらわかっていると並べ立てたところで、ただの独占欲由来で間接的にも王の自由を奪おうとした僕は最低なのではないか。そう自覚した途端、心を入れ替えるべきだという清らかな熱風が心に吹き荒んだ。僕は心の広い平和的な騎士になるのだ……そう決意しながら王を振り返ると、鏡に向かっていた王は「これはどうですか?」と僕に笑顔を向けてくれた。
「おまえが気にしているような部分は無いと思うのですが」
 バレていた。赤裸々に。元気に泳ぐ目を強く閉じ、それから見開くと、王が手にしていたのはグルジアのアークリグに近いシルエットのドレスで、よく見ると襟元がチャイナカラーになっている。ハリと光沢のある素材と透ける柄が上品で、ロイヤルブルーが基調なのもあり、きっと王に似合うはずだ。
「よし、これにしよう」
 即断即決が成功への近道だ。所々を指定したサイズに詰めて貰い、会計をして店を出ると、王は更に機嫌がよくなったのか「髪、可愛くしてください」と言いながら受け取ったばかりのショッパーをぐるんぐるんと振り回し始めたので咄嗟に止める。王の力だとぶつけた場合に死人が出かねない。
「どんな髪型がいいの?」
「ええと、くるくるをきゅっとしてください」
 シニヨンだろうか。詰まった襟にきっと似合うはずだ。
 いいよ、と答えて手を差し出すと、王は僕の手を取って大きく前後に振り始めた。そしてサカヅキの歌を歌い始めるので「こっちが優位で頼むよ」と合いの手を入れる。

「やられた!」
 叫びながら痛恨極まりベッドに倒れ込む。
「アイツ絶対に変態だって!」もう一度、叫ぶ。
 ホテルに戻って王を着替えさせ、想像通りとても似合っていたので褒めそやし、髪をセットしてやろうと背中に回り込んだその瞬間、背中から尻の際どいところまでがざっくりと開いたデザインだということに気がついた。タグには『涼三角すずみかど復刻デザイン』とある。彼もまたFMの主力デザイナーだった男で、細身で鋭角なデザインを得意としていた。
「背中がすうすうします」
 王は呑気にその感触を楽しんでいるらしく、裸の背中にぺたぺたと触れながら笑顔でいる。この逆三角形のカッティングは見事だが、如何せん尖端が深すぎだ。
「すうすう、しすぎ、では」ぎこちない声が喉奥から漏れる。
「わたくしがよく着ていたドレスもこんなものだったかと思いますが」
 王が指しているのは王宮で着ていたもののことだろう。あれもまた、王にとてもよく似合っていた。
「あれはこんなに後ろ深くないよ。少なくとも五センチは。あと開いてるところの幅も三センチは違うね」
 当時から王の露出……もといセクシーポイントは目敏く見逃さなかったむっつり騎士の僕である。今の指摘は寸分の狂いもないだろう。
「でもあのドレスは胸が幾らか出ていたでしょう」
「あれはいいの! でもこれは後ろしか露出してないから余計に手を突っ込みたくなるでしょうが!」
「すみません、なにを言ってるかわからないのですが」
「これ絶対あの男の狙いなんだよな。アイツ本当にそういうところあるから」
 王を置き去りにしていることを自覚しながらも愚痴が止まらない。しかし似合っているものは似合っており、なにをどうしようと不可逆なので、無理矢理脱がせるという選択肢は無い。煮え切らないどころか吹き零れそうな気分を落ち着かせながら王の要望通りに髪をセットしてやると、ドレスとぴたりと噛み合って、それはそれは麗しかった。一層のこと神々しくもある。
「あーん。王可愛い。似合ってるよ。可愛いね、可愛いね」
 僕が甘い声で誉めそやすと、王は両手を腰に充てて胸を張った。
「ふふん。かわいい、ですか」
「可愛いに決まってるよ。僕の王だもん。なんでも似合うねえ。お写真撮ろうねえ」
 我ながら変わり身のはやさに驚くが、王の可愛さはすべてをオーバーキルするのだから致し方あるまい。弾むような心地が左右の肺の間から全身にあたたかく充満し、僕を満遍なくご機嫌にしていく。この、可愛らしさに蹂躙される感覚は気持ちいい。可愛いは正義と誰かが言ったが、実のところ可愛いとは秩序から掛け離れた暴力だ。暴力こそ原初の神性であり、奇跡など目ではない。その可愛さですべてをボコボコにしろ、と願う。滅ぼしたっていい。
 そのまま何枚か写真を撮り、後ろ姿と美麗な横顔を拘りのアングルで写したものをちゃっかりホーム画面に設定すると、同じものをメッセージアプリであの男に送った。「騙されたわ」と添えて。すると直ぐにこの作品を手掛けた偉大なるデザイナー様から「手、入れた?」と返信があった。
「ねぇ、王、ここに手、入れていい?」
 スマホをベッドに放り、覚えたばかりの自撮りをしている王の背中に近付き後ろから抱きすくめて問う。すると「どこにですか?」と上の空の返事。
「この開いてるとこから、ぜんぶ触っちゃいたいな」
「ぜんぶとは?」
「髪、崩れないようにするからさ……ね?」
 その瞬間、スマホが鳴った。鳴り止まないので、電話だ。
「なんなんだよもう! 今一番エロいとこだったじゃん!」
 露骨にがっかりしながら王から離れスマホを取る。見慣れない番号だ。ハンズフリーで応答すると「もしもし。朝市で出会ったいい女よ」とジャオのよく通る声がした。
「ああ、ジャオさん。お疲れ様です」
 仮にこれが某デザイナー様だった場合、僕は怒鳴り散らしていたかも知れないが、レディ相手なので怒りを鎮めてフラットな発声を心掛ける。
「電話でごめんね。今ネイルして貰ってて。ここしか時間なくて」
「ええ、結構ですよ」
「十九時に得宝子って店に来て。カジュアル過ぎない服なら入れるでしょう」
「うちの王がなにやら張り切って着飾ってますよ」
「あら。可愛らしいわね。じゃあ私もドレスアップしようかしら。じゃあまた後で」
 指定された店は僕が目星をつけていたところだ。彼女の言葉通りドレスコードがあったはずなので、クローゼットに近付きニューヨークの自宅のそれと接続してマオカラーのジャケットとパンツを引き出した。
「王、するなら今だけど?」
「しません」
 案の定、スマホでソシャゲをしているらしい王に背中で振られてしまったので、期待していなかったとはいえ苦笑いを浮かべながら着替えを済ませる。それから洗面所で前髪を上げ、髪を纏めて部屋に戻ると、僕の顔を見た王が手を伸ばしながら駆け寄って来た。その意を汲んで抱き上げてやれば、ふふん、と嬉しそうな声が僕の耳元を柔らかく擽る。
「なあに、王」
「わたくし、おまえのおでこが好きです」
 見上げた王は、花のように笑った。
「そうなの?」
「昔みたい。かわいいですね」
「昔の僕の方が可愛いってこと?」
「いいえ。今も昔もかわいいですよ」
 そう言って王は僕の額にキスをすると、直後に「あ、リップが」と手でごしごしと擦り始めた。
「擦らないで! もったいない!」
 折角王からキスをして貰えたのに、余韻に浸る間もなく王は僕の皮膚をスクラッチし続け摩擦熱を生んでいく。飴と鞭だ。いや、飴と無関心か。
「もったいないとは? あ、擦りすぎて赤くなっちゃいました」
 今度は額を撫でられながらソファに腰を下ろし、もう一回してくれと強請ってみるが王は「リップがついちゃいます」と言って僕の膝から逃げ出そうとする。それを手早く捕まえて背中から抱き竦めれば、視線の下方に吹雪に磨かれたクレバスのような背中。指先で触れると、きん、と冷たい。
「僕のこと好き?」
 王の狭っ苦しい肩に額を預け、その奈落への路を見下ろす。逆三角形の白い暗闇が目に痛い。
「なにが怖いのですかおまえは」
 僕の膝を叩いて、王は問うてくる。しかしその問いには答えらないままゆっくりと温い溜め息を吐くと、王は立ち上がった。クレバスがずっと高くなる。
「目を閉じなさい」
 そう命じられ、瞼を下ろすと、いよいよ谷底にいるかのようだ。王の青いドレスが瞼の裏にまでひかり差して、冷たく暗い。きっと地上へは声が届かないほどの深度で、こんなところでひとりで死ぬのは嫌だなぁと夢想していると、ふと唇になにかが掠めた。一瞬だった。
「……なに今の」
 瞼と一緒に口を開く。込み上げる可笑しみに、唇が震えた。
「わからないのですか」
 目の前で身体を屈めていた王は、真面目な顔をして口をへの字に曲げる。その頬を捕まえて小さな骨の存在を感じれば、その儚い手触りにいま唇に触れたのは未だ目の開かない仔猫のピンク色をした腹かなにかだったのではないかとすら思えてくる。ミルクが詰まって、ぱちゃぱちゃと柔らかい。
「わかるよ。わかるけど。……なんでおでこにするのよりへなちょこなの」
 思わず引き笑いをしながら額を合わせると、王はその大きな睛を不服そうに細めて僕を睨む。
「へなちょこ……? 失敬な」
「びっくりするじゃん。ちょびっとすぎて」
「ちょびっとではないです。そこそこ、です」
「もしかして王さ、やり方知らないの」
「検定があるでもなし。やり方など些細なことです。ちがいますか。世はフリースタイル戦国時代。人には人の討ち取り方……」
 王が論破気鋭でいるということは、図星ということだ。
「要は知らないってことね。前もこんな感じだったよね。僕がするみたいにすればいいのに」
「おまえのは……なんというか、蝶々なのでわたくしとは生態が違い、参考になりません」
「蝶々……?」
「ぶすっ。じゅばばばば」
「ねー、やだよその擬音」
 そのあられもない擬音の訂正を求めるが、王は「親に弓引くっちゅうんか?」と再び任侠ぶって立ち上がると、テーブルに放っていたスマホを手に取り「懐中深くお納めください」と僕の懐に押し込もうとする。
「なに、なに、僕なんの盃下ろされたの」
「親子盃じゃ」
 ぐいぐいとスマホの角で僕の胸を抉りながら、王はニコニコと楽しそうな笑顔。それでもうなにも言えなくなってしまった僕は、王からスマホを受け取ると懐深くに納めた。清濁併せのむ度量は未だになく、僕の心は何度だって真っ逆さまに落ちる。何度もクレバスから滑落する。それでもいつだって王は王なりのやり方で僕を拾い上げてくれるから、安心して落ち込めるのだ。つまり僕は、安全圏から病んでいる甘ったれで、しかし安全圏にいるという状況そのものがとてつもない恐怖を誘発することもあって、ひりひりと喉を灼けさせながらプラスとマイナスを行き来することでバランスを取っている。自らすすんで不健康なのに生き汚い。そんな僕内部の汚れでくすんだ炎が舐める焦土の対岸で、王はいつも清廉に笑っている。僕たちは隣どうしに立ちながらも、いつも間になにか一本隔てるものがそこにあって、それは紛れもなくゼロ地点だ。プラスとマイナスの間にある無。この永久のクレバスを、あの人はどうしていたのだろうか。ぴょいと軽い調子で飛び越えて、花でも持って行っただろうか。

 ジャオとは店の前で合流した。秘書と思しき女性を伴った彼女は、唐装が下敷きになっているであろう、黄と紫が見事にマリアージュした美しいドレス姿で現れた。その姿には見る者を圧倒する、剣気にも近い凄味があり、それを潤むような黒髪が幾らかマイルドに落とし込んでいる。
 ここは唯一の男性体である僕がエスコートすべきかと半歩前に出たところで、ぐいと王が前に進み出た。そしてきりりと真剣な面持ちになったかと思うと、ジャオの前にその手を差し出す。
「あらあら。随分と可愛い殿方ね」
 僕を一瞥し、くすくすと笑いながら、ジャオは王の手を取ると、ふたり寄り添って歩き始めた。その様子はまるで夢のようで、出遅れたこともまったく気にならないほどの香気で辺りが満ち満ちていく。
 どうやら店の一階は店の歴史についての資料や優美な陶磁器を展示するブースと、一般向けのレストランで構成されているらしい。そちらも気になったが先導する秘書が目指しているのは上階らしく、エレベーターに乗り込むと精油の海に沈んでいるかの如く濃厚な香りに思わず噎せそうになった。王の瘴気が濃いのか、それともジャオの香水か。しかし高級店に行き慣れているような者がこのような場を訪れるにあたってパルファンを何滴も振る訳がない。
「エスコートありがとう、可憐なファンディーちゃん」
 個室に着くと、ジャオはそう言って王の唇の端にちゅっとキスをした。その瞬間に王はぴたりと硬直し「なるほど……?」とひとり呟くものだから「ほら座るよ」とその肩を促す。そういうキスが正解なんだよという視線を王に送ると、王は手指をぐにゃぐにゃと蠢かせながら場違いに「わほほ」と浮かれた声を上げた。しかし席に着き、目の前に置かれているのが箸だと認めたそのとき、王は再び石彫のように固まってしまった。
「頑張って持ち方を覚えないからだよ」僕は言った。
 どうやらすっかり箸のことを忘れていたらしい王は、途端に不安になったのか、すっかり弱気な様子で僕を見つめる。
「おまえ、おまえ、今すぐわたくしの箸をきちんとしっかりちゃんとさせなさい」
「他力本願だなぁ……。あのね、覚えるのはね、王の仕事だよ」
 現に僕は、根気よく王に箸の持ち方を教えているが、そのレッスンを放棄して口に食べ物を入れて貰いたがったり、ぐちゃぐちゃの箸で食事を続行しているのは王本人なのだから仕方ない。
 僕たちがそんなやり取りをしていると、ジャオが「どうしたのよ」と会話に入ってくる。そこで王は箸を持つのが苦手なことを説明すると、彼女は「別にいいじゃない。レンゲで食べれば」と特にマナーを気にした様子もなく言った。
「殆どがスープ料理だから、そんなに気にしないで。他もレンゲでいっちゃえばいいわ。美味しく食べられればそれでいいのよ」
 それを聞いて、王はぱっと顔を明るくして「シュエシュエ」と手をキラキラ振って礼を言った。王なのだから手を振ることは得意なはずだが、最近の王はこの、手をキラキラと捻って振るやり方に嵌っているようだ。
「お優しいんですね。もっとこう、厳しいのかと」
 僕が言うと、ジャオは微笑んだ。
「見たらわかるわよ。この子、手が器用じゃないでしょう。貴方とは違って」
「よくお分かりで」
「まぁ肉球と蹄の差みたいなものよね」
 その言葉に、思わず目を剥く。この女、本当に人間か? ……しかし幾ら探ってみても僕の目に見える要素全てが彼女を人間だと証明していた。
 まず酒が運ばれてきた。硝子の酒器に入れられたそれは、恐らく白酒だろう。小酒杯に注がれ、各々の前に置かれたそれを手にすると、ジャオが音頭を取った。
乾杯ガンベイ! 随意スゥイィ
 随意と言われたということは、一気飲みしなくてもいいという意味だ。白酒は初めてなので、まずはひと口。度数が高いとは知っていたが、流石は火酒と呼ばれるだけはあって喉が灼けるようだ。腹に落ちてからも強烈な存在感を放っている。しかしジャオは軽く飲み干したようで、空であることを示すマナーとして飲み口を下に向けると、二杯目を秘書に注ぐよう命じた。対する王は、飲み干さない僕と飲み干したジャオの間で混乱している様子だったが、少しして意を決したのか三度杯を傾け酒をすべて飲み干した。
「いや、なんで盃事の飲み方……?」
「サ……サンサンクド……じゃけえ……」
 混乱したままなのか王はそう言うと、お代りを求める。
「やっぱりお酒に強いのね。王の器だものね」
 ジャオは感心したように頷くと、自らの秘書に酒を注がせた。そういえばこの秘書は食事の席に着かないのだろうか。ジャオの後ろに控えたまま、ひと言も言葉を発さないでいる。
 そして部屋に唐代の女官の衣装を着た幾人かの女性スタッフが、続々と美しい身のこなしで部屋に入ってきた。彼女らの手にした盆の上には美しい盛り付けの料理が載せられており、それらが滑らかな所作で円卓に並べられていく。
「美しいですね」
 秘書に料理の取り分けを命じているジャオにそう声を掛けると、彼女はパープルのラメが乗った赤い唇をにっこりと吊り上げた。
「これは前菜よ。水席は前菜八品、鎮座料理四品、大皿料理八品、小皿が四品……全二十四品で構成されているわ。しかも殆どがスープ料理。気合を入れて食べなさいね」
 水物がおよそ二十品……その過酷さを思うと、幾ら僕たちが大食いとはいえ酒など飲んでいられないと居住まいを正す。しかし傍らの王は懲りずに三度で酒を飲み干していた。
「じゃあ食べちゃいましょ。空いた皿から引いて、続々と新しい料理が来るわよ。水のように」
 ジャオは嬉しそうにぱちんと手を合わせると、箸を手に取った。王も咄嗟に箸を取ったが、挟む動きをすると途端に持ち方が崩れることを悟っているのか、綺麗な持ち方のままどうにか先を匙のように使って食材を掬うことで茶を濁そうとしているようだ。上手くはいっていないが。
 うん、美味い。……ひと通り手をつけてからそう口にすると、ジャオは「そうでしょう。旅行者にも食べやすい味付けなんじゃないかしら」と嬉しそうに頷いた。確かに尖った味付けのものは少なく、素材の味を生かした薄味のものが多い。
「洛陽は乾燥地帯のためこのような水気の多いコースができたのだとなにかで読みました」
「そうよ。お肌なんかカッサカサになっちゃうんだから。だから仕事でこっちに来てるときは化粧水をバシャバシャ塗って、倍以上の手間を掛けじっくり保湿して、可能な限り水分を取るようにしているの。水席を食べるのもその一環ね」
 そう言って自らの頬に触れる彼女の肌には一片の翳りも見受けられないが、努力の賜物ということなのだろう。肌が綺麗というだけで、ビジネスにおいては大きな武器になる。美しく身繕いができる、つまり他者への配慮のできる人材だと相対する者の本能に訴え掛けられるからだ。しかしその美肌が生まれつきだろうと努力したものだろうと、印象としては結局は同じなのだから世知辛いと思わないこともない。血の滲む努力をしたとして他者にとってみればひとしく「清潔感があって好印象だな」というただそれだけなのだから。
 空いた皿から、次の品へと取り替えられる。新しく運ばれてくるものは全て今までのものと食材が被っていない。そのことに気付いて顔を上げると、ジャオは僕の意を汲んだのか、そうよ、と頷いた。
「手が込んでるのよ。こってりしたものが来れば次は酢の物や野菜が来る。舌が飽きればまた肉や魚。品数を削れなかった結果の二十四品よ。まぁ略式でやってるところも多いけれど」
 王はチャーシューの上にとろみのあるスープが掛かったものが気に入ったのか何切れもぱくぱくと口に運びながら「ハオチ、ハオチ」とニコニコしている。いつの間にジャオが命じたのか、秘書が王の傍について食事の世話をしているようだ。無表情な秘書だという印象を受けていたが、王の世話をして「シュエシュエ」と礼を言われるたび、ほんのりと口元を緩めているらしい。そんな彼女の揺れる前髪の下には、何かの花のような刺青が見える。
「あの子が食べてくれると嬉しいでしょう」
「嬉しいですね」
「骨が細いわ。拒食症だった?」
「まぁ近い状態でしたね。最近ですよ、食べるようになったのは」
 僕が王をみつけたとき。王は世界から忘れ去られそうなほどに小さかった。その小さな命が辛うじて呼吸を諦めずにいられたのは、そのマイナス記号型の眼差しの先にひとつきらめく希望があったからだ。そしてその輝く星は、僕じゃない。僕はただ、目の前で墜落していたちいさな惑星を見捨てられなかっただけで、僕が生かしたわけではないことを、痛いほど承知している。
「貴方、根気よく頑張ったのね。偉いわ」
 なぜかジャオは、僕を褒めた。その瞬間、なにか重大なものが手元に転がり込んできた気がして、でもそれは目視できない透明なもので、ただ捨てずに懐に入れておくことしかできない。言葉を失ったその一瞬の隙をついて、体内から温いなにかが溢れてくるのを感じて、それを推し留めようと酒を煽る。杯を逆さにして空になったことを自らに言い聞かせれば、その瞬間に目をぱちりと見開いた王と視線が重なった。
「またおまえは」
 それまでハオチーとシュエシュエとしか言葉を発していなかった王が、口を開いた。
「ひとりで、泣いているのですか」
 そう言って王は椅子から立ち上がると、傍までやってきて僕の頭を抱き締めてきた。へ? と間抜けな声を上げて目元を拭うが、濡れてはいない。
「な、なに……どうしたの、王」
 その水のように柔らかな胸を顔面に押し付けられ、僕は窒息しそうになりながら王を見上げる。王の鋭利な顎裏。細い鼻の稜線。未踏の雪原のような頬。そこだけ異質な生態系をした睫毛。滑りそうな前髪。その奥、ピッケルを弾きそうに丸い額。あなたにしがみつくのは本当に大変だ。頂上になにがあるかもわからないのに。
「おまえがひとりで悲しいとわたくしは、ざわざわする」王のしずかな声は、それでもこの部屋には響く。
「そんな効果あったっけ、契約に」
「知りません。ですがわたくしはそれが堪らない」
「……自分のことのようで?」
 同じ気持ちであったらいいと、願いも込めて僕が王に対する心構えを口にすると、王は首を横に振った。
「いいえ。おまえのことだからです。わたくしではなく、おまえが悲しいのは耐え難い。しかしおまえの悲しみの大半がわたくしにはどうにもならない。どうにかしたくてもわたくしにはわたくしの外側のことのほとんどがわからない。ただでさえ内側もわからないのに。……ウォーウーラも知らなかった」
 王の言葉は叫びに満ちていた。ぽつぽつと翠雨のようにしずかなのに、雨粒の一滴一滴は叫びに震えて輪郭を揺らがせている。どうやら王は、雨の降る星のようだ。雨に濡れたい心地なのか、意志を持つ僕の肌が、手のひらという部位を選んで無造作に王の背中に触れた。明確な温度差があるからこそありありと浮かび上がるゼロ地点は、実在と非実在のあいだで極光のように揺れ動いている。しかしこの極光こそが僕たちの求めているものなのかも知れない。ゼロ地点に消えた人。ゼロ地点にまだいるかもしれないあの人。見えなくなっても、王は泣かなかった。今も泣いていない。……なぜ?
 僕が、対岸で泣いているからだ。
「……王ちゃんの気持ち、私もわかるわよ。子供もいるしね」
 空になった杯を逆さにして、ジャオが言った。
「大切だから近いみたいに誤認しちゃうけど、他人なのよ。どうしようもなく。何度代わってあげたいと思ったところで、代われないの。親子だろうと……主従だろうと、恋人同士だろうと。私たちはそれぞれ違うものでできている」
 かわれなかったのよ。……ジャオは微笑んで傍らの秘書を見上げた。梅の花を彫られた女は、無言で硝子の酒器を手にすると、ジャオの杯に酒を注いだ。
「こ、こども」
 そのとき、王が妙に狼狽えた声を発した。そのままくらりとくずおれそうになるその身体を咄嗟に抱き留めると、王は青褪めた顔色で僕の膝まで這い上がり、僕の肩に額を押し付けて静かになった。それを見たジャオが「具合が悪いの?」と立ち上がろとするのを、手で制する。理由を察したからだ。
「……王、もしかして、ジャオさんに求婚しようとしてた?」
 僕の言葉に、王は黙ったままなにも答えない。
「だから気合い入れてドレス選んだりサカヅキサカヅキ言ってたんだ」
 王は尚も動かず、しかし耳を澄ますとうんうんと唸っているようだった。
「頑張ってたもんね。エスコートしたりしてね。たくさんお酒も飲んでね」
「も……もうなにも……言わないでください」
 蚊の鳴くような声で訴えながら、王は僕の腹を拳で軽く殴った。その力の無さから落胆ぶりが窺える。
「あらー。王ちゃんそういうつもりだったの? それは流石にわからなかったわ。ごめんなさいね……繰り返しになるけど夫と子供がいるの。子供はもう大きいのだけど」
 そこにジャオからの追撃。今度は真正面からお断りされ、王はとうとう「ひー」と痛切な鳴き声のようなものを漏らしてぴたりと動かなくなってしまった。可哀想に、失恋である。心做しか、王を見詰める秘書の眼差しには憐憫が宿っているような気がした。
「さ。美しい蜜のような肴だったわね。そろそろさっぱりとした肴が恋しいわ」
 場の空気を変えようとしたのか、ジャオがそう口にしたそのとき、個室の扉が空いた。そしてなにやら一等大きな椀が運び込まれ、テーブルの中央に置かれる。
「来たわね!」
 特別嬉しそうにジャオが立ち上がるので、王を抱えて僕もその椀を覗き込んだ。そこには大輪の牡丹の花……これは有名なので名前は知っている。『牡丹燕菜ムーダンイェンツァイ』だ。細切りの食材の上に卵のクレープで造られた大輪の牡丹が咲いており、仕上げとして女官の手によってスープが注がれると、ふわりと全てが花ひらく。
「王、綺麗だよ見てみて」
 抱えた王にそう呼び掛けると、王はぐすぐすと躊躇っていたが、やがて顔を上げた。そしてすぐにぱっと花咲く笑顔を浮かべると「春ですね」とちいさく拍手をした。

 車で送ってくれるとジャオが申し出てくれたのを固辞し、ふたりで夜風を受けながら歩く。針のようなピンヒールで歩いている王に「抱っこしてあげようか?」と声を掛けると、険しい顔をして首を横に振られたので、せめてもと手を繋ぎ、眩いネオンにふたりして目を細めて。
「……失恋、痛い痛いだねえ」
 そう声を掛けると、王はぶっきらぼうに「失恋ではありません」と言って大股に進む。それに合わせて僕も歩幅を大きくすると、一瞬で追い付いてしまったので、今度はきちんと目視で王のペースを確認しながら歩幅を選んだ。そして隣に並んだ王の顔を覗き込めば、大風を受けているポメラニアンのように渋い顔をしている。
「失恋と違うんだ?」
「失恋は知ってますから。今回のはまた感覚が違います」
 そんなことを言う王の斜め下の横顔に、思わず目を剥く。そんなのは初耳だ。しかしすぐに「あー……」と間の抜けた声が漏れるほどには近い場所にその存在がいて、切ないほど悔しい。しかしゼロ地点のあの人は、この子のことを振ったわけではないのだ。
「それって失恋なんだ? 失恋じゃないと思うけど」
 慰めるつもりではなく、事実としてそう言ってやると、王はぶんぶんと音がするほど激しく首を横に振って「よいのです」とムキになった声を上げた。
「失恋して当然だったので、もうよいのです」
「……そっか」
 まさか王の口から失恋、ひいては恋などという大人びた言葉が出るとは思わなかった。言葉が使えるということは、その感覚に親身になったことがあるということだ。単なる情報としての言葉という範疇を超えたからこそ、それが実感として痛い。切ない。かなしいくるしい。
 しかし今は僕ではなく、王が痛い。そのことが無性にやるせなく、王の肩を引き寄せるとキスをした。キスしたかったからではなく。情欲からでもなく。すべきと思ったからしたのだ。行き交う車のライトが、絶妙なバランスで僕たちを照らし尽くさない。ここは名場面ではない。
 唇は表面を掠めただけ。いま踏み入ることが難しい僕は、蝶々であることを忘れてしまったのだろうか。
「そう言えばさ、どうしてジャオさんに求婚しようと思ったの?」
 王が思ったよりも痛そうな顔をしているので、話題を変えて切り出す。「あの人、人間でしょう」
 だがこれもまた失恋のいたみとは別種ではあるものの生傷だった。王は恨めしげに僕を見上げ、しかしすぐに普段の柔らかくぼんやりとした眼差しに戻って「気付かなかったのですか?」と問うてきた。
「あの方は皇帝ですよ」
「え?」
「だから同じ立場で気が合うかと思ったのです。それに、あの域に達しているのなら身体も丈夫そうですし」
 事も無げにそう言って、王は僕の手をすり抜けると、歩道のタイルの模様に合わせてぴょんぴょんと先に進み始めた。色の濃い所だけ踏む遊びをしているらしい。ぴょん。ぴょん。走りゆく車の影を跳んで躱す。しかし街路樹の植え込みで、行き止まり。
「子どもがいることは知っていましたが、今でも子どものことを気にかけているのならわたくしは引かざるを得ないでしょう」
 立ち止まって街路樹を見上げていた王は、僕が追い付くとぴょん、と僕の隣に戻ってきた。コメットのように追突してくる身体を受けとめて、拾った細い指先に唇をつける。世界に、表舞台に、どこにもいない僕らはもしかしたらキスをしても愛を交わしてもとことん無意味なのかもしれないが、それでもふたりゼロ地点の極光について、そのクオリアについて、語り合えばいつかは観測した差異を集めて星をひとつ生むかもしれない。
「明日はどこに行きますか」
 僕を見上げて、王は微笑む。
「そうだな……鴕鳥でも観に行こうか」
「パンケーキですね!」
 今ここで突飛な王の言葉を考察する僕は、死を待つ滑落者の夢想の存在などではなく、ただ今を生きる贅沢な一個のいのちだ。病むも笑うも途方に暮れるほど自由。いつかクレバスを飛び越えたら、あの人が持って行った花を見せてもらおう。
「もしかして、鴕鳥の卵でパンケーキを焼こうとしてる?」
「はい。大きいのをこさえるのです」
「いやぁ……難しいですね。色々と」
 そして今を生きる僕は極光の下、キミとパンケーキを焼くのだ。


End.


立っても座っても歩いても、牡丹は牡丹。
ただ王である。ただ花である。
ひとの気持ちなどわからない。


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