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「フラット」な自分を育てたい。

最近、『思い込んでしまう』ことがあった。今わたしがこういった状態なのは、この原因によるものだ。悪いのはコレに違いない。
——そして周りを見渡せばまた、わたしと同じような状態の人もいるのだ。

一口に思い込みと言ってしまうと、まるで”勘違いしているだけで大した出来事ではない”、という風に聞こえてしまうかもしれないが、決してそういうわけではない。その出来事に苦しめられているのは事実だし、その解決策を必死に探しているときは無我夢中。そして究極状態になると、そんな解決策さえ探す気力がなってしまうほど、心も体も力を消耗する。

ある一つのことにとらわれること。それは、ある意味自分を安心させることでもある。なぜなら、自分をこんな状態に陥らせている原因は”コレ”なんだと特定させて、”コレ”のせいなんだと決めつけしまえば、いくぶん気持ちが楽なのだ。原因が分からないほうが不安。だから、たとえその原因が「本当」ではなかったとしても、知らず知らずのうちに原因を決めつけてしまうのかもしれない。

そしてまた、そんな状態のときは、第三者からも賛同を求めたいと思う。「”コレ”が原因であなたはこういう状態なんだ」と言って欲しい。だから、このような回答を相手から引き出そうとしたくなる。

別にこれは特段珍しいことではなくて、同意とか賛同を求めるのって、”背中を押してほしいな”というときによくある会話の一つだと思う。それで納得して、新しい方向に上手く舵を切れれば万々歳だし、そうやってわたしもたくさんの人に背中を押してもらっている。

しかし今回のわたしは、迷宮入りをしていて、ついには母に助言を求めることにした。そし冒頭にある”思い込んでいる状態”の自分を指摘されたのだ。その瞬間、自分を包み込んでいた重くダルく気持ちの悪い膜が、ツルンと剥がれ落ち、納得し、そして周りを巻き込み、何も解決しえない方向へと創り上げていた”世界観”を恥じた。それから、その原因だと思い込んでいたヒト・物事を本当に申し訳なく思った。

母の指摘によって、わたしの視界は以前とはまったく違うものになった。客観的に自分を感じながら、考えたり、意見を言えるようになった。そして”思い込んでしまう”のは簡単だが、そこから”客観的な自分”に戻るのは、思った以上に大変なんだと思った。それはきっと癖になるし、それがやがて凝り固まった自分の考えにもなってしまうだろう。

今はわたしを冷静に分析できる母が居てくれたから、こうやって戻ってこれたけれど、もし彼女がいなかったら…?この先、ちゃんと自分を”思い込みの沼”から引っ張り上げられるだろうか?

この年にして、ものすごく大事な課題を発見したと思った。たとえ母が居なくなっても、一歩離れて自分を見つめられる”わたし”をちゃんと確立しなければ、と。そしてまた、今度はわたしが母のように、”思い込みの沼”にハマッている人を救えたり、助言をできるような人物になりたいとも思った。

つまり、フラットでいること。フラットって、軽く聞こえたり、冷たい印象があるかもしれないけれど、実はすごく難しくて大事な状態だ。いつもどこかで、”フラットな自分”を引き出せるように、今後の人生を歩んでいきたい。

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