五月

ここにたどり着いてしまいました。

五月

ここにたどり着いてしまいました。

最近の記事

おかげ様?全部あんたのせいだ

「あなたの希死念慮は私が作ったものだね」 地元の母親からこうメッセージが届いた時、私の胸をなにか冷たいものがすうっと落ちていった。 納得の形をしたそれは、実際には嘲笑を交えていて、それでいてどす黒く燃え盛る憎悪を内包していた。 母親は、幼いころ家を出た。理由の詳細は知らないし、どうでもいい。 事実として揺らぐことがないのは、私は小学校に上がる前には戸籍上の母を失い、母親の輪郭というものを掴み損ねる羽目になったということだ。 私に残された母の記憶とは、私を夜の堤防に置き去りにし

    • 音楽の内面化@現代

      最近、SNSに「最近の輪者には好きな音楽がない」という話題が流れている。「好きな歌手を聞いても、答えられない」「いろんな歌手を聞く」という返答ばかり、ということらしい。 これに対して、「現代の若者はサブスクリプションサービスで流行ばかり聞くから云々」「似たような傾向の歌手がおすすめで流れてくるから1人に絞れない云々」とあるけれど、どれも指摘としてズレていると感じる。 いや、無論サブスクが視聴体験や音楽との出会いに影響を及ぼしているのは間違いないけれど、問題はそこではない。

      • 夏、まだ纏わりついてくるんだ(笑)

        東京に越してきてから一月が経ち、24歳になった。おめでとう。二十歳のそれより感慨深くはないけれど、約数が多い数字というのは、卵によく浸したフレンチトーストくらいの満足感を与えてくれる。 干支が2周しただけだし、己を表す表示が+1増えたからと言って、目に見えてステータスが上がるわけでもない。むしろ年齢を重ねてもなお“らしさ”を掴めないまま彷徨する自分ばかりが浮き彫りになっていくけれど、社会との折り合いはうまくつけられるようになってきた。 業績は、エリア内2位にまで昇りつめ

        • If I lived, うぃず 郷愁

          「神隠しの真相」というフリーBGMを聞きながら、何も悲しくないはずなのに涙が出た。 高校に入ってからだろうか。存在しない過去に焦がれてばかりいるのは。 現実や現在が気に食わないのではない。現状に不満がないとまでは言わないが、満足していないのかと問われれば、首を横に振る。それなりの人生を送ってきたつもりだ。いつも楽な方へ、逃げ道を作っては選択したつもりになって歩いたから、苦境に立った覚えも、何事かが辛かった覚えもない。 それでもというか、だからこそというか、ずっと心苦

        おかげ様?全部あんたのせいだ

          どうやら人は死ぬらしい。

           どうやら人は死ぬらしい。  そんな当然の事実を、齢23にもなって、初めて知った。  いや、知った、というのは違うか。「実感を伴って理解できた」、という表現が近いか。  年の瀬に、祖母が死んだ。  年末まで片手の指を折れば数えるには済むほどの時期だった。  もう長くない。そう聞いていたけれど、それでも仕事中にメッセージアプリが頻繁に更新されているのを見たときは、ひゅっと何かが身体を通っていくのを感じた。  十一月、小学校から高校まで母代わりを務めてくれた祖母の危篤を聞いても

          どうやら人は死ぬらしい。

          「ありのまま」でいられるけどさ。

          転換期は、就活だった。 「ありのままの貴方でいい。それで離れていく人は、もともと貴方に合わない人です」 二次面接の採用担当の男性が、そんな風に言った。 そう述べた彼からすれば、「今の貴方が」ということではなく、「これから貴方が生きていく上で」忠告してくれたのだろうが、僕にはどちらでもよかった。自己を認められてきたのだろう立派な社会人の、人間味に溢れる言葉だった。 どうやら僕の社会性は、見る人によっては作り物だと看破されるらしかった。採用担当の壮年男性。二度と行かないと誓った香

          「ありのまま」でいられるけどさ。

          やはり小説の舞台は夏がいい

          小説で季節を設定する時、半ば反射的に秋にしてしまう。ひと夏の冒険に憧れているのに秋を舞台にする理由は、個人的な趣向というただ一点だろう。 涼やかで過ごしやすいだとか、秋服が好みだとか、その程度の理由。 やっと分かった。 これは間違いだ。 反射的に物語を組み立てれば作品構成が失敗に終わることなど誰もが知っている。まして夏という季節に憧れている人間が、その膨大なテーマを秋という四季で最も淡白な存在に収められるわけもない。 秋を選ぶのであれば、なにか理由が必要だったはずな

          やはり小説の舞台は夏がいい

          どうでもいいんですよね、人生。

          人生、どうでもいいです。本当にどうだっていい。 幸せになりたいとか、人として成長したいだとか、大きな成功を収めたいとか、これっぽっちもないんです。 変わらぬ日常が大事とか、君といれば毎日が薔薇色とか、虫眼鏡を覗いて些細な幸せを見つけることに興味も持てない。 人生なんて、美しいものに触れられれば、それでよかった。 天気雨がアスファルトを濡らす匂いとか、花火がうち上がった瞬間の見物客の驚嘆だとか、冬の朝の空気だとか、腹を揺さぶるエンジン音だとか、湧きたつ入道雲だとか、そんな美し

          どうでもいいんですよね、人生。

          ”あの夏”はどこへ行く。

           月が替わって六月になったので、LINEの着せ替えを変更した。  高校時代から、3か月刻みで春夏秋冬の着せ替え画像を使いまわしにしている。  これが意外に時節の移り変わりというものを感じられて、気に入っているのだ。  さあ、つまりは夏に切り替わったということだ。その巨体をひっそりと揺らして、大きな足音を鳴らしながらその影が迫る。  今、2つの悩みが頭の中にある。どちらも僕がさんざん口に出している”あの夏”に関する事柄だ。以下に記す。 「社会人になった今、今年の”あの夏”

          ”あの夏”はどこへ行く。

          「エモい」論

          エモい、という言葉はずいぶん世に膾炙したと思う。 辞書を引いてみようという気持ちにはならないが、体感ほぼすべての人が知っている言葉になったのではないだろうか。 エモい音楽、エモい光景、エモい文章、エモい感情……。 僕はこの「エモい」という言葉が、嫌いである。 いや、言葉は正確に表現するべきか。便利な言葉だとは思っているが、好ましくは感じていない。人が使っているのを聞いて反感を覚えることはないし、なんなら自分でも進んで使う。ただ、その語の在り方について話題が移ると、とてもでは

          「エモい」論

          「独りの方が好き」。

          「独りの方が好き」とか、「独りでありたい」みたいな表現が、どうも僕の意図するニュアンスと違っているのかもな、と思うことがある。  この言葉は、常態化した孤独の摂取のために用いる表現だ。「ちょっと考える時間が欲しい」とか、「大勢と過ごして気疲れした」みたいな特有個別の事象に引っ張り出されては使わない。 「独りの方が好き。」  まあ、好きだ。独りなら何をしてもいいんだから。  どんな服を着ようと、なにを食べようと、いつ起きようと、生きていようがいまいが、究極的に他者と隔絶された

          「独りの方が好き」。