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やはり小説の舞台は夏がいい

 小説で季節を設定する時、半ば反射的に秋にしてしまう。ひと夏の冒険に憧れているのに秋を舞台にする理由は、個人的な趣向というただ一点だろう。
 涼やかで過ごしやすいだとか、秋服が好みだとか、その程度の理由。
 やっと分かった。
 これは間違いだ。
 反射的に物語を組み立てれば作品構成が失敗に終わることなど誰もが知っている。まして夏という季節に憧れている人間が、その膨大なテーマを秋という四季で最も淡白な存在に収められるわけもない。
秋を選ぶのであれば、なにか理由が必要だったはずなのだ。
 夏⇔冬には対比がある。暑さ寒さという単純な構造ではなく、盛栄と退廃、始まりと終わり、変化と不変、憧れと現実。
「物語はギャップである」というのは有名な脚本家の言葉だが、これに照らし合わせてみても秋という季節は選ばれるべきではない。それは両者の中間でふわふわと漂う中庸的そのものであり、どっちつかずで魅力に欠ける。
 夏が鮮やかであるからこそ、冬が落下点として目立つ。冬がなんの希望を抱かせないからこそ、夏は一層と輝く。
 夏が退廃的であれば、冬は変化しなければならない。
 夏に囚われながら秋を描くだなんて、浮気性もいいところだろう。

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