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どうやら人は死ぬらしい。

 どうやら人は死ぬらしい。
 そんな当然の事実を、齢23にもなって、初めて知った。
 いや、知った、というのは違うか。「実感を伴って理解できた」、という表現が近いか。

 年の瀬に、祖母が死んだ。
 年末まで片手の指を折れば数えるには済むほどの時期だった。
 もう長くない。そう聞いていたけれど、それでも仕事中にメッセージアプリが頻繁に更新されているのを見たときは、ひゅっと何かが身体を通っていくのを感じた。
 十一月、小学校から高校まで母代わりを務めてくれた祖母の危篤を聞いても、自然と悲しい気持ちにはならなかった。その理由は単純で、僕から見た祖母は、死んだほうがましな人間だったからだ。極悪人というわけじゃない。むしろ逆、至極の善人だった。
 いま思うと、あの人にはちゃんと自我と自己があったのに、我儘については、見たことがなかった。おせっかいを焼くことに執心し、それを押し付けてくるきらいはあったけど、いやだといえば引き下がる人だった。
 とにかく、だからこそ不遇と辛苦に苛まれ、挙句の果てに癌を患った彼女に「もうちょっと頑張って生きよう」「長生きしてね」などとは、とても言えなかった。この地獄でもっと苦しんでよ、などと誰が言えるものか。早急に現世を見限って、来世で鳥か花にでもなって自由に生きてほしかった。
 最後に生前の祖母と会った時、僕は「またね」ではなく、「さようなら」と言った。それはまさしく、本心だった。
 初めて祖母の亡骸を見た時、「やっとか」という気持ちが先に訪れた。
 祖母が年を越せないだろうと聞いてから、朝を迎えるたび「まだか」という気持ちになった。それは、期待でもあり、安心でもあったように思うけど、どちらかと言えば前者であったように思う。生きているだけの状態が続いていることこそ、僕にとっては堪えた。
 祖母は、僕たちが帰省した翌週、従妹たちが顔を出した翌日に亡くなった。きっと安心してのことだろうから、僕は通夜でも葬式でも、涙ひとつ零さなかった。

 ただ、「それ」は火葬場で起きた。
 出棺が終わり、火葬場へと向かい、最後の読経を上げた。
 そして祖母を燃やす火葬室の内観を覗いた時、猛然とした恐怖が胸に去来したのだ。
「こんな無機質なところで人は死ぬのか?」
 その恐怖と悲哀こそが、すべてだった。
 白い棺桶と溢れんばかりの花束に包まれた身体が、こんな彩度のないヒーター剝き出しの、人を燃やすためだけの部屋で灰になるまで焼き続けられるのだ。
 そんなことがあっていいのか?
 祖母の棺が入れられ、火葬室のドアが閉まっていく。焼却が終わるまでの予定を立てるためロビーに移動する間も、ずっと震えが止まらなかった。
 目撃した光景が一向に受け入れられず、そのくせ決して忘れられずに、鮮烈に輝いていた。
 そのうち、涙がこぼれてきた。みんながこれからのことを話す傍らで、うなだれて静かに泣いた。
 祖母が死んだことが悲しかった、のではない。
 人が死ぬということの意味を、やっと理解したからだ。
 極楽浄土とか、天国とか、あればいいなと思う。だけど、宗教というのは、きっと噓つきだ。くそくらえ。実際はどうだ、こうやって人は死ぬんじゃないか。暗闇に閉じ込められて、全部燃やしてしまうじゃないか。
 僕はずっと、死が人間の生涯において最も劇的なものだと信じていた。それは、何事も成せない自分として生きていくうえで、大きな希望でもあったのだろう。だけど、そんなことはなかった。
 劇的に死ぬことはできる。トラックに撥ねられそうな子供を助けることも、好きな人を身を挺して守ることも、大病を患い多くの人に看取られながら息を引き取るのも、きっと人生においてイベントとなりうるだろう。そう思っていた。
 だけど違うのだ。死はただそこにあり、どこまでも無表情で冷徹であり、無機質で冷酷なのだ。
 涙が止まらなかった。
 きっとこの無慈悲な最期への恐怖に抗うためには、幸せでなければならない。自らの命が尽きるまで幸福だと信じ込まなければ、きっと恐怖は恐怖のままだ。
 だけど、自分にそれができるのだろうか。自分一人背負うことのできない身で、他人まで幸せにできるものか。祖母の受けていた仕打ちを思い出すたび、そう思う。
 祖父の怒鳴り声と、あしらい方。地元の大学を進路から外した理由でもあるその理不尽が、頭をよぎった。
 僕なら恋人をあんな風に扱わないと、どうして約束できる。無限で永久のものなど決してないのに、結婚したいなどとなぜ言える。
 人は死ぬのだ。純然と、淡々と。

 葬儀を終えて、地元から帰ってきた。十二月三十一日のことだった。
 兄に別れを告げて、恋人と合流して、紅白歌合戦を見た。
 翌日、新年を迎えて、地震が起きた。これが第二の実感だった。

 地震警報すらまともに聞いたことがなかったというのに、初めて津波警報というものを聞いた。長い揺れでもテレビが倒れなかったと安心していたら、初めて聞く警報が鳴ったのだ。海抜数メートル、海岸から五十メートルほどの一階に位置する我が家から、恋人に押し出されるようにして冬の空のもとへ走り出た。
 日が暮れ始めた寒空の下を走り、逃げ続けた。警報はなりっぱなしで、携帯に安否確認のメッセージが延々と送られてきた。答えることもできず、ただ走って、避難場所を探し続ける。
 大きな学校に行ってみて、閉鎖されていると知った。時間がないという焦りと、迷うことが意味する時間の浪費を考えながら、スーパーへと向かった。
 不幸にも年始という時間は、すべての施設が閉鎖されていて、それは特に高所や頑強な施設で顕著だった。県庁は川を跨いでいかねばならず、近くで開いているのは二十四時間営業のスーパーくらいだった。
 津波の予想到達時刻はすでに過ぎていたけど、状況は確認できなかった。従業員が、所在なさげに表に出ているのを見て、堪ったものじゃないだろうと思った。
 交通規制をする警備員が「車はこれ以上上がれない」と言い、逃げてきたうちの一人が「人は上がれないんですか」と聞く。「……人もだそうです」と警備員の人が残念そうにつぶやく。こんな映画みたいなことがあるのかと、そう思った。
 ただ結局、屋上に上がる許可が出て、僕たちは坂を駆け上がった。
 そこで2時間ほど待っただろうか。津波は一向に来なかったが、引きもしなかった。
 ライブカメラの映像を見ながら、不謹慎な投稿をする人間を呪った。みんなは見たことがあるだろうか。地方のライブカメラなんかはまだいいが、有名な観光地のチャット欄は、半分以上が人の死を望んでいた。
「今日はこれを酒の肴にする」「はよ津波こい」「政治や神様が云々」それは正常性バイアスの一環なのかもしれない。茶化すことで、大したことはないはずだと思い込みたかったのかもしれない。
 それでも、気が狂いそうになった。人の死をエンタメと認識するのは、まあいい。それを平然と書き込み、あまつさえ多くの人が頼りにしている状況把握の場でアドバイスを隠すように連投する人間が、世の中にはいるのだ。真っ暗闇になるまで、僕はカメラの映像を見続けていた。
 寒かった。彼女に大丈夫と言いながら、大丈夫なのかは分からなかった。
津波なんて、見たこともないのだ。よしんばここで助かったとして、これからどうなるのか。会社は連絡がこないから、どうやら明日もあるらしい。そもそも地震の影響は、どこまで広がっているのか。何も分からなかった。
 屋上駐車場に上がった時の悲壮感と言えば、言葉にできなかった。
 来年には東京に引っ越す予定だった。こんなところで死ぬのかと考えると、やりきれない気持ちになった。年始を一緒の家で過ごそうなんて考えたばかりに、恋人は海の近くまで来るはめになったのだ。安心しなよ、きっと助かるよと思っても、僕にはどうすることもできない。
 地震という、ただの自然現象が多くの命を奪う。下にいる人たちも、警備の人も、津波が来たらみんなおぼれて死んでいく。
 結局、着の身着のままで出てきたことが災いして、僕たちは暖房の効いているであろう、避難場所に指定された小学校へと場所を移すことにした。彼女にダウンジャケットを渡す余裕はあったのに、自分の防寒具は何も持っていなかったのだからお笑い草だ。それでも、財布や家の鍵を閉める余裕なんて、とてもなかった。
 歩いて五分で海が見えるのだ。今回は結局問題なかったけど、もし本震がこっちで起きていたら、間違いなく間に合わなかった距離だ。
 スーパーの隣の大きな学校は閉鎖されたままだったから、海辺の方の小学校、つまりは自宅の方面へと向かった。
 暗闇の中を、時折小走りにかけた。一時避難していた人たちが帰っていたからには多少落ち着いたのかもしれないが、いまだ津波警報は発令されたままだった。
 今まさにスマートフォンの、あの聞きなれないチャイム2つがなって、向かう先から津波が押し寄せてくるのではないかと、気が気ではなかった。
 避難所に入ると、乾パンと水がもらえた。中学生くらいの女の子たちが、「あげるよ」とため口で手渡してくれて、すこし嬉しくなった。
 八時を過ぎるころには、画面の向こうで同じニュースが繰り返されるだけとなった。「この学校は高さがほとんどないので、皆さんのお家と変わりません」としきりにアナウンスを始めた小学校は、僕たちに帰ってほしいようだった。
 夜中、小学校の和室を借りて眠った。FF式のオイルヒーターは頻繁に停止を繰り返し、部屋は常に肌寒かった。それでも寝つくことができたのは、僕たちのほかに避難民がほとんどいなかったからだろう。きっとみんな安全な家があるのだ。そしてそれを信じられるだけの度胸も。
 四時ごろになって、学校を施錠するということで家に戻った。お風呂にかわるがわる入ったあと、翌日も仕事があったけれど、交代で不寝番をした。
 朝になって、彼女がバスに乗るのを見送り、いつも通り仕事に行った。先輩社員と昨日の様子を伝えあって、地震の翌日だというのに元気な人たちを見て、驚愕する。
 職場に数時間もいると、いつもの感覚が戻ってきた。たいしたことなかったんだと、正常性バイアスが働いて、元気になった。

 そして翌日、日本航空と海上保安庁の機体が接触した。
 このあたりで、死というものが誠に劇的で、無機質で、刹那的であり、無慈悲だと感じた。
 多くの人が旅客機の乗客を心配する間、僕はずっと海保の乗員が気がかりだった。滑走路に侵入する段階で旅客機の翼端を引っかけたということは、踏切に顔を出した軽自動車を電車が撥ね飛ばすようなものだ。
 乗員は何を考えていたんだろうか。数百キロで迫りくる鋼鉄の翼が接触する瞬間まで何を考えていたのだろう。それが怖い。
 人間は死ぬらしい。劇的に死ぬことはできるけど、劇場で上映されるような感動はない。
 準備も、遺言も、何一つない。
 それが怖い。

 ここまで書いて、気分が悪くなって書きやめていたみたいだ。二週間ぶりくらいにこの下書きを開いた。
 結論から言うと、死は以前よりも、ずっと実感を伴って頭に残っている。 
 数日、食欲がなかった。彼女とご飯を馬鹿みたいに買って、食べれるだけ食べた。
これは、正解だったと思う。

 一月十七日現在、キタニタツヤ「私が明日死ぬなら」を聞いて、この記事が書きかけだったのを思い出した。
 やはり死とは、この歌の通りであってほしいと、僕は思う。

 あの人に冷たくしたことや、死ぬことを恐れすぎたと悔やむ。
 「死ね」という冗談が冗談で済んだことに感謝する。
 これから生まれる命の尊さを夢見る。
 世界を呪う言葉を残したり、つまらなさを音楽にして救われたり。
 明日も生きるなら、好きな服を着て出かけて、嫌いな色を塗りつぶして、明日にとっての昨日という今日を愛おしく思う。
 写真を眺めるのをやめて、あなたに会いに行く。

 全部、全部、明日死ぬと分かっている人間の歌だ。死に対する思い入れとは、このようにあるべきだ。準備をして、妄想をして、好奇心と忌避感が綯い交ぜになった恋慕。
 それが死に対する向き合い方であるべきだ。

 人間は死ぬ。しかも突然に。
 アニメの名シーンみたいにはうまくいかない。淡々と、略奪は進行する。
 死ぬことに魅力なんて感じたことはないけれど、それでも少しそれに触れることができたと思う。
 忌引きで迷惑をかけたので、新年早々会社の人にあいさつ回りをした。これだけの人たちが、人が死ぬということを理解して、それに慣れているのだろうか。気が狂いそうになる。
 どうやら、人は死ぬらしい。
 だから、精いっぱい生きたいと思う。一生懸命、情熱的に、劇的に。
 死そのものが劇的でないなら、その生をどうにか華やかなものにしてやるしかないじゃないか。
 本編の映像つきのエンドロールを流せるくらい、内容のある人生を送ろうと、そう思った。

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