”あの夏”はどこへ行く。

 月が替わって六月になったので、LINEの着せ替えを変更した。

 高校時代から、3か月刻みで春夏秋冬の着せ替え画像を使いまわしにしている。
 これが意外に時節の移り変わりというものを感じられて、気に入っているのだ。

 さあ、つまりは夏に切り替わったということだ。その巨体をひっそりと揺らして、大きな足音を鳴らしながらその影が迫る。

 今、2つの悩みが頭の中にある。どちらも僕がさんざん口に出している”あの夏”に関する事柄だ。以下に記す。
「社会人になった今、今年の”あの夏”は肥大化するのか」
「”あの夏”に苦しんで、どこへ向かいたいのか」

 まず1つ目についてだが、僕の中では予感程度の出来事でしかない。
 つまりは、夏はまだ本格的に訪れていないからだ。これはぜひとも、夏が死に絶えた十月ごろに振り返りを行いたい。
 ただ、いうまでもなく社会人には夏休みがない。これが、”あの夏”に抱く理想を肥大化させるのか委縮化させるのか、気になっている。

 委縮させてくれるようであれば、かまわない。それはそれで、やっとマトモな大人になれるということなのだ。過去に傷つくことをやめて、真っ当な幸福を生きていけるのであれば、それは受容するべき幸福とすら言えるだろう。

 問題は、肥大化した場合だ。
 社会人に夏休みはない。とりわけ、お盆休みのない僕のような人間には、連休という概念自体が存在しない。つまりは、夏に浸っているような時間が無くなるのだ。
 これはある意味で、大きなメリットだ。
 高校のころから、夏はエアコンの効いた部屋で窓に映る入道雲を見つめては、間違った人生を送っているという実感だけを得ていた。それを構成する気力なんてなかったというのに。これは大学生になってもそうで、ずっと”正しい夏”の在り方に触れていないような気がして心地悪かった。
 だけど、社会人にはそんな暇はない。強制的に愁いを剝奪されるからである。休日とはただ仕事の合間の休みをさし、美しい人生などないことを体に刻み込ませられる。
 それはつまり、”あの夏”そのものから距離を置くことになるわけだ。
 自分が間違った時間を過ごしている気がして苦悶に駆られることはなくなるだろう。

 しかし、ひとたび”あの夏”が理想として頭に根を張った場合は、そうではない。
 現実に生きるということは、理想から引きはがされているのと同じことだ。空の青が晴れやかで美しくあるほど、心は摩耗する。
 こうなったらもう、「理想と対峙して劣った現状」などという生易しい苦悩ではなくなる。別離だ。二度と得られない夏。それらはノスタルジーの領域を容易に飛び越えて、終わったものとなる。
 理想郷ではなく、亡国だ。
 憧れの滅亡を肌で感じた時、この狂おしいほどの感傷は、どこへ向かうのだろう。

 
 2つ目の悩みは、とても根本的なものだ。
 なぜ今までこの疑問に行きつかなかったのだろうと思うし、感傷に浸っているのではなく、感傷に浸っている自分に浸っているという多くの人の指摘もあながち間違いではなかったのかもしれないと思うようになってきた。

 ”あの夏”、というよりそれらを含めたノスタルジックなものにここまで傷ついて、結局のところどこへ向かおうというのだろう。

 当たり前だが、傷ついたところで何にもならない。田舎の風景だとか、一人ぼっちの駅のホームだとか、湧き立つ入道雲に、美しさ、切なさ、悲しさ、はかなさ、感傷を認めたところで、何も与えられはしない。
 そもそも、なぜ感傷的な気分になるのだろうか。むろん、僕だけが特別なわけではないだろう。ネットを見れば同じように感じる人がいるとわかるし、その人たちが「目の前に、見たことないはずなのに夏が浮かんだ」とか「こんな青春がよかったな」なんて口にしている。
 だけど、そこから「ずっとこの気持ちに苦しんでいる」となると、話は変わってくる。知恵袋にはいくつか質問はあるが、その苦しさを知らないであろう「大人」たちの知識的な回答が散見される。
「それはノスタルジーですね」だなんて、聞きたいわけじゃないのだ。
 なぜこんな気分をずっと抱えているのだろう。そもそも”あの夏”を鑑賞したときに沸く感情は、本当に感傷なのだろうか。
 傷ついてはいる。苦しい。後悔とか、懺悔とか、そこにいちゃいけないって感情がわいてくる。でもそれが本当に美しいものに対する卑屈の表出なのか、分からない。

 美学を在学時代に真面目に学んでおけばよかった。九月の資格試験が終わったら、公務員の勉強と一緒に始めようかな。

 この傷を抱えて、どうしようというのだろう。
 結局、何がしたいのだろう。そこが不明なのだ。
 世間には「感傷マゾ」という概念がある。僕はこれに該当していて、ただ傷つくのが心地いいのだろうか?
 自分で”あの夏”を作り出したいのだろうか?
 高校時代、部活で小説を書いていた。ただ、僕は半そでが好きではないので、舞台設定を夏にすることを避けていた。その程度で描くことを放棄できるのであれば、夏を作りたいわけではないのか。
 媒体だって不明なままだ。絵なのか、小説なのか、詩なのか、歌なのか。
 技術は置いておくと、絵という選択肢はありだ。だけど、描いた夏に何を思う?
 小説は好きだけど、美しいものを描くには地の文が不要だと感じて仕方ない。美しいものばかりを描いていると、胃もたれする文章になる。
 詩は、人間関係がないところがどうにも向き合えない。
 歌はいいと思うが、絵以上にノウハウを知らない。
 
 そもそも、作ることは傷を吐き出すことであって、傷を負う理由ではない。


 今年の夏はどうなるのだろう。会社の窓ガラスから見る入道雲に焼かれるような苦しみを覚えるのか。夏がただ一つの季節となり果てるのか。
 夏は僕にとって、苦しみ足りえなくなるだろうか。

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