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「ありのまま」でいられるけどさ。

転換期は、就活だった。
「ありのままの貴方でいい。それで離れていく人は、もともと貴方に合わない人です」
二次面接の採用担当の男性が、そんな風に言った。
そう述べた彼からすれば、「今の貴方が」ということではなく、「これから貴方が生きていく上で」忠告してくれたのだろうが、僕にはどちらでもよかった。自己を認められてきたのだろう立派な社会人の、人間味に溢れる言葉だった。
どうやら僕の社会性は、見る人によっては作り物だと看破されるらしかった。採用担当の壮年男性。二度と行かないと誓った香屋の店主。そして5年ぶりに会った同級生。
特に最後には驚いた。(あぁ、"この僕"はすごく良くできていたと思ったけど、ずっと見透かされていたんだな)と、感嘆した。それと同時に、今まで何人の人が同じように思ったのだろうなという後悔が芽生える理由にもなった。
ありのまま生きていい。そのポップアップしたまま放置されていた選択肢を、初めて検討しようと思った。
以前にも記したように、僕はかなり強固な人格──ペルソナ──を持っている。それはもはや対人関係と不可分で、根底に深く絡まっているので、自分ですら掘り起こすことができない。
人と接するときはこのスタンスで。ほとんど無意識にそうやって接している。実際のところ、このペルソナは非常に有効で、僕の評価は概ね真面目であり、柔和であり、調停役であり、大人である。
積極性には欠けるものの真面目であるので、社会が求めている人間性を可能な限り体現していると捉えられるし、ギャップや人間らしさが欠点を補ってくれる。
このままでいるつもりだったし、それでいいと思っていた。
ただ、「ありのまま」であることを求められてもいるようだと、最近知った。
僕が一線を引くことで、相手も一線を引く。
対人関係というのはそういうものだと、半ば当然のように考えていたけれど、どうやら他人に踏み込まれていいと開示すれば、こちらから踏み込んでもいいということらしい。
「ありのままでいろ」「ありのままで接してほしい」という言葉を、この半年で何度かもらった。僕の擬態が稚拙になってきたことを意味するのか、あるいは彼らが聡くなったのか、その度に僕は返事を濁した。
彼らの期待に応えることはできないからだ。
なぜなら、おそらく彼らの想定する「ありのまま」は、優しいのだ。ある程度社会性を伴った彼らの友人をイメージしながら、人間の形を保った素の姿というのを、彼らは想像している。
ハッキリと言うが、僕のありのままの社会性は、壊滅している。
口汚く好戦的で、快楽至上主義の情動型。そのくせ諦観と消極性に富み、差別的で理性もなく、低俗と宇宙が混ざり合って混沌とした会話しかしない。
一言でいえば、ダルい。
中学時代に舗装されたアスファルトのような正義感が、不正への蔑視を強化していた。生まればかりに責任をなすりつける厭世的な思考回路はすぐ他人と離れようとするし、それでいて心を支配する審美眼が、簡単に情動に突き動かされる。
ペルソナに社会性を負担させすぎて、「ありのまま」の僕にはそれが一切ない。だからこそ、家族にも恋人にも、他者には絶対に露見などさせられない。
無礼そのものなのだ。人と話すとき、他人を慮ることが一切ない。思ったことを思ったように口にし、他人の人間らしさの輪郭を得るために、相手のパーソナルスペースにずけずけと入り込む。
だからこそ単純に、現状がお互いのためなのだ。
みんなが求めるようなちょうどいい「ありのまま」なんて持ち合わせていない。
嫌いなものを嫌いといい、美しいものを美しいといい、見映えのないものには口を閉ざし、呪詛を、あるいは感動を口にするだけの怪物。
そんなものを他人に見せていいわけがない。
「ありのまま」に憧れないといえば、嘘になる。
それはきっと、本当の友人を作る上では大切なことであり、大切なことであったはずだった。
でも僕には、人様にお見せできるような「ありのまま」はない。小綺麗にされた社会性ばかりが外面的な自己認識になっているせいで、醜悪な中身など見せられるはずもない。

ただ、それでも「ありのまま」を見せてほしいという奇特な方がいれば、どうか言ってみてほしい。
きっと絶縁したくなるだろうけれど、僕は僕でそれに応えてみたい。

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