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夏、まだ纏わりついてくるんだ(笑)

 東京に越してきてから一月が経ち、24歳になった。おめでとう。二十歳のそれより感慨深くはないけれど、約数が多い数字というのは、卵によく浸したフレンチトーストくらいの満足感を与えてくれる。
 干支が2周しただけだし、己を表す表示が+1増えたからと言って、目に見えてステータスが上がるわけでもない。むしろ年齢を重ねてもなお“らしさ”を掴めないまま彷徨する自分ばかりが浮き彫りになっていくけれど、社会との折り合いはうまくつけられるようになってきた。
 業績は、エリア内2位にまで昇りつめた。快挙だ、と素直に思う。転属初月になにをやってるんだかという気持ちだけど、これは誇らしい。客観化された自身の足場は、高ければ高いほど見晴らしがいいものだ。

 しかし同時に、これだけ人当たりよく社会生活を送れているその仮面の分厚さに辟易とするようにもなった。
 結果を出し続ける一方で、顧客の存在を疎ましく思う自分を、時折見かける。お得意さんなんてもっての外だ。石ころ同然、とは言わずとも、工事中の立て看板みたいなもので、できるだけ避けて歩きたいし、立ち塞がれたくもない。
 他人なんてどうでもいいと思うことが増えた。そしてそうやって他人を究極的に排斥していくと、自分のこともどうでもよくなるんだな、とも。
 ずっと何者かになりたかった。何度も言っていることだな。これは去年の暮に人に教えてもらった他己診断で、今もきっとそうなんだろうなと自覚している。
 何者かになりたかった人生なのだ。有名人じゃないよ、犯罪者でもない。英雄でもなければ偉人でもない。
 自分を定義づけられる、タグのような何か。それが欲しかった。
 この感覚が最近はずいぶん薄れている気がする。社会的に結果を出して認められてきたからだろうか。いや、むしろ逆、何者かを目指す自分への関心が、薄れていっているんだろうな。何者かになりつつあるから忘れているのではなく、何者かになれないという核心が、肌に浸透していく感覚だ。
 これからの人生、何があるんだろう。すこし考える。普段通りに生きて、普段通りに働いて、普段通りに成果を出す。いいね、最高。
 普段通りなら完璧だ。普段通りって、いいんじゃない。普段を不断に過ごせることがベストなんだ──。
 なあ、普段ってなんだ。人生はさ、そんな惰性──慣性──に従って生きていいものなのかな。「生きているだけで百点ですよ!」すごくわかるよ。死んじゃったんじゃあ採点のしようがないもんな。でも先生、あなたが花マルを打ってくれたって、学びの楽しさが何一つなければ作業みたいなものですよ。
 SNSを見る。夏の写真を見ても、去年のように──あるいは高校から大学生の時のように──在りし日の理想に苦しんだりしない。よかったよかった。生きづらさなんてもう感じなくて済むんだ。だってそれは、絶対に叶うはずのなくなった願望なのだから。
 そういうことなんだなぁと、腑に落ちる。憧憬が薄れてきたのは、きっとそれが起こり得ない、起こしてはならないものだと分かったからだ。“そういった”人生を送れなかった時点で、もう詰んでいたのだと、それは今更変えられるようなものではないことを、ようやく理解してくれたのか。
 そうだよ、“あの夏”は帰ってこない。そもそも君のものではないんだから。君が自らの手で経験することも、ありえない。歳月とコスト、社会的信用を浪費してまで紙粘土で手を汚すのはやめたほうがいい。
 うん、よかったはずだよ。ずっとこの時を待っていたんだ。ずっと、ずっとね。待っていたんだ。──そのはずなのに、まだ心苦しい。

 クラウドにアップロードされた高校の頃の夏が、目に飛び込んでくる。入道雲が、鉄塔が、今はごみ処理施設に変わってしまった堤防が、僕に「忘れるな」と語りかけてくる。六速の自転車を必死に漕いだ拍動を。ワイシャツが張りつくような汗の不快感を。稲妻とともに追ってくる積乱雲の恐怖を。仄暗い夜の涼やかな寂しさを。二度とは見られない数々の絶景を。
「お前はこれを追いかけていたはずだ」と。「お前の求める憧憬は、ここに収まる以上のものだろう」と。語りかける。騒ぎ立てる。桿体を絞るように駆け巡って、脊椎から下の感覚を奪い取ってしまう。

 まだ、お前はいるのか。
 24歳にもなって、まだお前に怯えないといけないのか。
 社会的成果を出して、後ろ歩きから踵を返せるようになってもなお、お前だけが裾を引く。
 ──いや、やっぱり変化したのかもしれない。今はただ、お前とのこれからを考えると楽しいよ。

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