「エモい」論

エモい、という言葉はずいぶん世に膾炙したと思う。
辞書を引いてみようという気持ちにはならないが、体感ほぼすべての人が知っている言葉になったのではないだろうか。
エモい音楽、エモい光景、エモい文章、エモい感情……。

僕はこの「エモい」という言葉が、嫌いである。
いや、言葉は正確に表現するべきか。便利な言葉だとは思っているが、好ましくは感じていない。人が使っているのを聞いて反感を覚えることはないし、なんなら自分でも進んで使う。ただ、その語の在り方について話題が移ると、とてもではないが受容しようという気分ではなくなるのだ。

それはこの言葉の軽薄さや他の言葉を蹂躙してしまうほど広範に影響を及ぼす語義に由来している。
エモいという言葉は、どこか軽い。息よりも軽いから絶景を見るとすぐに口から出てきてしまうけれど、本当に感情と向き合うつもりなら、こんな言葉は使わないに限る。エモいは全ての感情を駆逐してしまった。他の若者に直接聞いてみたことはないけれど、感動するなにかに直面したときに言葉を選ぶなんて経験はもうされないのではないだろうか。

そして、なによりも気に食わないのが、この言葉を感情の最高点として崇拝し悦に入る人間がいることだ。
僕の「エモい」への反感も、元をたどればこういった人間への忌避感が最初だった。
それは2018年、以下のツイートだった。
「ドイツには「懐かしい」って言葉がないらしくて、日本で初めて懐かしいって言葉と意味を知ったドイツ人の方が「今までそういう気持ちを感じたことはあったけど、この気持ちに名前がある事に感動した」って言ってた。今エモいって言葉が流行っているのも、やっとその感情に名前がついたからだと思う。」
このツイートは10万以上のいいねを獲得していた。それは別にいいのだ。ただ、どうにも「『エモい』はこの未知で特有の感情を表していたのか!」と驚愕する人が多いのだ。

言わせてもらうが、言葉を知らなすぎるだけだ。
この頃のエモいは、「形容しがたい感情」の意で使われていたように思う。もやもやとした何かを生み出す事物は、全てがエモかった。
「エモい」の意味は、だんだんと変化してきている。「”Emotional”が語源だから、嬉しいとかプラスの感動を表す語ですよ」とバイト先の後輩は言っていたけれど、これはもっぱら最近の認識で、”Chill”の台頭によって奪われた部分が大きい。
”Chill”が落ち着きのある、お洒落な感動や感傷を表す言葉としてまた流行り出したがために、エモいの語義が変化したのだ。
最初期のエモいは、単純な感動のほか、マイナスの感傷、ノスタルジアなど、喜怒哀楽以外全ての感情を含む包括的な概念だった。綺麗なものはとりあえずエモい。海に沈む夕日、人のいないバス停、入道雲。すべてが「エモい」だった。
それらにはすべて別の言葉が用意されている。「感動」は言わずもがな、「感傷」、「ノスタルジア」、「憧憬」、「郷愁」。そもそも古典を勉強していれば「をかし」「詫び錆」あたりのニュアンスくらいパッと思いつくだろう。
つまり、日本人は「エモい」という言葉で感情を知ったのではなく、元からあったはずの感情を、ありえないほど馬鹿で無知なために表現できなくなっただけなのである。

エモいという言葉は良い感情だ。便利だし、包括的である分、適応できる範囲が広い。
ただ、猫は動物であっても、動物は猫ではない。個別の感情まで全てエモいで片付けられ、なおかつそれを「やっとその感情に名前がついた」などと宣われたのでは、堪ったものではないのだ。

「エモい」という感情は色鮮やかなグラデーションを持っている。しかし、いまやエモいという言葉で記され、描出された作品は彩度だけを高めた写真のように不均衡で脆弱だ。おまけに下水を流れる油のようにドギツイ光ばかり放っている。
これは「エモい」に限らない話だが、近年は美しく在ったはずの感情を、お洒落にまみれた人間が土足で踏み荒らし醜悪な肉塊にしてしまうことが多い。このことについては後程書こうと思うが、「エモい」がこの動向を扇動する一端になったことは間違いない。
この包括的な概念に未知を刺激された無学な人間たちが、それぞれ好き勝手な感情にそれを当てはめ、静謐のなかで吐かなく、寂しげにあった美しいものたちを破壊するようになった。

だから僕は、「エモい」が嫌いなのだ。
「エモい」という言葉と感情、それらが生んだ浅学無知に崇め奉る人間たち。

僕はそれを、拒絶する。

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