「独りの方が好き」。

「独りの方が好き」とか、「独りでありたい」みたいな表現が、どうも僕の意図するニュアンスと違っているのかもな、と思うことがある。
 この言葉は、常態化した孤独の摂取のために用いる表現だ。「ちょっと考える時間が欲しい」とか、「大勢と過ごして気疲れした」みたいな特有個別の事象に引っ張り出されては使わない。

「独りの方が好き。」
 まあ、好きだ。独りなら何をしてもいいんだから。
 どんな服を着ようと、なにを食べようと、いつ起きようと、生きていようがいまいが、究極的に他者と隔絶された自由がある。
 自由は素晴らしい。規則の中で行われるものであれば尚更その輝きは増して見える。自由を許してくれる一人は、心地いい。
 ただ、常に孤独でありたいかといわれれば、全くそんなことはないのも確かだ。水族館や遊園地、カワセミの飛ぶ自然豊かな渓流から、香水と腐敗物の澱んだ臭いが鼻につく都会まで、誰かとその感動を共有したいときはあるるもので、俵万智ではないけれど、感想に感想で応えてくれる人がいるというのは、それだけで結構ありがたいことだったりする。
 ゆえに、「独りが好き」ではない。

 では、独りでいたいとは、どういう心情なのか。
 やはり、「自分と一緒にいたい」が一番近いのかもしれないな。

 人と関わるとき、常に理想形に似せた様態を維持してしまう。
 これはおそらく、誰しもやっていることだろうし、物珍しくもない。目上の者には従順に、友人といるときは楽しげに、後輩には穏やかに。十人十色ならぬ一人十色の人間性は常識になりつつある。誰を相手取っても態度を崩さないでいられるのは、他人の視線に気づかなくなった不感症か、全ての人間を対等以下に見做す老人くらいのものだ。
 ただ、こと僕に限っての問題点は、このペルソナを外せるような他者が存在しないこと、かつ、この仮面をつけっぱなしにする息苦しさを煩っている点にあった。
 僕は誰にも自身の中枢をさらけ出すことなく、恋人にも家族にも、「接するための顔」を、ちゃんと用意していた。神に誓って言うが、それは心の壁などではない。どちらかといえば、自己の確立の不安定性に依拠するものだ。昔から、演じること、なにか別のモノであることが好きだったから、それを今でも続けているというだけ。その結果、自身が贋作に思えて仕方ないのだけど、それは対人関係において表面化することはない。
 この強固なペルソナは、アイデンティティの喪失を意味するわけでもない。僕は僕自身の根底にあるものを正しく自覚しているし、その輪郭をなぞることも容易にできる。ただ、それを表出させようと思わないし、思えないだけだ。

 さて、話が逸れた。
 つまるところ、独りでいるという行為は、その仮面を外して自分──自己の中枢に棲む最も基本的で起源的な在り方──と共にある時間を指す。希死念慮の波に流されることも、激しく人を憎むことも、布団のなかで羞恥に悶えることだって、孤独は許してくれる。簡潔に言えば、思考の完全な解放を許してくれるわけだ。歪な思考あるいは思想を口に出したところで、咎める人も眉根を潜める人間もいない。自分だけは自分を肯定し続けてくれるからだ。
「誰かといる自分」ではなく、完全にフラットな状態の自己、その輪郭を再認識し、補正する。このために、独りでいる時間というのが必要な訳だ。

 孤独でありたいのではなく、孤独であらねばならない。
「独りのほうが好き」という表現は、このニュアンスの差異から腑に落ちないのかもしれない。

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