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If I lived, うぃず 郷愁

「神隠しの真相」というフリーBGMを聞きながら、何も悲しくないはずなのに涙が出た。
 高校に入ってからだろうか。存在しない過去に焦がれてばかりいるのは。

 現実や現在が気に食わないのではない。現状に不満がないとまでは言わないが、満足していないのかと問われれば、首を横に振る。それなりの人生を送ってきたつもりだ。いつも楽な方へ、逃げ道を作っては選択したつもりになって歩いたから、苦境に立った覚えも、何事かが辛かった覚えもない。

 それでもというか、だからこそというか、ずっと心苦しい。

 高校に入って、二度と自分は合唱をしないのだろうと気づいた時、東京のビル街で花開く桜を見た時、SLで山間の親戚の家に行った夏休みを思い出すとき、ずっと人生をやり直したいと思う。
 失敗したんじゃない。選択できなかった。一度きりの人生なんだから当たり前だ。そんなことわかりきっているのに、都会に生まれてみたかったし、田舎に生まれてみたかった。女の子として生まれてもみたかったし、他人を拒絶する一匹狼でもありたかった。なにか一芸に秀でてみたかったし、多才でもありたかった。人生全部を懸けてもいいほどの出会いに巡り合い、どうしようもないほどの破滅を迎えたかった。
 著名な人の言葉に、「もし人が自分の一度の人生に満足できれば、小説は生まれない」という言葉があるらしい。誰の言葉なのか確認し損ねて、検索しても見つからないから、エビデンスはない。「銀」という文字がつく人か本の言葉だった気がする。
 そう、人生をやりなおしたいんだ。あるいは、複数の人生を経験したい。
 旅先で細い路地を見かけるたび、自分が一生見ることのない景色があることに辟易する。それが刻一刻と変化していって、すべてを瞳に収めることは不可能だと気づいて、絶望する。
 東京にはたくさんの人がいた。両手では足りないし、数えるのもあほらしいくらいの人だ。それだけの人生が小さな駅のホーム、巨大なオフィスビルに凝縮されていると思うと、冗談でなく吐きそうになる。それだけの人生がそれぞれの思考のもと運用されている事実を実感すると、とてもじゃないが正気ではいられなかった。

 ずっと、過去が好きだ。
 美しく、映画のようにドラマチックで、代替の利かない、存在しない過去。

 何者でもない自分。何物にもなれない自分。特別にならなくてもいいんだよと励ます人の手を振り払って、唯一であり、個人でありたい自分。そして、そんなにも自己であるというのに、一億分の一である自分。

 それを忘れさせてくれる、麻酔のような楽園が、過去なんだ。
 そこでは、誰かとして在れる人生が広がっている。誰かになることのできた可能性が広がっている。そして、そうなれなかった自分が醜く反射するからこそ、童話の中は一層強い輝きを放つ。
 物語とは常に最高潮の状態を維持する。これは感情路線の話ではなく、物語という世界そのものだ。ウィリアムスンの言のごとく、理想郷がそこで永遠に揺蕩っている。一番美しい部分を見ているからこそ、僕はそれに焦がれるのだろう。
 スポーツ漫画に熱中できるのは、彼らが勉強に集中しないからだ。ファンタジーに没頭できるのは、彼らが排泄を意識しないから。不要な部分が世界から切除されているからこそ、憧れる。
 頭では分かっているけれど、この衝動を抑えることができない。
 死にたいと思ったことはない。人生はひどく美しいから。どんなに現実が過酷で冷淡だろうと、世界には美しさが転がっているから、憲法12条に引っかかるくらいの低空飛行で、そういうものに触れていればいい。

 ずっと郷愁に浸っている。すべてを放り捨てて田舎にでも逃げ出したいと、ふと思うことがある。きっと、そこに僕の望んだ世界はない。僕はそこでも、誰かじゃない数字のままだ。分かってる。でも、誰かになれるかもしれないなら、ずっと顔のないエキストラとして生きるよりは、とても正常に見えるんだ。
 でも、人生をやり直すのはとても難しい。生きていくにはお金がいるし、社会的信頼というのは醸成するのに時間がかかる。人付き合いでは愛想よくいたいし、社会で成功することだって立派なことなのだ。だからこそ、選び難い。
 郷愁一本に絞って、理想の過去を探し求めて歩くことは、きっとできると思う。趣味をかなぐり捨てて、娯楽雑誌を古紙類のゴミにまとめて、ただただ思い出を探し求める。その生き方を選ぶことは、できる。
 でも、それで何を得られるのだろう。ありもしない過去に取りつかれて、美しいものに涙を流してばかりいて行き着く先は、一体どこだというんだ。僕がその人生を生きられるわけではない。その人生を見て、生き方を改められるようなこともない。どうして僕はこうなってしまったのだと自傷を繰り返すだけの行為に、価値があるとは思えない。
 皆が口をそろえたように言う。「どうして思い出ばかり浸ってるの」「過ぎたことは仕方ない」「過去は変えられないよ」。分かってるんだ、そんなこと。でも、振り向いてしまうんだ。
「ノスタルジーが好きなんじゃなくて、ノスタルジーに浸っている自分が好きなんでしょ?」そうであったらどれだけ楽だったことか。夜中、すべてをやり直したい衝動に駆られて、それでもきっと人生は美しいのだからと自身を慰める夜を、君は知らないからそんなことを言うのだ。ただ、自分が好きであれたら、自分を何者かであると認めることができたなら、こんなにも過去ばかり見つめることなんてなかったはずなのに。
 ずっと苦しい。「想像力が豊かだね」とか「ちょっと特殊な感性だよね」とか、そういうことを言われるたびに自分が除け者にされたような疎外感と、他人とは違うというかすかな優越感を覚える自分が、憎くて仕方がない。
 でも、泣いたって仕方がないよな。きっとみんな、真っ当に人生を生きていく覚悟ができているのだ。大人ぶって見栄と虚勢で塗り固めてばかりで、未熟な感性から目をそらし続けた僕が子供すぎるだけなのだ。
 エモいとか、チルってるとか、軽率な言葉を使うなよと思うけど、きっと彼らの方が人間としては圧倒的に正しい。Twitterで賢しらに傷を見せびらかしているより、Instagramのストーリーに洒落たカフェを投稿する方が、百倍正しい。麻薬のように常用して、未来や現実との狭間でのたうち回っているような人間こそ、間違っている。
 でも僕は、そっち側にはなれなかった。

 繰り返すようだけど、死にたいとは思わない。
 人生には満足しているから、やり直したい、というのも違うだろう。
 ただ、物語のようにありたかった。誰かとして、劇的な生を送りたかった。
 明日もきっと、まともな人生を送るだろう。人当たりがいいねぇ、まじめだねぇと言われながら、そんな自分を自覚しつつ、社会的な成果を出す。
 どれだけ過去ばかり眺めても、その湖に飛び込み溺れるほどの勇気はない。在りもしない過去に涙を流し、懐古する夜が、これからも続いていくとしても。
 この凶器のような郷愁は、きっと抱え込んだままでいい。刃物のように振り回したいけれど、正常から排斥され、社会からつま弾きにされるのは目に見えている。
 それを曝け出すときは多分、すべてを失っていいと思える時で、そんな瞬間はきっと、訪れることはない。

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