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本がなければ生きてこられなかった

本が自分にとってどういう存在なのかを考えてみた。

本に救われてきた

本は人生を豊かにするというけれど、私にとってはもっと切実なものだ。プラスαというよりも、マイナスを少なくする装置だったように思う。
続くと心肺停止になるような状態を止めてくれるAEDのようなもの、降りかかる火の粉から身を守ってくれるシェルターのようなもの、騒音を遮断してくれる耳栓のようなものだった。本は私を現実から逃がして、生かしてきてくれた。

小中学生の頃の息継ぎとしての読書

人生を振り返って、読書に救われていたと一番感じるのは小中学生の頃だ。
小学校も中学校も大嫌いだった。学校にいる時間の多くがつまらなかった記憶がある。自分はこんなところでこんな扱いを受けるべきではないと思っていたけれど、自分の力では抜け出せないことが辛く、息ができない場所だった。家は安心できる場所で家族は大好きだったけど、学校で過ごす時間があまりに長すぎた。
そんな中で本はもう一つの世界だった。本の世界は現実と同じくらいの質量を持っていて、現実よりもずっと酷いことも辛いこともたくさん起きるけど、学校よりもずっとずっと奥行きも天井も広い世界だった。これはどこかの世界の本当のことだと思えたから、酸素があると思った。本の世界ではやっと息ができた。
小学校の高学年になってからは市民図書館に通ってたくさんの本を読んだ。活字中毒と言ってもよかったように思う。学校帰りも歩きながら読んでいたし(あぶない)、毎晩寝る前に横になって読んでいたので今でも左右の視力が大きく違う。あの頃は、本がなければ自分が保てなかった。

今の私と子供の頃の私を繋ぐのは本だと思うことがある。布団に横になって薄暗い中本を読んでいると子供の頃に戻ったような気がする。

高校生〜大学生の頃の深呼吸としての読書

学区から抜け出して自分の選んだ高校に行った。毎日楽しくて楽しくて、現実でも息ができるようになって、そうなると息継ぎとしての読書は必要なくなった。それでも本はたくさん読んだ。
現実が忙しくて、好きな人達と話すのが幸せで、やりたいことが沢山あって、体力も無尽蔵だったから全然疲れなかった。そんな現実でも、いくら楽しくても、それでもやっぱり狭くて、息が早くなったり浅くなったりした。幸せだけど狭い現実からいったん別の広い世界に行くことは必要なことだった。本を読むことは深呼吸になった。

大学院生の頃の息継ぎとしての読書

大学院からは、また息ができないことがたまに出てきて、息継ぎとしての読書という感覚が戻ってきたように思う。
読書さえできないときもあった。時間を作って本を開いても内容が頭に入ってこなかった。文字が追えなかった。これは異常事態だと思って病院に行ったらストレスで体がおかしなことになっていた。本は健康の危機も教えてくれた。


現在の読書

そして今は、頭が勝手に仕事や人間関係のいろんなことをノンストップで考え続けてしまうのを、読書が一時停止させてくれる感じがする。映画や音楽では一時停止力が弱い、本が一番強い。
ちょうど息継ぎと深呼吸の間くらいの役割を果たしてくれている。


これからも死ぬときまできっと、本は私を苦しい現実からも幸せな現実からも逃がしてくれる。

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