見出し画像

【小説】ホケミ

 あっ、と声を上げるより先に、目の前が真っ白になった。舞い上がる白、噎せ返る息、微かに広がる甘い香り。銀色のボウルが床に落ち、がんらがんらと場違いな音を立てる。
「あーっ!!」
 正面で作業をしていた同じグループの女性は、まず僕自身の惨状を見、それから作業台に広がった雪原を目にして大声を上げた。素っ頓狂な声に全員がこちらを振り向き、即座に状況を察知してどよめきだす。

 あーあ、とどこか他人事のように思う。落ちたボウルは幸いこれから使う予定だった空のものなので、大袈裟な音ほどの被害はなさそうだ。心の内では戸惑いと焦りで動悸が止まないのに冷静な自分を、ここでも場違いだと感じた。
「大丈夫ですか……?」
 子供と二人で参加している女性が、横から顔を覗きこんでくる。僕の心配よりも現場の心配を先にすべきなのに、親切なのか呑気なのか。「あ、大丈夫です。すいません、ちょっとこれ、どうにかしてきます」
 僕のエプロンはホットケーキミックスで白く染まっている。これ以外は材料無事なんで、続けててください。子連れの女性も声を上げた女性もどうぞとは口にしつつも、他の参加者たちと同じように、遠巻きに僕のことを眺めていた。講師が何か言いたげにこちらへ近づいてきたが、僕は講師とは反対側のガラス戸から教室を出て、そのまま施設の外へ飛び出した。

 商業施設の裏の通りは、駅前だというのに人気がない。今日のためにわざわざ新調したエプロンを叩きながら、道を挟んだ向かい側で煙草を吸うスーツ姿のサラリーマンを見るともなしに見る。そうだ、今日は平日だ。晴れ渡る青空に小鳥の囀りすら聞こえてくる、静かな平日。
 こんなとき、三崎さんならなんて言うだろう。情けない男だと、思うだろうか。僕も煙草を吸いたくなりふと取り出したが、臭いがつくことに気がついてやめる。仕事を休んで、僕はいったい何をしているのだろうか。いくら払ってもこびりついて取れない白にため息をつき、施設の扉を再び開く。

 駅に直結したこの商業施設で日々料理教室が開かれているのは、普段通り過ぎるだけの僕でも知っていた。なぜなら教室として使われる空間が全面ガラス張りになっており、食欲の誘われる匂いとともにエプロン姿の老若男女たちが作業をしているのが丸見えだからだ。まさか自分がその中の一員になろうとは、思いもしなかったが。

 教室のドアからそっと身を滑りこませても、参加者はみんな作業に集中していたおかげで少々目立った僕の帰りには気づかなかった。グループの女性二人は僕が戻ると、いやに親しげに声をかけてくる。あら大丈夫だったー? とか、今の間にここまで進んだのよー、とか。どうやら僕のいない間に奥様方は打ち解けていたらしい。彼女とデートをしていたら、たまたま出くわした彼女の友人と行動を共にするはめになったかのような空気感だ。もちろん僕はどちらとも付き合っていないし、ましてや初対面なのはともかくとして。

 僕がへこへこしながら作業の進み具合を確認していると、子連れの女性がにこやかに話しかけてきた。
山谷やまやさん、だったっけ、ホケミも新しいのもらえたから問題なかったわよ」
「え、はあ、ホケミ……」
 初めて耳にするワードに戸惑う僕にも構わず、声の大きな女性も「そうそう。先生も大丈夫って言ってたからね」と便乗してくる。
 見渡してみると、今回の講座はホワイトデー前なのもあって男性の参加率は低くない。しかし彼らはみんな爽やかな笑顔と気さくな口調を絶やさず、主婦たちともうまくやれているようだ。ホケミ、などという摩訶不思議な呪文を理解できていないのは、僕だけなのかもしれない。その言葉は講座が終わるまで、脳内をぐるぐると回り続けていたのだった。

「え、あたし、山谷くんにバレンタインあげたっけ」
 開口一番それだった。部署の先輩の三崎さんは怪訝な表情で、デスクから僕を見上げている。いくら眉間に皺が寄っていても、三崎さんの上目遣いは美しい。いや、そんなことより三崎さんに気を遣わせてしまっている。バレンタインのお菓子をあげた覚えのない相手からいきなりホワイトデーに物をもらったら、そりゃ戸惑いはするものだろう。
「や、もらってないっす。ただ、なんか、ホワイトデーだし、お菓子とかあげてみようかな、なんて」
「なあにそれ。山谷くんって変なの。でもこれ、手作りじゃない? 山谷くん料理できるの?」
「え、まあ、はは、ちょっと」

 このためにわざわざ料理教室に行っただなんて誰が言えようか。三崎さんの手の中にある、参加者共通のラッピングを見つめる。その嘘っぽさに無性に腹が立ってきて、僕は「いいから食べてみてくださいよ」と口にしていた。三崎さんは疑心暗鬼だった割にあっさりと封を開け、じゃお言葉に甘えて、と中身を取り出す。

 昨日できたばかりのガトーショコラは、料理教室で作っただけあって艶めいた存在感を放っている。ふわ、と香るチョコレートが甘い。三崎さんも目を見開いて、へえ、おいしそう、と思わずといった調子でつぶやいた。ひとまず第一印象は上々だ。
 はくり、と三崎さんが僕(のグループ)が作ったガトーショコラを齧る。三崎さんの口内に、僕(のグループ)のガトーショコラが飲み込まれていく。僕(以下略)のガトーショコラはたった今、三崎さんの血となり肉となり、三崎さんの命を動かすエネルギーへと変遷を遂げるのだ。なんなら脂肪にも加担するかもしれない。その曲げようのない事実に僕はいたく興奮した。

 だから三崎さんの表情が、咀嚼すればするほど険しくなっていたことに気づくのが遅れた。ガトーショコラを半分ほど食べ進めたところで、三崎さんはふと手を止めた。
「……山谷くん、これ、ホケミ多すぎたんじゃない?」
「は? ホケミ?」
「なんかちょっと、粉っぽいかな。ホケミをもう少し減らすとか、生クリームを足してみるとかしてもよかったかもね」
 気がつけばいつもの仕事の口調で、三崎さんは僕に何やらアドバイスをしてくれている。ここでもホケミ、だ。僕の脳内は再び謎の呪文で埋め尽くされ、ホケミの大海原へと放り出される。

 あの、ホケミってなんなんですか。恥を忍んで尋ねようとしたら、横からふっと、別の甘い香りが漂ってきた。
「あら、岡田じゃない」
「やあ三崎。……と、えーっと」
「あ、山谷です」
 僕より頭一つ分も大きいんじゃないかと思えるほどの長身細身の男は、ほんの一瞬だが確かに、僕を値踏みするように見下ろしてきた。確か、三崎さんの同期だったはずだ。岡田と呼ばれた男は図々しくも三崎さんのデスクに片手をつき、三崎さんに顔を寄せる。そしてもう片方の手で紙袋をまさぐった後、仰々しい動きで三崎さんに小包を差し出した。

「ええっ、何これ」
「チーズケーキだよ。ほら、ホワイトデーの」
 岡田とやらはお、か、え、し、と小声で三崎さんに耳打ちする。あからさますぎて、もはやいやらしさすら感じない。三崎さんはこいつにバレンタインをあげた。そしてこいつは三崎さんにホワイトデーのお返しをした。成り立っている、と僕は思った。この二人の間ではきちんと、バレンタインが成り立っている。

 三崎さんはえーやったあ嬉しい、チーズケーキ大好きーっと嬌声を上げる。僕のガトーショコラは机の端に追いやられ、三崎さんはその場でチーズケーキを頬張りだした。チーズとレモンの緩みきった甘酸っぱさが鼻につく。
「ん、んん。おいひー! そうそう、このしっとり感! これよこれ、山谷くん、あたしが欲しいのはこれ」
「なんだそれ。彼にもお返しもらったのか?」
「ううん。山谷くんはね、自分で作ったのを持ってきてくれたのよ」
 いまいち回答になりきっていない三崎さんの言葉の後、岡田はちらりと僕を一瞥いちべつした。そうかこいつは三崎にバレンタインをもらったわけじゃないんだなとか、そんなところだろう。でもいいのだ。僕は僕の作ったものを三崎さんに受け取ってもらえただけで、それどころか口にして体内に吸収してもらえただけで万々歳なのだから。

 ところが気がつくと、なぜか岡田が僕のガトーショコラを口に入れていた。全て三崎さんのものになるはずだった僕のガトーショコラが、三崎さんの食べさしのガトーショコラが。
「んー、確かにホケミだな」
「ね、ホケミでしょう」
「うん、ホケミだ。ホケミが多すぎるなこれは」
 まただ。またこれだ。ホケミという単語が出てくるたびに、ホケミを知る者、知らない者とで線引きをされ、僕は追放される。三崎さんの残したガトーショコラは岡田の腹に吸い込まれ、結局僕のガトーショコラは三崎さんと岡田の身体を構成する共通の栄養素となっただけだった。ホケミがなんだ。ホケミごときでこんな惨めな思いをするだなんて、もうまっぴらごめんだ。

 僕が踵を返し自分の席へ戻ろうとすると、岡田も僕のあとについてきた。
「ホケミって、あれだよ、ホットケーキミックスのことな」
 図星を突かれ、どうやら先ほどの心の声が漏れていたらしいことに気づく。僕は咄嗟に、へえ、ああ、そうでしたね、といかにも知っていた風を装って生返事をするしかなかった。席に着くと、岡田がさっき三崎さんにもしたように、僕の机に片手をつく。岡田の手はごつごつと骨ばっていて細長く、嫌味ったらしい。

「ちなみに俺のあれ、天満屋の地下で買ってきたやつなんだよな。次はデパートのでいいよ。あいつ、既製品と手作りの違いなんかわかんねえんだから」
 何がいいよ、だ。なんでお前に三崎さんへのプレゼントを指示されなくちゃならないんだ。なんでお前ごときが三崎さんの好みを熟知してるんだ。苛立ち紛れに出てきたのはしかし、そんな威勢のいい言葉ではなかった。
「……ホケミの違いには気づいたくせに」
 だっはっは、と岡田は豪快に笑って去っていく。あんな笑い方をするのに下品にならないところが、高身長イケメンのずるいところだ。その後ろ姿を眺めながら、次なんか、と思った。だけど三崎さんがガトーショコラを口にした瞬間の言いようのない高揚感を思い出すと、やはり無性に癖になるような、妙な気分に襲われるのだった。


あとがきっぽい言い訳

迷いが出ていますね。ホワイトデー小説でした。
短い小説はそろそろ卒業しなきゃいけないな、と思う今日この頃です。ここまで読んでくださりありがとうございました。

まう

この記事が参加している募集

至福のスイーツ

恋愛小説が好き

ご自身のためにお金を使っていただきたいところですが、私なんかにコーヒー1杯分の心をいただけるのなら。あ、クリームソーダも可です。