【小説】跡


 ──形跡。

 今日も彼女はここにいた。その跡を指でそっとなぞりながら、目を閉じて彼女の呼吸に思いを馳せる。

 もういない人を迎え入れることが、僕の日課となっていた。きっと二度と会えることはない。それでも、彼女はいつだってちゃんとここに来る。

 僕は使わないマグカップ、コンビニ弁当の空箱、シワのついたベッド、一定のテンポを刻む流し台の蛇口。僅かに漂うコーヒーと香水の残り香は、紛れもなく彼女のものだった。それを感じることができるだけで、僕はじゅうぶん、幸せだ。

 確かにそこにいた跡はあるというのに、この一つ屋根の下、僕らは一生交わらない。それはすでに決まっていたことだ。この世の理と言えるほどには確実なものだ。だから僕にとって彼女は、在るのにいない。

 彼女の残したものを片付け、シャワールームで身を清める。そうして彼女が横たわったであろうベッドに身体を沈める。枕に顔を埋めると、甘く爽やかな彼女の匂いがした。僕はもう、これがないと眠りにつけない。彼女がベッドの脇で子守唄を歌ってくれる、今日はそんな夢を見た。


 目が覚めてからやることも決まっている。彼女の香りを落とすため、僕は再び身を清める。朝食をとり、一通りの朝の準備を済ませてから部屋中を掃除する。髪の毛が一本も残らぬよう、僕の形跡を残さぬよう。僕ばっかりがこうするしかないみたいだ、結局。でもこうなることは見越していたから気にしてはいない。むしろそれが彼女らしいところでもある。

 仕方ないんだ。これが僕らの約束、そして使命なのだから。

 家を出る。どうやら日が長くなりつつあるらしい。夕焼けを目にしたのは、ほんとうに久しぶりのことだった。オレンジ、ピンク、紫、赤──僕らが変わっても、世界は何も変わらない。世界にとっては、僕たちがどう生きようが何を考えようが関係ない。世界は僕らを生かしてくれている。それだけでいいじゃないか。

 彼女が不慮の事故で亡くなったという知らせを耳にしたのは、その直後のことだった。僕が眠っている間の出来事だった。



 僕らがまだ学生だった頃、世界中の人類は二分された。昼に生きる者と、夜に生きる者。もっと言うと、昼にしか生きられない人間と、夜にしか生きられない人間ができた。それは生まれつきの遺伝子だったり、それぞれの身体に合ったリズムだったり、そういうものを基準に分けられる。

 男女の割合と同じように、昼夜の割合もほとんど半分ずつだった。夜がちょっと多いくらい。ただ男女とは違って、僕らは同じ時間を共有することができない。一緒に過ごすということができなくなったのだ。必要なくなった、という方が正しいのかもしれない。

 どの国でも、24時間常に世界の半分が働くようになった。子供たちも半分ずつ学校へ行く。昼に生きる者はこれまで通り朝起きて、昼間に活動して、日が暮れる頃には家に帰り、眠りにつく。夜に生きる者は日が暮れる頃に目を覚まし、真夜中に活動し、朝日とともに眠る。いつしか人々はそれぞれを『昼の民』『夜の民』と呼ぶようになった。

 僕は夜の民になった。元から夜型の生活リズムだったから、その生活の変化もさほど苦にはならなかった。むしろ暗くなってからの方が覚醒できるし、僕の作業能率は以前に比べて格段に上がった。さすが普段からのリズムや遺伝子に基づいているだけあって、この変化に対応しきれない人はほとんど見かけることがない。世界でも活動人口は半分ずつになったはずなのに、その経済成長は著しい。

 たった一つ気がかりなことがあるとすれば、彼女のことだ。彼女は昼の民だった。つまり、一緒だった僕らは強制的に会えなくなったのだ。政府曰く、昼の民と夜の民が交わることでそれぞれのリズムが崩れ、世界の均衡も崩れてしまうとのこと。馬鹿馬鹿しいけれど、無力な僕らは従うしかなかった。

 会うことは許されないけれど、僕らは同じ家で暮らすことに決めた。僕が家を出たあと彼女は家に帰り、彼女が家を出る頃に僕は家に帰る。

 そして僕らは約束した。空間の共有はするけれど、時間の共有は絶対にしないこと。それは政府に逆らうことになるし、僕らのリズムを乱すことにもなるからだ。だから帰宅の時間と外出の時間を示し合わせて会うこともしないし、家で互いの帰宅を待つこともしない。

 それから周囲に誤解を生まないように、空間を共有していることも極力隠すこと。空間の共有は時間の共有と同義だという考えは往々にしてある。だからバレると面倒なのだ。僕らがやっているのは、ホテルの清掃員がそれ以前の客の跡を残すまいと客室を掃除するのと同じことだ。とはいえ彼女はこうしてしょっちゅうサボるのだが、おそらく職場ではうまく隠すことができているのだろう。彼女はそういう器用さを持った人だった。

 僕だって彼女の匂いを纏ったまま外へ出たいし、僕の形跡を彼女のために残しておきたい。でもできない、臆病だから。僕が彼女の残り香とともに日々を過ごせないことよりも、どこかで僕らの行動が誤解されて今度こそ彼女と何も共有できなくなることの方が、こわかった。一緒にはいられないけれど、僕らは確かに一つ屋根の下に暮らしている。それだけでいい。それだけでよかったのに。


「ほんとうに、一緒にいられなくなるんだ」

「そうだよ」

「でも、ちゃんとここで二人で暮らせるんだよね」

「そうだよ」

「寂しくないの? 君は」

「……寂しいなんて言わないもん」

 この部屋にまだ何もなかった頃、真っ白で無機質な空間で僕らは最後の夜を過ごした。それは僕が夜を眠って過ごす最後の日になった。

 二人が一緒にいられる唯一の方法を、僕らは探し続けた。そうしてこの部屋を見つけた。色のない方が互いのことを感じずに済むだろうと、家具も一式白色に統一した。その考えは甘かった。インテリアどころか色すらないこの部屋は、かえって彼女の形跡を際立たせた。忘れていったアクセサリーでもいい、タンスからはみ出た服でもいい、髪の毛一本でもいい。君の跡を、君のいた証を求めることに僕は執着し続けていた。

 だけど寂しがりやは僕だけじゃなかった。彼女はこうやって、わざと僕にここにいたことを教えてくれる。寂しがる僕への親切なんかじゃない。彼女も気づいて欲しいんだ、そして、僕にも同じことをしてほしいんだ。その想いが、マグカップや弁当の空箱や締めきれなかった蛇口には溢れていた。


 ──私はここにいるよ。

 僕だって応えたかった。

 ──気づいてよ。

 気づいてるよ。

 ──あなたの存在も教えてよ。

 ごめんね。

 もっと、僕の跡を残してあげればよかったのかもしれない。政府に逆らおうが、周りに何を言われようが関係ないと強気でいられたらよかったのかもしれない。君の帰宅を密かに待って、誰にも知られないように君との逢瀬を楽しめばよかったのかもしれない。

 わからない、僕はどうすればよかったのか、何をしてあげられたのか、わからない。僕にとって、もはや君はいないも同然だった。そうするしかなかった。だから、これが喪失感や寂寥感の持つそれなのかどうかすらわからない。ただ僕は、君に会いたかった。いつか会える日を信じて待ち焦がれていた。だけど、ついにそれも叶わなくなってしまったようだ。

 どうしてこんな世界になってしまったんだろう。どうして僕らは、こんな目に遭わなきゃいけなくなったんだろう。昼と夜とが完全に分かれた世界。僕らが隣にいられない世界。どうすれば、僕らは幸せになれたんだろう。

 家に帰っても彼女のマグカップは食器棚にしまわれたままだし、空になった弁当箱どころかゴミひとつ増えていないし、ベッドはちゃんとメイキングされているし、流し台の蛇口はきちんと締まっている。そこはただの真っ白で無機質な部屋。コーヒーの香りや香水の匂いがしない、僕の部屋だった。僕だけの部屋、だった。

 病的だ、と僕の中の冷静な僕が俯瞰して言った。床に這いつくばる。君の跡を探す。この部屋には何もない。君以外は何もない。僕はずっと、君が僕のために残しておいてくれる跡を待っていた。だめだと思いながらも、君を感じることができるたった一つの幸せだった。大声を上げた。だけど涙は出なかった。床に蹲ったまま、僕はそのうち眠りについた。



 葬儀は昼の民である彼女の家族とその友人たちで執り行われた、らしい。いくら付き合っていたとはいえ、籍を入れてもいなかったし入れることもできなかった僕はもちろん蚊帳の外だった。見かねた大学時代の友人がそっと連絡を寄越してくれて、葬儀の様子を軽く伝えてくれた。僕にはそれだけで充分だったと思う。

 僕は彼女の事故現場を見たわけでもないし、葬式で死に顔を見たわけでもない。だからやっぱり完全には実感がないままだった。むしろその方がいいと思った。彼女に会えない悲しみに暮れるのには、もう飽き飽きしていたから。

 ただあれからしばらくの間、どうやって仕事をしていたのかが思い出せない。特別大きなミスはしていなかったようだけれど、そういえば周囲からの視線がなんとなく同情めいたというか、腫れ物に触るような態度だったような気がする。僕はいったい、どんな顔で日々を過ごしていたのだろう。


「心ここに在らずとはこのことかって知れたよ、お前の表情でな」

「そんなにやばい顔してたの?」

「うん、やばかった。今にも死ぬんじゃないかって心配したぞ俺は」

 何もできなかったけどな、と同僚の山内は自嘲気味に声を落とした。

「恋人が亡くなったって聞いてさ、しかも昼の民だって言うじゃん。うわ、会えなかった上に葬式にも行けねえのかって、同情ではないけど俺も頭抱えてさ。俺なら耐えらんないよ」

「そう思ってくれてただけで嬉しいよ」

「……よく生きててくれたな」

 山内があまりにもしんみりとするもんだから、僕は思わず「やめろよ」とそいつの肩を小突く。ちょっと情に厚すぎるのがいいところではあるのだけれど。

「でもさ、世界が変わっても昼夜を越えて結ばれてる人たちもいたんだなって、ちょっと感動した。俺も元カノが昼の民だけど、一緒にいられねえから別れたんだ。だからお前はすごいよ」

「すごくなんかないよ。僕はたぶん、彼女に依存してたんだと思う。彼女がいないと生きていけないって思ってたんだ。だけど今、こうして生きてる」

 不思議なものだ。あれからもう半年が経つ。彼女のことは忘れていないし、忘れようと思ったこともない。いつも通り家を出る前にはきちんと部屋の掃除をして、淡々と毎日を過ごし、一人の人生を歩んでいる。

 変わったことといえば、毎朝コーヒーを淹れるようになった。コーヒーの深みのある香りはそれだけで僕の頭をはっきりさせてくれるし、どことなく落ち着く。最初は彼女の纏っていた匂いだからと半ば執着心から飲み始めたのだけれど、今は単純にコーヒーを好んでいる。そこに彼女の影があろうとなかろうと、今は関係ない気がする。

 それから、白一色だった部屋に少しずつ彩りを加えてみている。帰宅とともに部屋に差し込んでくる朝日がインテリアを明るく照らす様子を見るのも悪くない。彼女の代わりに、今度は僕が僕の跡をこの部屋に残していこうと思う。



あとがき
(下書きですがこれで完成してます。最後まで読んでくださった方限定です)



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