Gentenkaiki ~何のために始めたのか~

今回は上記のテーマで書いていきたいと思います。

3日坊主からの脱却

これがまずnoteを始めるにあたっての大目的でした。
それからテキスト連続投稿を始めて347日が経過。
万年3日坊主を自覚していた私ですが、ここにきて反例を築いたようです。

とはいえ結構頑張ったという自負もあります。

それこそ「今日はしんどいなー」とか、「今日は休んじゃおうかなー」なんて思う日もはじめのころは度々・・・いや、毎日ありました。

いわゆる自分の中の『悪魔』が、いや、とらえ方を変えれば『天使の顔をした悪魔』が、今日ぐらいは体を労わって寝たら?と囁くのを無視しながらパソコンに向かうことを、私の大脳皮質が彼らの口を塞ぎ続けた初めの2か月の日々。

それでも今思えば、初めのころはそんなことも考えていなかったことを思い出します。そんなスタンスではなくて、というよりもそんな余裕はなくてといったほうが正しいかもしれません。

まずは目の前の「今日」やること

始めのころは目の前の今、今日やることに集中していないと悪魔・・・いや、天使の顔をした悪魔との取引をスッと交わしてしまいそうで、ある種気を張っていたように思います。

そのような気を抜けない状況から、「つぶやき」と並行しながらアウトプットをしていくという作業を行えるようになってきたのは、自分自身のアウトプットに対するハードルが下がってきたと認識しています。

ここで感じたことは、繰り返し行っていると、行っていること自体のハードルが少しずつ下がってくるということ。ただしそれは相対的な感覚だと思っていて、もしかしたら自分自身の変化をそのように感じているということかもしれません。要はハードル自体の高さは変わっていなくて、自分自身が飛べる高さが上がったということです。

そこに対する認識は、私にとっては前者のように感じました。そのうえで、そのプロセスを俯瞰してみたときに、自分自身が変化しているという見方もあるなあと。

やってみれば、わかる

いろんな角度で自分・環境を見てみるという感覚がその瞬間に備わったということです。意外と物事はいろんな、たくさんの方向から見ることができて、それでも全体像をつかむには足りないぐらい。でも自分は1方向から見ただけで、あたかもすべてを知ったような感覚に陥ってしまっていたなあと、気づいたわけです。

苦手意識はある意味「経験」というたった1つの要素がなかっただけで、やってみると知らなかったことに気づいたり、思考の体力がついたり、何もないところから考えるという発想に行き着いたり、それこそ自分を知らないところへ連れて行ってくれる不思議な力が働いている感覚に陥ります。

やってみればわかるというのは、ある意味真意だなあと。

まずは、やってみる

まずはつべこべ言わずやってみる。
これは私が以前に複数の恩師から言われた記憶のある言葉です。
他人から言われてもなかなか信じられませんでしたが、
やってみると確かにそうだということに気づきます。

それが継続できれば自分にできることだし、
継続できなければ自分には難しいこと。
やってみなければできるかできないかもわからない。

今回は「Gentenkaiki ~なんのために始めたのか~」について書かせていただきました。
今回の1枚は、hanairoのきろくさんにいただきました。ありがとうございました。

それでは今回もご覧いただきありがとうございました。

また、明日(^^)/~~~

この記事が参加している募集

#noteのつづけ方

38,533件

#習慣にしていること

130,873件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?