自分に"向いている"こと、"向いていない"ことという価値観がなぜ価値を持つのか
今日も1日お疲れ様です(^^♪
では早速今日のnote始めていきたいと思います(^^)/
自分に"向いていない"こととは
自分にとって向いていること、
そして向いていないことって把握されていますか?
人前で話すこと。
黙々と作業すること。
球技をすること。
早く覚えること。
まず自分にとって向き不向きのことは、
他人との比較によって生じるモノという視点が重要だと思っています。
極論、この世界に自分が1人しか居なければ、
向き不向きなんて関係ないわけです。
誰かと競ったり、誰かと協力して、人類として生活するからこそ、
こういった向き不向きという価値観と共存する必要があるんだと、
そう考えています。
何を比較するのか
そして、何を他人と比較するかというと、能力発揮に要する練習の時間です。
そもそも、なぜ向き不向きが生じるかというのは、遺伝と学習のタイミング(発達)の要素が大きいんじゃないかと私は思っています。
発達の要素に関しては、
単純に幼いころの方が、年老いたころよりも、脳細胞の発達速度や筋肉、関節の柔軟性の面からも、新しいことに関する学習には向いているわけです。
他人との比較をベースに話を進めたいくのであれば、むしろ遺伝的な要素に着目した方がわかりやすいと思っていて、
もちろん後天的に能力を高めることは十分可能だと思いますが、元々その才能を持っている人と同じ環境で同じ時間練習したとしても、才能を持っている人に勝てる可能性は結構低いんじゃないかと思っています。
例えば、ウサイン・ボルト氏と同じ環境で同じ時間100m走を練習したとして、あなたはウサインボルト氏を破って、オリンピックで金メダルを取ることができるでしょうか。
彼にとってそれが『向いている』ことが分かる理由は、同じようなことをしてきた人がたくさんいたからです。
冒頭でも同じようなことを書きましたが、100m走を世界で行っている人が彼1人だったとしたら、
その向き不向きの判断は難しかったでしょう。というより、その話自体に価値は無かったと思います。
オールラウンダーになれますか?
この話が価値を持つのは、現代の人類が生きる上では、人間関係や、仕事や、教育というのが重要な要素にもかかわらず、その人によって向いていることと向いていないことがあるということです。
でも、全て"何となくできる"ことを要求される。そんな印象を受けます。
周りの評価は分かりませんが、自分だけは自分の向き不向きを理解して、向いていることに残りの人生を振った方がコスパと精神衛生上いいんじゃないかなぁと思っています。
今回は『自分に"向いている"こと、"向いていない"ことという価値観がなぜ価値を持つのか』について書かせていただきました。
また、あしたね😊✨
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