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「自己/当事者」の話。

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2018年1月の記事一覧

宿命とは「自由の所産」という話。

これまで聴覚障害のある当事者として、研究、教育、運動など実に様々なことを実践してきました。しかし、これらを実践している時は、まるで常に目に見えない「鎖」に縛られているような「宿命」をいつも感じていたものです。 また、過去に起きた偶発的な出来事は後から振り返ってみれば必然的な過程として作られたものだ、というふうに見えてしまうこともあります。これをドイツの哲学者ヘーゲルは「理性の狡知」といいます。そんなわけで一層「宿命」の重さを感じてしまうことも。 しかし実は「宿命」とは「自

「文章」にすることの話。

日本語で「文章」にするということは難しいものです。 どうしてそんなに難しいのでしょうか。これは、日本語として正しい文章を書けるかどうかということではないのです。 ここで、そもそも「文章」にするとはどういうことなのか考えてみます。劇作家であり、小説家でもある井上ひさしさんは、「文章」にすることについて大変わかりやすいことばで的確に説明しています。 「文章とは何か。これは、簡単です。作文の秘訣を一言でいえば、自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書くということだけ

きょうだいの「家族アイデンティティ」の話。

私には、3つ下の耳が聴こえる妹がいます。 妹は、両親よりも私の「音声日本語」を聴き取ることができていました。いつも一緒にいたからでしょう。両親が、私の「音声日本語」を聴き取れない時、妹が明瞭に復唱(リスピーク)してくれることがよくありました。 ただ、妹にとってその「復唱(リスピーク)」は、ちょっと特殊なものでした。家族団らんでは、両親は私のことをよく「話題」にしていたようです。 当時の聴覚障害教育では、保護者は言語指導を担わなければならないと強く求められていた時代だった

生きる「意味」の話。

生きる意味は、なんとなく求めようと思って求めることができるものではない。それが欲しくてあちこち探し回って見つかるものでもない。むしろ生きる意味は、「限界状況」に自分自身を置いて初めて感じられることが多いように思います。 「限界状況」とは、哲学者カール・ヤスパースのことばを借りれば、人間が特定既存の知識や方法をもってしても逃れることのできない状況、です。 「夜と霧」を書いた精神科医ヴィクトール・E・フランクルもそうした「限界状況」で生きて、私たち人類にとって重要なことを見出

皆を巻き込め。

これはある聾学校高等部の自立活動をエンパワメントの視点で教育実践した時、私から生徒たちに送ったメッセージです。 聾学校では自分と同じ仲間がいても、大学に進学したり企業に就職すれば、そこは自分が少数あるいは一人になるかもしれない。だから、自分のことを伝え、自分も安心して力を発揮できる環境を築く必要になる。そのために皆を巻き込むことが大事になるよ、と。 そこにいた生徒の一人は、そのことばが印象に残ったようで、大学に入学した時、聾学校とは全く異なる世界に困惑しましたが、大学と情

「使命感」と対峙する。

これは私の体験ですが、大学1年の時に、今でいう「合理的配慮」の提供を大学にお願いしたら、「それはできない、一般入試で合格したのだから自己努力で卒業しなさい」と言われ、覚書まで書かせられました。高校の時にお願いした時も、担任からは「君は聞こえなくても一人で勉強できる、君より勉強できない聞こえる友達のことを考えなさい」と。 小学生の時から児童心理学者の父が持っていた教育関係の文献を読みあさったり、両親が心理学者アドラーや戦後の幼児教育を担ってきた平井信義先生の影響で私の育て方を

「主体性」の幻想。

教育や保育の現場に行くと、「主体性」というコトバがまるで判子で押したように登場します。 でも、先生方に「主体性」って何ですか?と問うと、明確に説明できないことが多いのです。しかも先生一人ひとりが「これは主体的だ」とみなす子どもの活動の姿もまちまちなのです。 例えば、「人に言われないで自分から行うこと」。このように先生が期待して子どもがそのように行った時、「主体的だ」とみなせる。ただし、これは「支配・管理」との対立構造で考えているということができるでしょう。 しかし、それ

自分を「棚上げ」しない思索。

卒論指導は、「研究」とはどういうものかを実践しながら学ぶ経験を一緒に作っていく仕事ということができます。 研究とは、ある「ものごと」について何が真理なのかを追い求め、かつ社会的要請のある「ものごと」と向き合い、どのように解決していくのかを探求するものです。 しかし、「ものごと」をそういうふうに考えるだけではないのです。 タイトルは、「生命学」を提唱した哲学者の森岡正博先生の本から引用したものですが、森岡先生は次のように述べています。 自分を棚上げせずにものごとを考えて

「新しい傷」の話。

聴覚障害関係の専門書を読むと、「聴覚障害は、コミュニケーション障害でもある」と、まるで聴覚障害がある側のみに生じる障害として語られている文章にであいます。まるで「聴覚障害がないことはコミュニケーション障害でもある」という事柄がないかのような語り方です。それは「コミュニケーション不全」に関する語りでも同様のことが言えます。 このような語り方は、読者に、聴覚障害当事者にはコミュニケーション障害/不全に陥り、聴覚障害がない者は陥らないかのようなまなざしを生成する可能性があります。

私にとっての「図書室」。

以下の文章は、宮城教育大学附属図書館発行の学内雑誌(2006)に寄稿した拙稿を一部改変したものです。  小・中学校時代の「図書室」は、紛れも無く私の精神的な孤独を癒し、ファンタジーや虚構などの世界から生きる意味を追求する姿勢を励ましてくれる場所でした。灰谷健次郎が青年期の孤独と葛藤を著した長編の「我利馬の船出」、スポーツ、恋愛、家族との関係で揺れ動く青年の青春を爽やかに書いた高橋三千綱の「九月の空」、自樺派の代表的な存在だった武者小路実篤が二人の青年の友情や愛憎劇を写実的に

常に「準備」をする。

早朝の日比谷公園の散策で出会った枯れ木たち。 彼らを見ていると、チェコの作家カレル・チャペックのことばを思い出します。彼らは決して「もう枯れている木」なのではなく「目に見えない未来を秘めてすでに支度している木」なのだといっているのです。 どんな未来が来るのかはわからないけれど、こういう未来が来るだろうと想定し、「現在」を準備期間として必要なことをする、それが「現在」を生きているということなのだ。 そう考えて常に「準備」をして生きることが大事だろうと思います。 「準備」

「当事者性」の話。

いまも「当事者」であることと「当事者性」を発揮できることはセットである、と誤解されているようです。 例えば、聴覚障害があるということだけで即「当事者」としてみなされますが、それに加えて、自身の困っていることを自覚し、相手にそれを共有できることばで聴覚障害の問題やリアリティを語ることができる、というように「当事者性」を発揮できるともみなされがちなのです。 しかし、困っていると言いたくても言えない抑圧状況を長く経験し、その結果「当事者性」を発揮できないように抑圧された身体にな

「ロールモデル/スティグマの対象」の話。

かつて聴覚障害児を持つ親や教育関係者の方々は、私のことを「聴覚口話法に失敗した人」「健聴者モデルに近づけられなかった人」と評価していました。また、学校教員の方々からも、当事者教員の早急の確保が必要であるなかで私はあえて大学院進学の道を選んだため、「聴覚障害のある子どもの気持ちがわからない人」「聴覚障害教育を真剣に考えていない人」などとご批判をいただきました。 しかし最近は、そうしたスティグマを張られることは少なくなり、むしろ成功例であるかのようにみなされることが多くなりまし

自己を物語ることで様々な「私」が繋がる。

自分が心理的あるいは精神的に脅かされるような課題に対峙した時、様々な「私」が埋没化し、その課題にもっとも強く関連する「私」のみが前景化あるいは表面化してしまうことが少なくありません。 オランダの心理学者H・ハーマンスは、M・バフチンの「多声性(ポリフォニー)」をもとに概念化した「対話的自己」で、次のように述べています。 「私(I)」は状況と時間の変化に応じて、あるポジション(自己の世界にいるさまざな私や他者)から他のポジションへと空間のなかを移動することが可能である。「私