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「当事者性」の話。

いまも「当事者」であることと「当事者性」を発揮できることはセットである、と誤解されているようです。

例えば、聴覚障害があるということだけで即「当事者」としてみなされますが、それに加えて、自身の困っていることを自覚し、相手にそれを共有できることばで聴覚障害の問題やリアリティを語ることができる、というように「当事者性」を発揮できるともみなされがちなのです。

しかし、困っていると言いたくても言えない抑圧状況を長く経験し、その結果「当事者性」を発揮できないように抑圧された身体になっている「当事者」の方が実は多いのです。いざという時に発揮することが求められても、相手と共有できる言葉が見つからないために発揮の仕方がわからず停滞していることもあります。

逆に、今のままで大丈夫、問題ないと「当事者」は思っていても、周囲から見れば、いや今のままでは問題だ、今のうちに考えた方がよいとみなすこともあります。

彼らのような「当事者」に「困ったことがあったらいつでも相談しにきてね」「最近何か困っていることはある?」「(詳しく話を聞かず)このような方法でやってみた方がうまくいくんじゃない?」といったような内容で話しかけることは、一定の限界があるということも考えねばならないでしょう。

当事者自身にとって、「当事者性」を発揮することは、自分の困っていることを、自分なりのことばで、しかし他者とも共有できるように外在化することを求められることである、ということになるかもしれません。この場合、この外在化は、必ずしも自分ひとりでできることではないと思います。

しかし残念ながら世間では「当事者性は、最初から当事者の内に在るものだ」という思い込みがまだあり、当事者が何も言っていないのだから何も問題はない、と判断されてしまうなど事態がややこしくなることもあります。

むしろ「当事者性」は、当事者と他者との間で「確定共有」されるものではないかと思います。他者は、自分と同じ当事者でもいいし、いわゆる支援者(医療、福祉、教育等に従事する者)でもいいと思います。

実際、その「確定共有」の実践はすでに行われています。成人になった当事者同士で自分は本当に何に困っているのか、なぜ困っているのかを自分なりのことばで紡ぐように共同語りをしてみたり、特別支援教育では本人の意図の有無にかかわらず発せられることばから本当に困っていることは何かを捉え、その捉えた内容を本人のわかることばで返して確認してみたりしています。

このような経験を通して、当事者は「当事者性」を覚知し、発揮するようになっていくわけです。その意味では、ここでいう「当事者性」は、現象学における「間主観(主体)性」に近いものだと考えていいのかもしれません。また、いわゆる支援者に「当事者性」を確定共有できる係わり手としての専門性が求められるともいえるでしょう。

私自身、聴覚障害のある当事者であり、大学教員として当事者を支援するような仕事をしています。そうだからなのかわかりませんが、周囲から「聴覚障害をめぐる諸問題について当事者の視点でお話しできるはずだ」と期待され、これまで関わったことのないテーマも含めて講演、研修や研究関係の依頼がいつも来ます。

教育系大学教員でろう・難聴当事者がまだ私ひとりだけであることを鑑みると、やはり使命感からできる限りすべて引き受けて自分なりの管見を伝えるのですが、実際は自身の「当事者性」を自分自身で外在化しなければならないことが多く、かつどこか「当事者性」がモノ化して消費されているような感じもあって非常に疲れてしまうことも少なくありません。

ともあれ「当事者はみな、当事者性を発揮できる人である」という見解はひとまず括弧に入れた方がよいのではないでしょうか(現象学でいう「エポケー(簡単に言うと判断保留)」です)。

そして、自分は、目前の当事者にとって「当事者性」を発揮できる(しやすい)他者になれているのかどうか考えてみる必要があるでしょう。このように「当事者性」を実存的に問うことが大事なのではないかと思います。