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常に「準備」をする。

早朝の日比谷公園の散策で出会った枯れ木たち。

彼らを見ていると、チェコの作家カレル・チャペックのことばを思い出します。彼らは決して「もう枯れている木」なのではなく「目に見えない未来を秘めてすでに支度している木」なのだといっているのです。

どんな未来が来るのかはわからないけれど、こういう未来が来るだろうと想定し、「現在」を準備期間として必要なことをする、それが「現在」を生きているということなのだ。

そう考えて常に「準備」をして生きることが大事だろうと思います。

「準備」 
カレル・チャペック著   小松太郎訳

自然が休養をする、とわたしたちは言う。

そのじつ、自然は死にもの狂いで突貫しているのだ。
ただ、自然は、店をしめて鎧戸(よろいど)をおろしただけなのだ。しかし、そのなかでは、新たに仕入れた商品の荷をほどいて、抽斗(ひきだし)ははちきれそうにいっぱいになっている。

これこそほんとうの春だ。いまのうちに支度をしておかないと、春になっても支度はできない。未来はわたしたちの前にあるのではなく、もうここにあるのだ。未来は芽の姿で、わたしたちといっしょにいる。いま、わたしたちといっしょにいないものは、将来もいない。芽がわたしたちに見えないのは、土の下にあるからだ。未来がわたしたちに見えないのは、いっしょにいるからだ。

ときどきわたしたちは、水気のなくなった、いろんな過去の思い出につつまれて、すえた匂いをはなっているように思われることがある。
わたしたちは現在とよぶ古い作り土のなかに、どんなにたくさんの太った白い芽がぐんぐん伸びているか、どんなにたくさんの種がこっそり芽を吹き、どんなにたくさんの古い挿木苗が、いつかはかがやかしい生命に燃え上がる一つの芽となって、生きているか、もしもわたしたちがそれを見ることができたとしたら、秘められた将来の繁栄をわたしたちのなかにながめることができたとしたら、おそらくわたしたちは言うだろう。
―おれたちのさびしさや、おれたちのうたがいなんてものは、まったくナンセンスだ。いちばん肝心なのは生きた人間であるということ、つまり育つ人間であるということだ、と。